この文章を読むまえに、必ず
は読んでおいてください。
状況をもう一度整理しますと、
人類は、20世紀までは科学を発展させつつ、種としての障害はなく生きてきた。一般人は、このまま21世紀も生きていくつもりであった(可能性1)。
しかし、20世紀末には科学の力(知恵の実)により生命の神秘(生命の実)を手にいれようとしており、使徒(神の使い)による罰を受けるべき状況が生まれていた。このままでは、人類は滅亡するか(可能性2)、科学の発展を(少なくとも部分的には)あきらめざるをえなかった(可能性3)。どちらにせよ、人類が今まで通り生きていくこと、つまり(可能性1)は不可能となった。
ここで、ゼーレは、死海文書の解読をもとに、人類の愚かさの歴史を清める方法を発見した。贖罪し、始源に還り、新生する道が見えたのである(可能性4)。そのための福音をもたらすものとして、エヴァンゲリオンシリーズの製造にはいった。ゼーレの力は強大であり、反対者を殺すことなど何でもないため(DEATHより)、この時点で可能性2と可能性3は消えた。
これに対して、ゲンドウ・ユイは、始源に戻るのではなく、エヴァを使って全ての魂を一つにし、人類が単体としての神になる道を考えた(可能性5)。ただし、ゲンドウは欠けた心の補完という点に力点をおいていたのに対し、ユイは、人が永遠に生きるという点に力点をおいていた。冬月は、最初は可能性1を考えたものの、その選択は不可能であることを理解し、さらにゼーレの動きを止める力は誰にもないことに気づき、罪にまみれても人は生きるべきという視点から可能性5を選んだ。
ミサトは、独自調査の結果、ゲンドウの計画についてはおおまかに理解した。そして、使徒を全て倒した25話時点においてのみ、(可能性1)が復活したことに気づいていたのかもしれない。とにかく、彼女は、使徒がいなくなり、人がATフィールドで傷つけあいながらも生きていく、生き方を望んだ。この思想は、加持からカプセルと共に引き継ぎ、シンジへ十字架と共に引き継がれたものでもある。
以上により、どのような選択がありえたかがはっきりしたと思います。
可能性1は、そのまま実行すれば、可能性2か可能性3で終わったでしょう。
可能性2は、人類の純粋な滅亡です。
可能性3は、ありえたかもしれない選択です(企画段階のエヴァはこれです詳細別論)。
可能性4は、人類の問題を対処療法ではなく根本的になくそうとするものであり、それなりに評価されるべきです。キリスト教的観点からは、もっとも正しいでしょう。
可能性5も、人類の問題を対処療法ではなく根本的になくそうとすうものであり、それなりに評価されるべきです。キリスト教的観点からは、もっともひどい、悪魔思想そのものでしょうが(参照:エヴァは悪魔か)。
実際には、可能性4、5経由の可能性1となりました。しかし、最初から可能性1を選ぶことはできなかったはずですし、それぞれの人がそれぞれの立場で最大限努力したことにより、初めて生まれた、結果だと思います。
どの立場をとっても、正しいとか、間違っているとかいえないでしょう。
どの可能性を評価するかは、作中の人物にとっても人それぞれであったように、この作品を見る人にとっても様々でしょう。そして、このことは、この作品のもっとも大きなテーマのひとつでもあるはずです。
TV26話
伊吹「現実を見る角度、置き換える場所、少し違うだけで、心の中は大きく違う」
加持「真実は人の頭の数だけ存在する。」
ケンスケ「だが、君の真実は一つだ。狭量な世界観で造られ、自分を守るために変更された情報。ゆがめられた真実さ。」
トウジ「ひと一人が持ち得る世界観なんて、ちっぽけなもんさ」
ヒカリ「だが、人はその自分の小さなモノサシでしか、物事をはかれない」
アスカ「与えられた他人の真実でしか、物事を見ようとしない」
ミサト「晴れの日は気分良く」
レイ「雨の日は憂鬱だ」
アスカ「と、教えられていたら、そう思いこんでしまう。」
リツコ「雨の日だって、楽しいことはあるのに」
冬月「受け取りかたで、別モノになってしまう脆弱なものだ。人の中の真実はね」
加持「人間の真実なんて、その程度のものさ。だからこそ、より深い真実を知りたくもなるがね」