●終着の浜辺

 

大森 ではこのあたりで――ほんとはもうちょっとあとまでとっておこうかと思ってたんですけど――エヴァに関しては避けて通れない、弐拾伍話、最終話についてうかがいたいんですが。林原めぐみさんのラジオ番組で、正確には覚えてないですけれど、なぜああいう結末になったかについて、「おれはアニメオタク、アニメファンが観たいものを作ったんじゃない。観なければならないものを作ったんだ」みたいなことをおっしゃってましたよね。

 

庵野 ああ、そうですね。現実に帰れという言葉ですね。

 

大森 それは嘘じゃなくて、正直な気分。

 

庵野 そうしたほうがいいと思ったんですよね。ぼく自身もそうしようと思います。

 

大森 現実に帰れ。

 

庵野 ええ。1度帰ってみてそこからもう一回出ていくのもいいと思いますけどね。オタクってオタクの世界しか知らないんですよ。ぼくもそうです。世間知らないっすからね。でも、なんか自分のものさしが限界だと思ったときにはやっぱり、他人のものさしと照らしあわせて、その誤差を修正するしかないと思ってます。

 

大森 うんうん、それも梅原さんの話とつながる部分がありますね。出稽古に行かなきゃだめだ、と。自分の部屋だけで相撲をとってちゃ新しい技が出ない。

 

庵野 そう思いますね。パソコン通信とかって危険だと思いますね(笑)。

 

大森 それもまたかなり物議をかもした発言ですよね、ラジオで言って。

 

庵野 そう思いますよ。あれ、ほんと危険ですよ。はやく気がついたほうがいいと思いますよ。危険な場所にいるということを。気がついている人はいいんですよ。あまりにも気がついていない人が多いということが問題なんですよ。便所の落書きですからね、あれ。えんえんとレスが続いてる。くだらない落書きと、ものすごくいい発言が同じ場所に書いてあるというのがぼくは問題だと思うんですよ。

 

 膨大なその量にまぎれてほんとに見出さなきゃいけない価値のある情報というのがわからなくなってきている。プラス100の情報もマイナス100の情報も同じ場所にあってですね、相対化されないんで、同じ価値観になっちゃってるっていうのがぼくはまずいと思うんですよ。またそれを検証する術もない。

 

 パソコン通信というメディアはすごく発展性があると思ってるのですけどね、やってる人があまりにも、なんか幼稚すぎるというのが気になります。まともな人はいますよ、もちろん。

 

大森 ただ、そのエヴァンゲリオンの弐拾伍話、最終話について言うと、逆にオタク系じゃない一般視聴者はいっさい切り捨てて――。

 

庵野 切り捨てちゃいましたね。

 

大森 たとえば子供が3人いて、家庭円満で、毎日楽しく会社に通ってお金を稼いでいるような人にとってほとんど必要のないエピソードだったわけですよね。

 

庵野 余計なお世話ですよね。そういう人から見れば。

 

大森 で、そういうメッセージを受け取るべき人っていうのは、そういうことを言われたくない人たちですよね、主に。

 

庵野 と、思います。

 

大森 メッセージが通じる相手は、それをもっとも反発するだろう人たちだというのは、当然わかっていたわけですよね。

 

庵野 まあ、怒られるというか、怒るだろうし、まあ、自分でもどうかなって、思いますよね(笑)。でも、あれ、自分で自分に言っちゃったんですよ。自己への退行ですよね、あれ。あらためて考えてみると、結局、ダーッと突き進むつもりが閉塞感のなかに取りこまれてしまったラストっていう感じですね。そこに安らぎっていうか、行き着いてしまったというか。

 

大森 最後の拍手は?

 

庵野 うすら寒いですよね。あれ。

 

大森 それで救われたとか、めでたしだと思ってはいけない。

 

庵野 ん、いや、めでたしめでたしと思う人もいるでしょう。ぼく自身はあまりめでたくなかったですね。結果的には。

 

大森 弐拾伍話、最終話までにいろいろあったんですよね。詳しくない人のためにざっと説明しますと、『死海文書』というのがありまして、その予言どおりに16の使徒が襲ってきてそれと闘って、全部倒すと、「人類補完計画」が発動する――と作中では言われてて。それに関していろんな組織がいろいろ裏で画策しているという複線がもう山のように張り巡らしてあった。

 

 で、弐拾四話で最後の使徒が倒されて、いよいよすべての謎が明かされるっ・・・・・・と思いきり盛り上がったところで、弐拾伍話がはじまると、いきなり体育館みたいなところに男の子がひとりすわっている。そこにスポットが当たって、その背後に立つ登場人物がいろんな言葉を投げつける。それをずっとやっているのが、弐拾伍話、最終話なんです。

 

 まあ、最終話には、多少のサービス――フレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙』みたいな、パラレルワールド学園篇ですね――もあるんですが。とにかくぼくは、単純に、ものすごく驚いたんです。実験映画ならともかく、TVアニメっていうか、商業的な映像で、あそこまで、たいへんなことをした例はないだろう。

 

庵野 まあ、ないでしょうね。

 

大森 ふつうそれは確信犯ではやらないわけじゃないですか。<ジャンプ>の連載打ち切りみたいに、最後がバタバタなやつっていうのは少なくないんですけど、そういうのとはまったく違う。やはりラジオの番組で、”ライブ感覚”というようなこともおっしゃってますが、あれは明らかに、監督が意図したとおりのものができてるわけですよね。弐拾伍話、最終話に関しては。

 

庵野 ああ、そうですね。はい。

 

大森 反対意見とか、そういうのはなかったんですか(笑)。

 

庵野 あのー、「”落ちる”よりはまし」ってやつですよね(笑)。方法論はまあ、いろいろあるんですけど、スケジュール的にはですね、12月の早い段階、もう11月の末の段階で、崩壊してたんですよ。

 

 壱話から拾弐話までつくるのに2年近くかかってて、放送が始まったとき、その作画まで入ってるのが拾弐話ぐらいまでだったんすけど、残り半分はあと半年でやらなきゃいけない。どう考えても無理なんですよ。不可能なんすね。それでも、やるとこまでやってみようと。奇跡的に拾九話まではもったんです。で、そっからどんどんどんどん、崩壊していって、もう弐拾伍話、最終話は落ちるかどうかの瀬戸際だったんですね、ほんとに。

 

 あとはですね、ぼくがもっとバカじゃなくて、賢いっていうか、大人の判断ができる人間なら、弐拾伍話、最終話はビデオ編集にして、落すことも可能だったんですよ。あちこちに頭下げて謝って、とにかく、申し訳ございません、と。

 

 そうなったときには、まあ、あちこちのアニメ誌とかラジオに出てとにかく平謝りに謝ってですね、土下座しまくって、もう時間がなくって、ここまでしかできませんでした、残りはビデオとLDで必ずなんとかいたします。と言えば、同情票が集まってですね、LDは売れるわ、お客が怒ることはないわ、すべて八方丸くおさまるんですよ。制作会社の方に少し傷がつくだけで、責任っていうのはぼくに押しつけられますから、「とにかくうちはがんばったんだけど、庵野がひどいんだよ」と言えば済むんですよ。すべてぼくが責任をとって、テレビ東京さんの方にも、申し訳ございませんでした、すべてわたしの責任です、ですべて八方丸くおさまるのをわざわざ捨てて、あれをやっちゃったんすよね。バカですよね、もう。(笑)

 

大森 いや、でもその結果、テレビ番組としては画期的な、革命的なものができた。でも、でたらめの結末をつけたとか、そういうわけじゃないですよね。

 

庵野 ええ、やりたかったんすよ。ああいうの。

 

大森 SFの方でいうと、たとえばスティーヴン・バクスターの『時間的無限大』に、「最後の観察者が観察した事実にすべてが収束する」という話があるんですね。それで行くと、ああいう弐拾伍話、最終話が最後に来たことで、それまでのエヴァ24話分のエピソードが、すべて全然違う方向から読みかえられちゃうんじゃないか。つまり、アニメファンが期待していない”現実”に波動関数が収束しちゃった。つまり、エヴァの存在理由にしても、エヴァに乗ることによってしか自己実現できない人たちを登場させるためにエヴァが要請されたのだ、とか、「人類補完計画」にしても、最後にああいう形で登場人物の内面を描写することを可能にするための装置だったのだとか、そんな読みかえもできるわけですよね。

 

庵野 まあ、可能ではありますけど、やめた方がいいと思いますよ(笑)。

 

大森 ぼくはSFだと思ってずっと観てましたから、最後でやや愕然として。で、いったいどうすれば、最後までSFだったっていうことになるんだろうとずっと考えてたんです(笑)。弐拾伍話、最終話を観たあとで、なおエヴァンゲリオンは現代SFの最先端だと言うためにはどうすればいいのか。で、その結論が、あれはインナースペースの物語である、と(笑)。だからあれはニューウェーヴだと主張することにしたんですが(笑)。

 

庵野 でも、それは嘘じゃないんですよ。結局ぼくのインナースペースですからね。だからそれは、マチガイじゃないんですよ。

 

大森 エヴァに搭乗して敵と闘うというアウタースペースを捨てて、インナースペースにフロンティアを求める――というか、結局そこがもっとも重要な部分であるという。

 

庵野 いや、自己への退行に逃げるしかなかったということだと思うんですけど。そうしないと、俺は死ぬか気が狂うしかなかったんすよ。そこまで、追いつめられてましたから、精神的には。かなり。いまここにいるのは奇跡なんすよ。よく、死ななかったもんすよね。1回、危なかったんすけどね。

 

大森 そうなんですか。そんなに。

 

庵野 ええ、1度危なかったっす。精神状態。

 

大森 エピソード的には、碇シンジという主人公が、人間関係においてコミュニケーションがうまくとれない。あるいは父親との関係に大きな問題がある。そういう少年が幸せになる可能性は、それまでにいくつかあったわけですよね。

 

庵野 どうでしょう。いや、終わってしばらく、ほんとになんにも考えられなかったんで、まだそこまで検証してないんですよ。検証してもう1回やり直さなきゃいけないんですけどね、今度。弐拾壱話からだめなんですよ。ぼくがおかしくなってるのがやっとわかりましたから。おかしくなってましたね、あれ。

 

大森 いやあ、まあ、「監督補完計画」を、とかいう話もあちこちに出てましたけど(笑)。だいじょうぶか、みたいな。

 

庵野 だいじょうぶじゃなかったですよ。どうみてもおかしいですよ。それがそのままフィルムに出てますよね。壊れてますよね。まあ、その壊れてるさまもまた美しいといえば、美しいですけど。

 

大森 要するにTVアニメっていうのは、そういうかたちでの作家性がナマのかたちで出てきにくい表現媒体ですよね。小説だったら、最後ぐしゃぐしゃになってもそれは本人の問題ですから、編集者ひとりがオーケーすればそのまま本のかたちになっちゃうことがありますけど。ふつうアニメだと、そこまでにいろいろチェック機構があるから、ああいうストレートな形で作家の個性が出ることは珍しいですよね。

 

庵野 まあ、そうですね。全部ぼくがおさえてしまったっていうのも問題といえば、問題なんすけどね。

 

大森 まあ、そのへんの話を突っこみはじめるとキリがないというか、「語るべきことはあまりに多く、残された時間はあまりにも少ない」ということで(笑)。

 

庵野 ええ。

 

大森 「庵野秀明の場合」を始めると、たぶんまだ5時間くらいかかりそうですね。

 

庵野 昨日12時間くらいかかりました。

 

大森 昨日、マンガ家の渡辺多恵子さんと12時間話をして少し見えてきたところがあるとか。

 

庵野 いいっすね。あの人。

 

大森 かなり、意外な組み合わせですね、それは。というわけで、会場のみなさんが期待しているかもしれない、「ロンギヌスの槍の秘密は?」みたいな話をいまからうかがうのも無理でしょうが。

 

庵野 謎解きの部分は、とりあえずビデオを待ってくださいっていうしかないすね。ビデオでるのかなあ、それは聞いてないすけど。少なくともLDは。

 

 


次のページへ