●リスの檻

 

大森 SF者の場合、カッコよさだけで選ばれた名前に過剰に反応しているところはあるでしょうね。特に最終話のタイトル、「世界の中心でアイを叫んだけもの」が、弐拾伍話の最後の予告で出た瞬間、「おお、おれはSFを読んでてよかった」と感激したSF者はいっぱいいたんです(笑)。なにも知らない若いアニメファンにむかって、「いやあ、最終話にエリスン持ってくるとはね。あれ、知らないの、ふつう誰でも知ってるぜ。アメリカンニューウェーブでいちばんカッコいい作家だよ」とか自慢できた。だからSFファンはみんな庵野さんに感謝してるんです(笑)。「人類補完計画」っていうのも、やっぱり語感ですか?

 

庵野 そうです。スミスもそんなには読んでないんですね。SF、最近読んでなくって。『エンダーのゲーム』が最後なんですよ。申し訳ないっす。そんな人がここに来て。

 

大森 ただ、無意識にしろ、現代SFと非常にシンクロ率が高いと思うのは、たとえば、さっき例に挙げたダン・シモンズの『ハイペリオン』。これは昨年、続篇と合わせて日本のSF界の話題を独占した作品なんですが、これまた、絵に描いたようなSFの道具立てを使ったり引用をちりばめたりしながら、同時に現代的なリアリティを出すことに成功している。しかも重要な共通点は、この小説も結末を回避するというか、色んな謎が出てくるんだけど、ちゃんとその謎に答を出さない(笑)。

 

庵野 ハヤリですかねえ。同時多発的なもんですねえ。最近、よく聞くんですよ。映画とかでも。

 

大森 アニメの場合は、結末を回避するっていうか,、諸般の事情でちゃんと結末がつけられなくなってしまった作品は、過去にもいろいろありますよね。でもSF小説の場合は一応、最後まできたらそれまでの謎は解決されるのがふつうなんです。例外的に解決されないSF―― 一部のニューウェーヴ作品とか――だと、解決されないことに意味があると解釈される。ところが『ハイペリオン』の場合、1冊で完結しなくて『ハイペリオンの没落』という続篇があり、またまた壮大なスケールの話が展開するんだけど、やっぱり終わらなくて、また次に『エンディミオン』ていう作品がある。で、今度はそれがどうやら3部作になるらしい(笑)。これは永遠に終わらないかもしれないみたいな疑惑がありながら、にもかかわらず高く評価されている。この作品についても、先行するSF作品からの引用とか、ジャンル意識がすごく高いんです。

 

 エヴァの場合だと、地下基地からロボットがゴゴゴーっと発進する、もう絵に描いたような場面、アニメ者の血が熱くたぎるようなシーンが随所にありますよね。でもそういう部分って、ふつう大人の鑑賞にも耐えるアニメをっていうと、最初に切り捨てられるでしょ。たとえば、士郎正宗さんの『攻殻機動隊』をアニメ化した押井守さんの『GHOST IN THE SHELL』とか、あるいは大友克洋さんの『AKIRA』とか。まあ劇場用とTVアニメの違いはあるにしても、アニメのおたく的な部分、熱く燃える部分を捨てて、「ひとつの映像表現としてのアニメーションの可能性を追求する」みたいな話になるじゃないですか。その点、エヴァンゲリオンには、TVアニメという出自に対するこだわりをすごく感じる。

 

庵野 まあ、アニメですからねえ。アニメはアニメなんですよ。でも、なんか、押井さんとかがそういうの切り捨てるのわかるんですよ。アニメ、嫌いなんですよ、押井さん。信じてないですよ。ぼくもアニメを信じなくなってから今のができたんですけど。これは、わかりづらい話なんですけど、アニメーションって、あっ、何もできないやって思ってはじめてエヴァンゲリオンができたんですね。

 

大森 逆に可能性を信じてると―――。

 

庵野 そこにどっぷり入ってしまうんですよ、なんか。

 

大森 『トップをねらえ!』のころは信じてたんですか。

 

庵野 そうですね、信じてましたね。なにかあるんじゃないかって思ってましたね。岡田さんと一緒にやってた『オネアミスの翼 王立宇宙軍』っていうやつがあって、それが当時世間ではなんにも評価されなかったんですよ。

 

大森 ぼく、キネ旬の邦画ベスト10で1位にしたんですけど(笑)。

 

庵野 ええ、大森さんだけでしたよね。

 

大森 それで岡田さんかだれかに怒られたんですよ。おまえさえ入れなければ、1票も入らなかった映画として歴史に残ったのに、とか(笑)。

 

庵野 それはぼくはどうかと思いますけど。『トップ』も入ってましたね、キネ旬のベスト10に。まあ、そんなふうにあれが全然だめで。特にアニメやってる人たちにも全然だめで。そのとき、けっこう失望したんですよ。

 

大森 『オネアミス』の場合はむしろ、おたく的な部分を徹底的に排除してますよね。

 

庵野 ええ、一般映画として出そうと。

 

大森 いわゆる日本の青春映画っていう。

 

庵野 あれは、いい映画なんですよ。アニメじゃないっす。いい映画なんです。で、それが評価されなくてですね、アニメもだめかもしれない、初めてそう思ってですね、それからOVAというのがどんどん出てきてですね、どんどん閉塞していったんですよ、アニメーションの世界が。特撮と同じだと思うんですけどね。

 

大森 いや、SFとおんなじです。

 

庵野 いや、SFと同じですね。避けたんですけどね、その言葉を。SFとおんなじで、どんどん閉塞していってですね―――。

 

大森 いや、だから、いまのアニメの状況とSFの状況ってわりとシンクロしてるかなっていう気分があったんですよ。

 

庵野 もう、作り手と買い手が決まった世界になっちゃって。だから、作り手が気持ちいいもん作ったら、買い手も気持ちいいんですよ。1万いくらの経済的なやりとりができて、それが1万人いれば、オッケー。経済として成り立っていくんですよ。っていうことは、そっから外にもう出なくなっちゃったんですね。

 

大森 それはさっき、『ソリトンの悪魔』の梅原克文さんがおっしゃってたこととまったく同じですよね。SFも書き手と読み手のあいだで閉じた世界になってるんじゃないかっていう。

 

庵野 閉塞感がすごくイヤんなって、そのときやった『トップ』というのは、なんていうか、ロボットアニメとか、SFとか、そういうのをやっても、なんか違うものができるという、そういうのをやってみたんですけど。あと、パロディっていうか、そういうものに対する、否定的な意味合いっていうんですか、なんかそういうのがどんどん蔓延しつつあったので、それですら方法論になるんだというのを、ちょっとやってみたかったんですよ。

 

 パロディ論の肯定っていうんですか、そのときはそんなに考えていなかったんですけど、終わったあと考えたら、要するにぼくらの世代っていのは何もないんだ。テレビしかない。四畳半にある四角い魔法の箱ですよね。あそこからすべての情報をいながらにして、ニュースも、浅間山荘っていうのがぼくらの世代には大きいんですけど、ああいうものがリアルタイムに観られる。なんかもう、銃撃戦っすよね。殺し合いっすよね。殺し合いがリアルタイムに観られるんですよ。これがすごかったんですよ、子供心に。こんなもんがお茶の間にいて、お茶の間って言葉はもうないかもしんないですけど、お茶の間にいて観られる。

 

 まんがとか共通体験のテレビというのは要するに、土曜日に『キューティーハニー』を観ていると、次の週に学校に行ったときに『8時だよ、全員集合!』を観ている友だちと話があわない。これはもう社交性がなくなってしまうんですよね。『キカイダー』を観たいんだけど、友だちと話をするためには『8時だよ、全員集合!』をがまんして観なければいけないんですよ。おたがいに話をするために同じテレビを観なければいけないんですよ。ぼく、『仮面ライダー』って8話以降、きらいなんですよ、でも観なきゃいけないんですよ、2号ライダーも。そうしないと友だちと話ができないんですよ。テレビというのが、共通体験なんですね。おたがいの言葉としておたがいの体験として出てきたものが、それしかない。アニメとかマンガとか特撮とか、それしかないんですよ、ぼくらには。

 

 これがいわゆるオタクっていうものを作って土壌だとぼくは思うんですけどね。でも、それを認めたがらない人がやたらと多いんですよ。それがぼくはいかん、と思うんです。ぼくらにはテレビしかないんだ。それを認めたときに何ができるんだろうというところから出発したのが今回なんですけどね。

 

大森 たしかに、水曜日にテレビを観ていないと話ができないという状況は再現されてましたね(笑)。去年の秋から今年3月まで、水曜日を中心に世界がまわっていた。6時半からのエヴァの放送が終わるとそれから夜中までずっと電話してる人とか、すぐにモデムがピーとか鳴って、そのままパソコン通信に描きにいく人とか。確実にひとつの共通体験というか、少なくともいまわれわれはエヴァを共有しているっていう感覚がずっとあった。

 

庵野 まあ、それがカルチャーになってくのかなあ。ていうか、サブカルチャーの域は出ないんですけどね、絶対に。でもまあ、それしかないすから、しょうがないっすよね。

 

 


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