ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 の位置づけについて
完結から10年ぶりの新作となる「ヱヴァンゲリヲン 新劇場版」公開に向け、庵野監督が異例の所信表明を行なった。
注目すべきは、庵野監督が、エヴァ制作時の12年前に言っていたこと(自分の気分のフィルムへの定着、アニメの面白さを伝えること、閉塞感の打破など)を再度繰り返し、「今一度これらの思いを具現化したい」と言っていることである。
そして、エヴァンゲリオンという作品をこう定義する。
庵野監督「エヴァは繰り返しの物語です。主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意志の話です。」
「逃げること」と「前に進もうとする意志」の繰り返しの物語として定義されたエヴァ。
そして、12年の歳月をはさんで同じキーワードで繰り返される庵野監督の言葉。
デジャヴのような感覚を覚えながら、「エヴァンゲリオン」と「ヱヴァンゲリヲン」の物語制作の反復(繰り返し)の間に何があったか思い出してみたい。
まずは、今回の庵野監督による日本アニメ界への危機感の表明と、その危機感に基づく新作の発表の意味について考えてみよう。
覚えている人は少ないだろうが、先にも書いたように、12年前にも、同じことが行なわれた。
庵野「現在の日本のアニメーションは、まさにそんな状態で、単に自己防衛に希望を語ってごまかそうとしているにすぎないんです。ついでに言うならば、情報誌的な形態を取りつづけているアニメ誌も同様でしょう。
今やアニメといえばマンガやゲームからの輸入ものがほとんどです。それは、スポンサーもつくり手も観客も、その必要をさして感じていないからでしょう。自分が好きなマンガなどがセルになり、好きな声優さんたちの声が聞こえればそれでいい、ということなのではないかと思います。アニメ自体はすでに2次的なモノでしかありません。メディアの核としての力はもうすでに失ってしまっているのではないか、と感じもします。そのような状況に、僕は失望しています。」(1995年 エヴァ企画時のニュータイプ誌インタビューより)
(参考)インタビュー詳細は以下を参照
資料集1.NEWTYPE95年1月号 クリエイター対談「庵野秀明×貞本義行」
この12年(劇場版完結からは10年)という時間は何だったのだろうか?
当時も、庵野監督は、日本アニメ界への危機感を訴えた。
そして、作った。
「新世紀エヴァンゲリオン」という作品を。
ただ、庵野監督は、日本アニメのためといいながらも、使命感だけで作ったわけではない。
庵野「もちろん、自分のためです(笑)。モノづくりの理由にはごく、個人的なものが常にあります。それ以上は今、ここで語る必要はないでしょう。」
もう少し詳しく言うと、それまでの4年間、壊れて、何もできなかったことに対する、「逃げちゃダメダ」という自分への思いから作ったのだ。(コミックス1巻後書きより)
そして、エヴァンゲリオンは爆発的にヒットした。
だが、その途中で、明らかに庵野監督は、その爆発的ヒットがまきおこした現象に、自ら耐えられなくなり、(「監督不行届」に記載されている表現によれば)崩壊した。
その帰結が、映画完結編における、「現実へ帰れ」という、オタク批判であり、ある意味、映画を見に来た人々、エヴァに熱中する人々への批判であった。
そして、庵野監督は、基本的にはアニメ界から離れた。
もともと、日本アニメの未来のために作った作品であったにも関わらず・・
今回、12年前と全く同じことを庵野監督は言っている。
日本アニメ界への危機感。
言っていること自体は全く正しい。
ヤマト、ガンダム、エヴァンゲリオンと、周期的にやってきていたアニメの革新と大ブームが、ここ10数年、来ていないのだ。
アニメの平均的なレベルは、むしろ高くなっていると思う。
また、アニメ世代の年齢が上がったことにより、ある種の市場、いわゆるオタク市場は、かつてより金額的には大きくなったのかもしれない。
かつてより、アニメがグローバル化し、一見華やかに見えるのも確かだろう。
だが、かつてのように、アニメが社会現象化することはなくなったし、インパクトのある存在ではなくなったと、私も正直思う。
それを憂えて、庵野監督は、戻ってきた。
しかし、これまで、どこで何をやってきて、そして何を考えて戻ってきたのだろうか?
もう少しハッキリ言えば、なぜ、オタク批判後に実写に場を移し、そして今回また戻ってきたのか?
私は、庵野監督は、天才だと信じていた(今でも信じている)。私は、だからこそ、実写でも、その才能を発揮し、世界を席巻するだろうと、10年前考えていた。アニメ好きから見れば寂しい話ではあるが、それも仕方ないだろうと・・
だが、庵野監督の実写作品群は、思わぬ方向に進んだ。
庵野監督の実写作品に一定の評価を与えている宮崎駿監督はこういう。
「実写に逃げやがって、あの野郎。あれ、逃げですよ。ただの」
現実に帰れ、というメッセージをアニメファンに残して実写の世界に場を移した庵野監督は、実は、自分こそ、単に逃げていただけなのだろうか?
「ラブ&ポップ」については、当時、宮崎駿監督とは以下のような会話がなされた。
宮崎 あの実写(ラブ&ポップ)は、『エヴァンゲリオン』の厄落としみたいなものなの(笑)?
庵野 はっきり言っちゃえば、そうですね(笑)。
「式日」では、創作意欲をなくした映画監督が主人公である。
そして、「式日」を見る限り、庵野監督は、エヴァンゲリオン制作時と何も変わっていないこと。むしろ精神的に悪化していることがわかる。
つまり、現実から逃避する女性と、創作意欲を失った男性監督の物語にシンクロしていた。
宮崎駿監督は「式日」についてはこういう。
宮崎監督
「庵野はそうですねえ、困ったですねえ。自意識の井戸なんか掘り始めてもね、そんなものはただのカタツムリが貝殻の中をウロウロしているようなもんでね、先までいったらなにもないってことはもう十分わかってるんですよ。それなのにまた回るのかっていう。
いや、その・・・『式日』っていう映画を作る前にここでアニメーション作るっていう話がちょっとあって、何度か話したことあるんですけど、庵野は「エヴァンゲリオン」の二番煎じを作るかここで死ぬかっていう状態で、そのとき39歳だったんですよ。
それで僕は『エヴァンゲリオン』の後39歳で死んじゃう、これカッコいいよって言ったんですよ。」
「生き永らえて40代に入るんだったら、『エヴァンゲリオン2』を作り続けるか、そうじゃなくて、誰かのために映画を作るか、その2つの道のどっちかを選ぶしかないって。そうしたら、実写に逃げやがって、あの野郎。あれ、逃げですよ。ただの」
(参考)宮崎監督と庵野監督のやりとりの経緯については以下を参照
資料集:もののけ姫vsエヴァンゲリオン
「誰かのために映画を作る」・・この、宮崎駿監督自身の経験に基づくアドバイスも影響したのだろうか?
庵野監督は、自分を表現するために作ったような「式日」の後、観客を楽しませることを目的に、「キューティーハニー」を作った。
だが、この作品は、庵野監督の努力(最大1シーン58テイクとったという・・)とは裏腹に、人々を楽しませるものにはなっていなかった(と、個人的には思う・・)。
私は、「キューティーハニー」を見たとき、第弐拾参話におけるアスカの悲痛な叫びを思い出した。
マヤ「だめです。シンクロ率が二桁を切ってます」
ミサト「アスカ!」
ただ嗚咽しているアスカ。
アスカ「動かない・・・動かないのよ」
現実逃避そのものをテーマにした「式日」はともかく、観客のためにエンターテイメントを目指した「キューティーハニー」は、何故、動かなかったのだろうか?
ひとつの可能性として、やはり、まだどこかに逃げがあったのではないかと思われる。
庵野監督の実写路線は、「ラブ&ポップ」の女子高生達、「式日」の藤谷文子、「キューティハニー」の佐藤江梨子など、常に女性を軸にしていた。
庵野「(村上龍の作品は)情けなさをウリにしたようなところが、まあ、(自分と)似たようなところがあるんだと勝手に思って」
庵野「女の胸で泣くっていうのは、いいと思いますよ。本当に泣きたいです。例え借り物であっても、それでその先、生きていけますからね。」(スキゾ・エヴァンゲリオンより抜粋)
庵野監督は、アニメから、実写と女性に逃げていただけなのだろうか?(これに、結婚も加えるべきか?)
貞本「(エヴァの企画時、主人公が女性だというので)庵野さんに、(いつも主人公を)なんで女にすんの?とか言った時に、けっこう怒ってね。」
「どうして女なの、どうして女なのって問いただしたんです。男を主役にしようよって。」
「そうしたら、何回かして、急にコロッと「じゃあ男にしよう」って向こうから言ってきたんです。」
河田「貞本さんの方が、現実的に逃げてないような気がするんですよ。だから黒い髪で日本人でやりましょうとか、主人公を男の子にしましょうとかおっしゃるわけでしょう。」(スキゾ・エヴァンゲリオンより抜粋)
主人公が女性か男性か、この違いは、庵野監督のような方法論の作家の場合、決定的なシンクロ率の違いが生じることは、「エヴァンゲリオン」が証明していた。
庵野「自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。ストリップしかないと思います。
基本的に作家のやっていることって、オナニー・ショウですから。それでしかないと思うんですよ。」
おそらく、「キューティーハニー」ではなく、男性主人公であるデビルマンなりマジンサーガなりを作っていれば、シンクロ率も桁違いとなり、やはり天才的なものを作ったのではないかと、私は今でも信じている。
どんな実写畑の監督にも作れないような凄い作品を作ったはずだ、と・・
(参考)なお、庵野監督の制作方法の本質については、エヴァンゲリオンのオリジナルについて参照
「式日」は、主人公の一人は確かに男性映画監督であったが、彼はただ逃げているだけだった。
その意味で、やはり、この10年間の実写作品は、宮崎監督が言うように、そして庵野監督が「式日」で表現しきっているように、現実逃避だったのだろうか?
ということは、今回のエヴァンゲリオン制作は、どう考えるべきだろうか??
12年前のエヴァ製作時と同様、これまでの10年間、壊れて何もできなかった(これは言いすぎだが、あえて12年前の庵野監督の表現に合わせた)自分に別れを告げるため、「逃げちゃダメダ」という思いで、戻ってきたのだろうか?
一点、気になる点がある。
それは、今回の再映画化が、昨年のZガンダムの再映画化に、どこか似ている点である。
どのような意味で、Zガンダムの映画化を参考にしているのだろうか?
富野監督にとって、ガンダムは、名実ともに、明らかに終わった過去の作品であった。
今回の映画化のさいも、ガンダムはターンエーガンダムで終わっていると明言したうえで、あくまでもTV版のリメイクに徹した。
そして、自分の精神の病の経験と、そこからの脱却のアドバイスを伝えるために、ラストのみを変更するという手法をとった。
(詳細はZガンダムのページ映画版Zガンダム論 ラストは何が衝撃なのか?参照
参考までに、富野監督のエヴァンゲリオン批判は、富野語録名作選エヴァンゲリオンは何故作品とはよべないのか参照
なお、富野監督と庵野監督の制作手法や個性の違いについては、イデオンのページ、イデオンとエヴァンゲリオン参照)
庵野監督にとっての、エヴァンゲリオンは、富野監督にとってのガンダムのように、終わった作品なのだろうか?
たしかに、一度はそう明言していた。
では、今回再映画化するのは何故だろうか?
庵野監督の宣言文では、12年前のエヴァ製作時と同じ理由がただ記載され、「今、一度具現化を願う」とされているだけである。
今一度、「何を願うの」か?
自分を刻印したいのであれば、オリジナル新作の方がよかったのではないか?
それとも、富野監督のように、終わった作品を変化させることで、自分の、精神上の経験を伝えるためなのか?
それとも、日本アニメのためなのか?
それとも、かつて言ったように、創作の快感なのか、それとも、商売上のヒット作を生み出したいからなのか・・
おそらく、今回も、12年前と同様、こう言うのではないだろうか?
「もちろん、自分のためです(笑)。モノづくりの理由にはごく、個人的なものが常にあります。それ以上は今、ここで語る必要はないでしょう。」
つまり、前回同様、「逃げちゃダメダ」という自分への思いからだろうか?。
それとも、エヴァでも、式日でも登場したセリフ「楽しいことだけを数珠のように紡いで生きていられるわけがないんだよ」(壱六話)ということだろうか?
そもそも、実写映画は、庵野監督にとって、「楽しいこと」だったのだろうか?
それとも、「でも、逃げたところにもいい事はなかったんだ・・」(映画THE END OF EVANGELION)ということだろうか?
もし、今回またヒットしたとしたら、その後、どうするつもりだろうか?
また、オタク批判をし、現実へ帰れ!というのか?
それとも、また「逃げる」のか?
これまでの12年を振り返って思うのは、やはり、庵野監督は、TV版エヴァンゲリオン制作終了とともに、崩壊していたのだろうということだ。(「監督不行届」の記載どおり)
そして、「現実へかえれ!」と映画を見に来たオタク批判を行ないながら、自分では、実写という世界に、逃げていたのだろう。
もし、そうであれば、(庵野監督がよくとりあげるフロイトの理論に従えば、)庵野監督の精神は、エヴァンゲリオンによって生じた傷にずっと固着していたはずである。
エヴァンゲリオン以降の実写作品群は、全て、エヴァンゲリオンによって生じた傷を埋め合わせるための代償行為、つまり埋め合わせにすぎなかったのではないだろうか?
シンジ「わからない。現実がよくわからないんだ」
レイ [虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕ひとりの夢をみちゃいけないのか」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」
だからこそ、どの作品にも、「逃げ」があったのではないだろうか?
式日など、ただ逃げているだけのエヴァンゲリオンであると思うし、他の作品は全て女性主人公である。
そして、今回、庵野監督がエヴァに戻った本当の理由は、自らの精神に生じた傷を直視し、立ち向かうことではないだろうか?
それが、「終わった」はずの作品であるエヴァンゲリオンを、再起動させざるをえない理由ではないのか?
レイ「だから、見失った自分は、自分の力で取り戻すのよ」
今回の映画化について、大月プロデューサーはこういう。
「よく誤解されるんですが、実はこの12年間、僕からは一度も「『エヴァ』の続編をやろう」と庵野さんに言ったことはないんですよ。
あまのじゃくな人なんで、そんなことを言えば、たちまちやる気をなくしますからね(笑)。
でも、やっと庵野さんから「『次のエヴァ』をつくるための”土台”を、まずつくりたい」という言葉をもらったんです。」(サイゾーより抜粋 全文は資料集 アニメがつまらなくなったのは、「新世紀エヴァンゲリオン」のせいである
この言葉は、第拾九話における加持の言葉と重なる。
「オレも強要はしない。自分で考え、自分で決めろ。」
かつて、庵野監督は、間違いなくエヴァンゲリオンという作品に、100%シンクロし、崩壊した。
正直、10年でよくまた復帰する気になったものだとも、思う。
(1ファンである私でさえ、エヴァにはまった反動は強く、最近5年以上、まともな論考は作れていないし、ビデオも見れなくなっている)
だが、庵野監督は、第拾九話のシンジ同様、一度はやめたはずの作品を、自分の意思で、作ることにした。
これまで、10年間、実写に、そして女に逃げていた、庵野監督が、自らの意思で「男の戦い」(第拾九話)に戻ったわけだ。
我々としては、シンジが第拾九話の復帰でみせたのと同様、庵野監督が400%のシンクロ率をみせてくれることを、期待するしかない。
(参考)この文章で紹介した作品群です。とくに式日は、ある面では極めてエヴァに近いものがあります。エンターテイメントではありませんが・・ジブリの実写ですし、庵野監督やエヴァの内面展開に興味があれば是非どうぞ。
なお、一番右の「彼氏彼女の事情」は、エヴァ直後に庵野監督が作ったアニメで、当時、私の掲示板では、エヴァをあっさり超えたとまで言われました。庵野監督のアニメ演出の総決算のようなものなので、未見の方は是非どうぞ。