アニメージュ 96年6月号

 

君は『新世紀エヴァンゲリオン』の最終回をどう見たか!?

 

「その全てを記すにはあまりにも時間が足りない」状況のなか「これも終局のひとつの形」として「碇シンジという名の少年」の「心の補完について語る」ことで、とりあえずTVシリーズの幕を下ろした『エヴァンゲリオン』――。その視聴者の誰もの予想を裏切ったであろう、前代未聞の最終回を含め、近年まれにみる問題作であり、同時に1st『ガンダム』以降の『アニメ』とアニメファンの在り方について、ひとつの総括を迫る作品でもあった。『エヴァンゲリオン』とはいったい何だったのか?今月は視聴者と関係者、5人に聞いた。

 

毎週のあの30分間ってのは、確実に一時は世界の中心だった

水玉蛍之丞

  最終回を見終わっていちばん重く心に残ったテーゼは「作品は作者のものか否か」ってことだったりして、そーゆー反応が出てきちゃうのはやっぱちとモンダイかもなぁ、と考えたりもするんですけど。シンジくんの心の成長――世界(の代表である父親)に必要とされようがされまいが自分の価値は自分にとって変わらない、ってことを確認したってのは、やっぱり14歳にとってはすごい成長でしょ――を描いていくための背景にすぎなかったあの世界観、それを構成していた大道具小道具が魅力的すぎて、そもそも「エヴァ」はどういう物語なのかってのを見誤ってたと思うんですよね、かなりの人が。だから使徒って結局何だったんだよ、みたいな声が、その音量の大きさを理由に(つまり民主主義的に)納得いく答えを求める権利を主張してやまない、っていう状況は、シンジくんだけが個人的にひとつの答えを手に入れたことに対するやっかみ、ととれなくもない。アイツあんなこと言ってるけどさ、アレって洗脳じゃん?とか(笑)。

  でも、毎週のあの30分間ってのは、確実に一時は世界の中心だった。現実の毎日なんて「エヴァ」との週1回の逢瀬のために支払う代償で。仕事とかで放送時間に外にいると、ああ、あんなスゴいものを見ないでへーきで暮らしてる人が世の中にはこんなにいるなんて、とか本気で思ってたもん。あの感触がいっときでも味わえたって点において、TVアニメとしての「エヴァ」は、かなり優秀な打率でシーズンを終えたバッターだったと思う。いわば背景部分の「エヴァ」の物語の決着を、LD/ビデオ版第弐拾伍話・弐拾六話って形で見せてもらえるのは、そんなわけで24話まで見誤ってた組の一員として、非常にうれしーです。意外と親切じゃん庵野さんて、とかちょっと思ったことを白状してお礼にかえつつ(笑)。

 

TVアニメ初のニューウェーヴ的SF作品として完成されている

大森望

  95年のベストSFは海外小説がダン・シモンズの『ハイペリオンの没落』、国内小説が梅原克文の『ソリトンの悪魔』、映像が「新世紀エヴァンゲリオン」である――というのが大森の持論。しかし、少なくとも95年に関してはこのベストに毫も修正の必要も感じないとはいえ、第弐拾伍、弐拾六話を見てしまった今、はたしてエヴァが世紀末の日本を代表すべきSF作品であるか否かと問われれば、いささかの躊躇なしとしない(←湾曲表現)。

  とはいえ、考えてみれば、作中の謎にはすべて解決を与えるべしというSFの不文律はすでに60年代の昔に粉砕されているわけで、外宇宙にフロンティアを求めるかわり、登場人物のインナースペースに新世紀を見出したあの結末は、「エヴァンゲリオン」を、(おろらくTVアニメ史上初の)すぐれてニューウェーヴ的なSF作品として完成させたと見ることもできる。アメリカンニューウェーヴの代表的作品から最終話のタイトルが引用されているのがその証拠。いやまあ、「世界の中心でアイを叫んだけもの」という割に、むしろバラード的(?)なテイストなんだけど。

  ジャンル小説の宿命として、SFはSFのお約束に縛られる。そのお約束を粉砕したニューウェーヴSFはしかし、SF自体のアイデンティティを破壊する結末をもたらした。商業アニメも、ジャンルSF以上に形式の制約が強い表現形態だが、「エヴァ」はこの制約を逆手にとり、大量のお約束をちりばめつつ徹底的にその形式と戯れてみせる。そのあげく、最後の最後ですべての制約をうっちゃり、一大ニューウェーヴとして全編を解体/再構成したわけで、ぎりぎりのところでジャンルに踏みとどまってほしかったという思いはあるものの、このあまりにも鮮やかな破壊/破戒劇には、茫然としつつも拍手を送るしかないだろう。

 

『新世紀エヴァンゲリオン』を食べて

伊藤伸平

  巷ではあの“衝撃のラストシーン”を、あろうことか「解釈」してこましたろうという善男善女があると聞く。不幸な試みに青春を費やそうにもほどがあろうというものだ。「新世紀エヴァンゲリオン」の物語は完結していない。

  モノをつくって商いをするには常に時間とカネの制約がつきまとう。今回モンダイになったのは、どうやら時間のほう。放送時間ぶんのフィルムを、時間の遅れを減らしつつ制作するためのありとあらゆるテクニックが駆使されるのを我々は目の当たりにしたワケだ。もうソレは“実験的な演出”で通用するぐらいに高度なものだったりもしたワケで、監督をはじめとする制作スタッフの技量にちょっと感動したりさえする俺。そう言えば俺もよく、連載中のマンガで「ページ落ち」と言って、30頁かかなきゃならないとこを時間がなくって24頁しかかけず、1回で終わるハナシを2回も3回も後にひいちゃって、そりゃあ誌面の構成をやりくりする担当編集者に新婚生活なんてあるわきゃあないよなってか。わっはっは。

  しかし最初からそうするつもりならともかく、都合でやむなくそーなっちゃったものを、少なくとも作品としては“理解”したり“解釈”したり、まして“評価”するなどそもそも不可能。げんにビデオ版の制作にあたってはラストを元の脚本に戻すという事だそうで、ハナシはそれからというものだろう。マンガで言えば“単行本でかき直し”だ。

  もっとも自戒をこめて言うのだが、作り手側の問題で、ソフトが不完全なまま公開されるってプロとしてはホントはかなりかっこ悪い。「エヴァ」について言えば、あさりよしとお氏の所謂「食える料理」たる「エヴァ」を食ってみたところが、「味」は結構よかったんだけど器の底にゴキブリが入ってたんで作り直してもらってる状態っていうのが、現在の俺の心境ではあるな。


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