シンジは、なぜアスカの首を絞めたのか

 

この論文の前に、「ATフィールドの理論」を必ずお読みください。

 

以下では、映画25話から26話ラストに到る、シンジの心の軌跡を、時系列に沿って追っていきます。

 

<デストルドー(タナトス)>

シンジ「もういやだ。死にたい。何もしたくない。」

ミサト「何甘ったれたこと言ってんのよ。」

   「立ちなさい。あんたまだ生きてるんでしょ。」

   「だったらしっかり生きて、それから死になさい。」

 

ミサト「ここから先はもうあなた一人よ。全て一人で決めなさい。誰の助けもなく。」

シンジ「ぼくは、ダメだ。ダメなんです。ヒトを傷つけてまで、殺してまでエヴァに乗るなんて、そんな資格ないんだ。ぼくはエヴァに乗るしかないと思っていた。でもそんなのごまかしだ。何もわかっていないぼくにはエヴァに乗る価値もない。僕にはヒトの為にできることなんて何にもないんだ。アスカにひどいことをしたんだ。カヲル君も殺してしまったんだ。優しさなんかかけらもない。ずるくて臆病なだけだ。僕にはヒトを傷つけることしかできないんだ。だったら何もしない方がいい。」

シンジは、ミサトの叱咤にもかかわらず、生きる意欲を失っています。エヴァに乗り込んだあとも、弐号機の残骸を目撃し、なすすべもなく聖痕を刻まれます。

 

青葉「エヴァシリーズ、S2機関を解放」

日向「次元測定値が反転。マイナスを示しています。観測不能。数値化できません」

冬月「アンチATフィールドか」

伊吹「全ての現象が15年前と酷似している。じゃあ、これって、やっぱり、サードインパクトの前兆なの」

戦自「S2機関、臨界」

  「作戦中断。各部隊はすみやかに撤退」

  「これ以上は、もう分子間引力が維持できません」

 

アンチATフィールドの発生および、分子間引力が維持できなくなりつつあること、これらはデストルドー(死、破壊、原始回帰への本能)によるものです。

 

ゼーレ「エヴァンゲリオン初号機パイロットの欠けた自我をもって人々の補完を。」

 

青葉「心理グラフ、シグナルダウン」

日向「デストルドーが形而下されていきます。」

冬月「これ以上は、パイロットの自我がもたんか」

シンジ「もうやだ。もうやだ。」

カヲル「もう、いいのかい。」

シンジ「そこにいたの、カヲル君。」

青葉「ソレノイドグラフ反転、自我境界が弱体化していきます。」

冬月「シトのもつ生命の実と、ヒトのもつ知恵の実。その両方を手に入れた。」

冬月「そして今や、命の胎芽たる生命の樹へと還元している。この先に、サードインパクトの無から、ヒトを救う箱船となるか。ヒトを滅ぼす悪魔となるのか。未来は碇の息子に委ねられたな。」

 

知恵の実と生命の実を手にいれたことにより、シンジは神に等しい力を手に入れます。未来はシンジに委ねられたわけです。ここで問題なのは、シンジのもつデストルドーにより、世界が無へと回帰していくのかどうかです。ゼーレは、渚カヲルをシンジに殺させた段階から、シンジの自我を破壊し、シンジ自身のもつデストルドーによりシンジ自身と、世界とを、原始に戻させようとしていたのです。

なお、余談ですが、テーマ曲が「タナトス(死への本能:デストルドーとほぼ同義)」と「甘き死よ来たれ」であることも、デストルドーがこの映画における大きなモチーフであることを表しています。

 

ユイ「今のレイは、あなた自身の心、あなたの願いそのままなのよ。」

レイ「何を願うの」

ここまでの流れは、シンジの心がデストルドーにより、自我が弱体化していく過程でした。さて、ここからはシンジの内面になります。シンジは何を願うのでしょうか。

 

<シンジのインナースペース>

A:幼稚園時代 砂場で女の子とピラミッドを造るが、母親が彼女たちをつれて帰り、一人で完成させる。その後、壊し、また、作り直そうとする。

 

B:怒りの形相のアスカとの、ベッドの上での会話、アスカの「ママ」という言葉

 

C:ママという単語からミサトの連想、ミサトと加持のベッドシーン

ミサト「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね。」

 

D:アスカとシンジの葛藤、キス、シンジのアスカの身体を見ての舌なめずり、無理解

アスカ「いつもみたくやってみなさいよ。ここで見ててあげるから。あんたが全部私のものにならないなら、私、何もいらない。」シンジ「だったら僕に優しくしてよ。」

シンジの不安

シンジ「僕を見捨てないで。僕を殺さないで。」

アスカ「イヤ」

シンジによるアスカの首絞め。シンジの目は残酷な喜びにゆがんでいる。

 

E:子どもの書いた、様々な絵、槍をもった男の子と女の子、犬、魚の死がい。

 

この内面世界を見ていて、まず目につくのは、残酷な、破壊への意志でしょう。Aにおけるピラミッドの破壊、Bのアスカの形相、Dの、お互いの言葉の暴力と、シンジによる、快感にみちたアスカの首絞め、Eの犬や魚の死がいなど。

これらは、シンジの内面にある、死への欲望、破壊への願望、要するにデストルドーです。

 

もうひとつ目につくのは、Bのアスカとのベッドシーン、Cのミサトのベッドシーン、Dのキスの会話、アスカを見ての舌なめずりなどの、さまざまな性的イメージシーンでしょう。これは、シンジにおける、性と生への欲望、リビドーを表します。

そして、「ママ」という言葉が、A〜Cのキーワードになっているのは、母親が、子どもにとって、最初のリビドーとデストルドー両方の対象であるからです。つまり、シンジは、リビドーとデストルドーの中で様々に揺れており、葛藤しているのです。それが、シンジの記憶の中の様々な表象と結びつき、変形を加え、上記のような光景を演出させています(このあたりの詳細は、「シンジの夢分析」(フロイトによるエヴァンゲリオン)参照)。

これらの、リビドーとデストルドーの葛藤のすえ、デストルドーが勝利を納めていきます。

シンジ「裏切ったな。僕の気持ちを裏切ったんだ」

レイ「はじめから自分の勘違い、勝手な思いこみにすぎないのに」

シンジ「みんな、僕をいらないんだ。だからみんな死んじゃえ。」

レイ「では、その手は何のためにあるの」

シンジ「僕がいてもいなくても誰も同じなんだ。何も変わらない。だからみんな死んじゃえ」

レイ「では、その心は何のためにあるの」

シンジ「むしろいないほうがいいんだ。だから、僕も死んじゃえ。」

 

ここにいたり、シンジのデストルドーは自分自身に向かいます。レイは、シンジの精神の行方に干渉しようとしますが、シンジは聞く耳を持ちません。シンジは、自分自身の死を願います。

レイ「では、なぜここにいるの」

シンジ「ここにいても、いいの?」

−無言−

シンジ絶叫。

 

初めてレイの言葉に反応したシンジでしたが、レイは、言葉を返しません。これは、サルベージ計画の時と同様に、「自分できめなさい」ということでしょう。答えてもらえなかったシンジは、そのままデストルドーの波にのまれ、絶叫します。

日向「パイロットの反応が、限りなくゼロに近づいていきます。」

青葉「リリスよりのアンチATフィールドがさらに拡大。物質化されます。」

日向「アンチATフィールド臨界点を突破」

青葉「だめです。このままでは個体生命の形が維持できません。」

冬月「ガフの部屋が開く。世界の始まりと終局の扉が、ついに開いてしまうか。」

伊吹「ATフィールドが、みんなのATフィールドが消えていく。」

キール「始まりと終わりは同じところにある。よい。全てはこれでよい。」

デストルドーは、始原回帰の欲望でもあります。シンジの自我が、デストルドーにより、破壊され、無への回帰を望むとともに、リリスよりアンチATフィールドが拡大し、全てを、始原に戻していきます。それにより、肉体を構成する物質は、原始地球の海にも似た、生命のスープとなり、魂は、生まれる以前の住処である、ガフの部屋へと回帰していきます。

 

 

<リビドー(エロス)>

シンジ「アヤナミ、ここは?」

レイ「ここはLCLの海、生命の源の海の中」

レイ「ATフィールドを失った、自分を失った世界。どこまでが自分で、どこから他人なのかわからない、曖昧な世界。どこまでも自分で、どこにも自分がいなくなっている、脆弱な世界」

シンジ「僕は、死んだの?」

レイ「いいえ、全てがひとつになっているだけ。」

レイ「これがあなたが望んだ世界、そのものよ」

シンジ「でも、これは違う。」

シンジ「違うと思う。」

レイ「他人の存在を今一度望めば、再び、心の壁が、全てのヒトを引き離すわ。」

レイ「また、他人の恐怖が始まるのよ。」シンジ「…いいんだ。」

シンジ「ありがとう。」

このシーンは、デストルドーにより、全てが一つになった段階からの、ATフィールド発生を描いた場面でもあります。これが、レイとシンジの性的な結合状態の中で語られた会話であることから、リビドーが、再び発生していることがわかります。そして、レイが人類にとっても、シンジにとっても母であることから、これが、母との結合状態を示しており、20話におけるシンジの授乳シーンと同じ意味を持っていることもわかります。

また、シンジがミサトの十字架を持ち続けていることから、シンジの生きる意欲を呼び起こしたのは、やはり20話同様に、シンジの母になろうとしたミサトの言葉であったこともわかります。

 

レイ「自らの力で、自分自身をイメージできれば、誰もがヒトの形に戻れるわ。」

ユイ「心配ないわよ。全ての生命には復元しようとする力がある。生きていこうとする心がある。生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって生きているんですもの。」

 

ここで語られている、生命のもつ、復元しようとする力、生きていこうとする心が、別な言い方をすればリビドーのことであることは、言うまでもないでしょう。全ての生命には、デストルドーとリビドーがあり、神に等しい力を手に入れたシンジのデストルドーにより世界は原始の状態へと回帰したわけですが、生命の力、リビドーの力により、復元は可能なのです。

 

 

<なぜ、シンジはアスカの首をしめたのか>

シンジ、アスカの首をしめる。アスカ、シンジの頬をさする。シンジ、泣く。

アスカ「気持ち悪い」

 

シンジは、さまざまな罪悪感からデストルドーを自分自身に向け、自我を崩壊させて自我境界をあいまいにし、全てを原初に回帰・融合させました。

しかし、彼は、リビドーにより、ATフィールドを発生させ、他人の恐怖が存在するかわりに自分が自分である世界を選びます。

では、全ての生命に備わっている、もうひとつの要素、デストルドーはどうなるのでしょうか。デストルドーを自分に向けては、再び自我を崩壊させる結果となります。それを避けるには、デストルドーを他人に向けるしかありません。シンジは、デストルドーによる自我崩壊から復元した直後に、アスカに対し、デストルドーを向け、首をしめます。

ここで、他人という存在の、本質的な意義が明らかになります。自分自身の存在を保つということは、必然的に他人に対してデストルドーをもつということを包含しているのです。これが、ヒトとヒトの間にあるATフィールドが絶対恐怖空間でもあることの正体です。

このことは、裏返せば、デストルドーで自我を破壊することなく、自分が自分として存在するためには、自分のデストルドーを受け止めてくれる他者が必要だということでもあります。つまり、ヒトは一人では生きていけないのです。これが、このラストシーンのタイトルである、「Ineed you」という言葉の意味です。

今までリビドー、デストルドー共に自分に向けがちであり(ナルシズムと内罰)、「ホントに他人を好きになったこと」なく、「その自分も好きだって感じたことない」シンジは、自我崩壊の果てにこのことに気づき、泣きます。

デストルドーとリビドーは密接に結びついており、赤ん坊はそのどちらも「最初の他人」である母親に向けます。デストルドーの衝動をアスカに向け、受け止めてもらったシンジは、リビドーもアスカに向け、本当に他人を好きになることが可能になったはずです。このことが、「まごころを、君に」という言葉の意味でしょう。

 

なお、最後に、アスカの「気持ち悪い」という言葉は、映画冒頭の、

シンジ「アスカ、アスカ、助けてよ、助けてよ、助けてよ、助けてよ、助けてよ」

   「また、いつものように僕をバカにしてよ」

という訴えに応じたものでもあることも言い添えておきます。

 

 

 


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