なぜ、サンライズの経営陣を抹殺しようとしたのか





富野監督は、これまで2回、サンライズの経営陣への怒りや、彼らへ殺意を口にしている。

一度目は、ライディーンの監督を降板させられ、かつ、コンバトラーV、ボルテスXの監督も外されたとき。
二度目は、言うまでもなくVガンダム以降のドタバタの時期である。
「Vガンダムは何故失敗したのか」と一部かぶっています。)

ここでは、富野監督が何に怒ったのかということをまずまとめ、次に、ターゲットとなったサンライズの経営陣のインタビューを並べることで、実態を考えてみたい。




1.怒りの経緯

一回目の怒り:ライディーン降板(「だから僕は」より抜粋)
ライディーンの機能論が、われわれの考えていたオカルトチックなものから、メカニックな設定に変えていかなければならないということが付け加わって、改変が作品の全般的なものに及んで言ったことが極度に苦痛だった。

設定改変の論理性を導入できなかったばかりに、かなり僕は破れかぶれになって、メカニック路線に切り換えていった。
そのために、ドラマはかなり破綻をきたして、トミノは総監督不適格者との烙印をおされてしまった。

長浜忠夫監督が創映社(現サンライズ)に呼ばれたのは、そんなドタバタ騒ぎの頃だったようだ。ライディーンの助っ人である。氏は、東京ムービーで完成させた劇画的な演出を放り込んで、以後のライディーンの作風を確立された。

しかし、首にされた方は、長浜監督との引継ぎ作業をさせられることもなく、解雇となったのである。
首切りそのものについては、僕なりに感知していたからいいのだが、この慇懃無礼な岸本社長や企画室の山浦部長のやり方に腹を立てた。

それは渋江プロデューサーも同じだったらしい。ただ渋江プロデューサーの方は、創映社の一員であるために、僕より先に長浜監督が手助けされるということを知っていたらしい。

が、僕のほうは、ともかく2クール一杯で辞めるとされ、以後は、全く長浜路線でいくと、岸本、山浦、岩崎レベルで話がすすめられて、 ライディーンの作品的な部分でのバトン・タッチ作業が無視されたことについては、現在にいたるまで許しがたいことだと思っている。

そして、このデリカシーのないやり方が、いまだ日本サンライズに受け継がれている部分があるのだからこまったものだと思う。

どうも、作品にたいしてのスタッフのあり方の違いが、これらのトップにはわからずさせることらしいので、直せないらしい。

物故された岸本社長は別として、山浦、岩崎は一方的に悪い!!と思える(ゴメンネ)。


正直、ライディーンの尻ぬぐいに成功した長浜監督が、ひきつづいてコンバトラーVの総監督についたときは、創映社のトップを本当に呪った。

僕にしてみれば、自分の総監督作品になるかもしれないと思っていたライディーンを、外的事情だけで改変させられ、それによってドラマの破綻はありながらも、ともかく、視聴率も持ち直させていったという自負があった。

にもかかわらず、創映社は局のいうことだけを聞いて、僕の首を切った。

その尻ぬぐいの総監督をやらせてもらっただけの長浜監督が、なぜ、つぎの作品の総監督ができるのかといった思いがあるのだから、平常心でいられるわけがなかったのである。

そして、事態はさらに厳しく、創映社の東映受注の時期作品「ボルテスX」までもが長浜監督ときまっていって、本当に情けなかったの一語につきた。

創映社の飼い殺しの演出になるのかとオーバーでなく天を呪い、創映社のトップの連中を恨んだものだった。

そして、そういった一番ひどいときとかのことを忘れないためにと、僕はときおりメモを残そうとしていた気配はあったのだが、岸本憎しとか、山浦、伊藤死ねとかはどこにも書いていないのは、まぁ、我慢のしどころと納得していたからだろう。


二回目の怒り:Vガンダム〜ターンエーガンダム(「それがVガンダムだ」より抜粋)

これは93年でしたよね。ということは、今ちょうど10年たちましたので、本当はまだかもしれませんが、もうそろそろ時効にしていいんでしょう。・・・いや、時効なんかとは関係なく、『Vガンダム』というテレビシリーズのことが、アニメというよりも、あの時代のサンライズのドキュメンタリーだったんじゃないかという感触を持った視聴者に対しては、「全くそうだったんだよ」と言うことができます


このシリーズで、僕自身がこういう立ち居様になった結果というのは、作品論的なものではありませんでした。もちろん、そこには僕自身の問題もありはしますが、経営論が優先した作品だったのです。

その証拠が、『Vガンダム』の製作が終わった瞬間に、サンライズという町場のプロダクションが、バンダイという大手の会社にそっくり譲渡されていたのですから。

そもそも、「またガンダムをやってくれ。そうでなくちゃ困るんだ」と僕が言われて、企画が始まった時には、すでにプロダクションの買収話が、前提としてあったようでした。

『Vガンダム』のオンエアの1年くらい前のことのようですが、町場のプロダクションの経営者たちは、会社の経営を譲渡するためバンダイとの下話を始めており、その交渉の条件を満たしていく中で、サンライズは『ガンダム』を作るしかなかった、ということだったのです 。

僕は、その話をオンエアが終わるまで知らされませんでした。

実際、「何だろう、この体制は?」と疑問に思うことはいろいろありました。それでも、自分ももう『ガンダム』しか作らせてもらえない情けないロボットアニメ専門の監督なんだよね、というところで、ほぞを噛みながら、人生たそがれが見えてきた気分の中で、でもやっぱりこんなものでもやってみせなきゃいけないのかなと思って、企画書を書き始めたのだと思います。

しかし全体的に見るなら、新しく『ガンダム』を作るぞ、という意気込みの感じられる体制ではありませんでした。
『ZZ』を作る時のサンライズの状況もひどかったと言えば、ひどかったんですが、その時よりも、もっとずっとバックグラウンドがなくなっていました。
会社を譲渡することが決まっていたので、その余波がそういうところにも反映していました。でもその時の僕には、なぜそんなに体制が希薄になったのかの理由がわからなかったのです。

実は今朝、ちょっと確認の意味で『Vガンダム』のスタッフ編成を見てみたんですが、その時に初めて、ぞっとしました。このスタッフ編成というのは、日本サンライズの時代から一緒にやってきた経営者たちの影響力が完全になくなっている編成だったんだ、ということです。

だから、当時のサンライズのプロデューサーも、彼らがダミーでよこしたものでした。彼自身もどうやらそれを知ってたようです。だから、こうまで薄い現場のスタッフ編成で作らされたんだな、ということを今朝初めて実感したんです。

その当時のプロデューサーを、僕はサンライズの次の時代を担う俊英だと思っていました。なのに、この手応えのなさは一体なんだろう? と、不思議な気分でした。

作品というものは、恐ろしいものです。経営者などというものは、一見作品なんかに直接関係ないように見えますが、ちがうのです。

やはり、「この会社をつぶさねえぞ!」という強い意志を持った経営者がいる時と、いない時では、結果の化け方っていうのは、全然ちがってくるのです。

「富野がいるからなんとかなるだろう」というところで物事が進められてしまい、現場のプロデューサーがいるからなんとかバリアになるだろう、という事で、当時のプロデューサーがバリアにさせられたんだということも改めて理解できました。

しかし、何度も言いますが、作っている時には僕はプロダクションの身売り話を知らなかったのです。それでも、分裂症にかかるわけにはいかないと感じながら、まがりなりにも最後まで作りおおせてみた時に、経営者たちから初めて、実はサンライズを売却し、自分たちは会社を去るという話を聞かされました。

(F91の続編ではなく)全く新規にやってもらわなくちゃ困るんだよ、という言われ方をした時にも「え?」とは思ったけれども、しょせん町場のプロダクションの経営者だったらそんなもんなのかな、と思っている部分がありましたから、それ以上のことは考えていませんでした。

しかし、実際のところはそうではなくて、町場の人間というのは自分たちが生き抜いていくためには、もっとしたたかだったということです。


僕はサンライズの中でずっと仕事をしていましたから、自分の立場からすると、まるで人身売買されたような気持ちになりました。そのような事態が進行する2年の中で、作らされていたのが『Vガンダム』だったのです。

フィルムで作品を作るというのは、煎じ詰めれば作品論じゃないんです。しょせん経営論なのです。だから、作品論だけで作品を評価するというのは基本的に不可能だし、それはありえません。
プロダクションという底支えしてくれる経営基盤がなくなっていく状況で『Vガンダム』を立ち上げいくという過酷な作業を実際にやってみた時に、自分でも片足がずぶずぶと沈んでいくのがわかりながら、理由もわからずに、なぜこんなに沈むんだろう?おれはここまで非力なのか?と思いながら、状況に身を委ねるしかない中で仕事をしていた。そんな実感が思い出されます。

なんとかそれを、踏みとどまるための自助努力はしたはずでしたが、こんなものしかできなければ、それは作品として筋が通せたものとはいえないでしょう。

末端のスタッフというのは本当に、自分たちの持っているものを出しきって、最終的にはカットを支えてくれたんですよ。

でも、そんなこんなを全部見過ごしてくれた出資者なり、経営者を、僕は今でも許すことができません。大人の倫理感として、それは許せないのです。

せめて「申し訳ないけど、これでおれたちは手打ちして、下がる。下がるから、やってくれ」と言ってほしかったのです。そんなものが何ひとつなくて、なおかつまた10年という時間を過ごしているという人たちは謝ってくれません。これは、大人としていまだに許せません


結果は正直です。だからこそ、なんです。経営者が製作現場をきちんと支えきらずに、引き下がってしまうのは、それはないだろう!ということです。
(それがVガンダムだより抜粋)



2.サンライズ経営陣の抹殺の検討
結局、サンライズはバンダイへと譲渡され、富野監督はバンダイともめ、精神の病へとかかっていく。

この経緯は、[ターンエーの癒し」では、以下のように書かれている。

岸本から世代のかわったサンライズは、次第に株価をあげていき、虫プロ倒産のトラウマをもったサンライズの経営陣は、ぼくにはガンダム以外のものをつくらせなくなった。」


「1994年、「Vガン」終了後、サンライズとバンダイとの間に起きたことの詳細などしらず、理由不明の索漠たるおもいにとらわれた

ぼくは、なさけなくも恥ずかしくも、サンライズのトップがうけとったであろう莫大な金額という噂だけが原因で、耳鳴りと眩暈がはじまり、鬱になり、自閉したのだ。」



その中で抹殺計画が検討される。



<そういう連中に鉄槌を加えなくてはならない>
そう考えると妄想は驀進する。鉄槌を与えるための現実行動を計画する。
犯罪者になりたくないから、経営者を殺すことはやめる。となれば、銀座にまで行って、創通エージェンシーのビルに火をつけるか?爆破するか!?サンライズがぼくにとっての直接のターゲットだと思えるから、上井草の駅前からサンライズの駅前まで抗議のビラを貼る。

これはいいアイデアだと思えた。どのようなものを書くかも考え、当たり前のものではインパクトがないから、スキャンダラスなものがいいだろうと深夜、熟考する。
猥褻なものがいい!それもぼくが得意なSMものだ!
こういうロジックは、ほんとうにすばらしい考えだと思える。

<このようなポスターを百枚も貼られた原因を、君たちは考えなくてはならない、というようなメッセージを添える!>
幸い自宅にはコピー機もあるから、コンビニでコピーをする危険を冒す必要がない。犯人はわからない。
当然、トミノからのメッセージというのはわからせる必要があるから名前はかく。
ここで妄想は破綻しているのだが、計画を熟考し続け、このプランの完璧さを確認する。
これが世間に露見しても、まさかそんなバカなことをトミノがやるわけないという、論拠を発見するのだ。
ぼくは、マスコミのインタビューで、「ガンダムの原作者が、そういうことをやる必要がありますか?ぼくは、それなりの支払いをサンライズから受けているのですから。」
これでバレないと確信する。

これが犯罪者のロジックなのだ。

バンダイの関連ビルがある界隈にも貼らなければならないのだが、どのくらいの枚数が必要なのだろうか、とか、猥褻画といってもガンダムをからめるSM的なのは、これはやめる。卑しいとかんじるからだ。

そのように考えることは結構あるので、まあ日をかえて検討する。
推敲は必要だと踏みとどまるのは、狂っていない自己の自覚を喚起するためである。
こんなことを実行しなかったのは、本気で病気でなかったからだろう、という考え方があるが、そうだろうか?

たしかに、ぼくは、病気を治そうと意識していたから、正常の”気”がぼくの周囲にただよっていたのかもしれない。

しかし、そうではないと思う。
ほんとうに眩暈を経験すると、1週間ぐらいは戦闘不能状態になる。復讐の思念も情念もふっとんで、寝込む。妄想も思考も停止する。

それでわかることは、罪を犯してしまった者たちというのは、心理的に内攻することだけではなく、犯罪を実行するだけの健康な体力があるということだ。
耳鳴りも激しいと、なにもする気がなくなる。肉体的に不全であればなおのことで、眩暈となればこれは論外で、なにひとつ行動にうつすことはできない。

ぼくにとっては、それがブレーキになった。

ビラ一枚かいている暇はなかった。

まして、殺傷だ火つけだ、というのはできる相談ではない。

自宅の二階の窓から飛び降りてしまったら、うまくすれば死ねるだろうという、うまくやるという気力さえもなかったことを思い出す。

だから、死ねなかったにすぎないし、犯行も実行できなかった。
犯人の精神鑑定という話をよくきくが、実行したという事実がもつ重さを斟酌する必要はないと感じる。
ぼくの場合のターゲットは、関係者全部と考えたので、ターゲットが多すぎるという想像が妄想を妄想にとどめておける要因になった節もある。
昔の虫プロ時代からの同胞のひとりがターゲットであったり、現在のサンライズの社長ひとりだけとターゲットがしぼりこめれば、実行したかもしれない。

一人一殺の実行は可能性が高い。

が、著作権商売、キャラクター商売、新規媒体の確立という要素がはらんだ事態のなかでの問題であるのだから、一人の人間が意思としてやったことではない。このすべてを粛清するというのはギレン・ザビにでもならなければできる相談ではない。
(ターンエーの癒しより抜粋)




3.サンライズ経営陣から見た視点
しかし、サンライズの役員側ではこのような事態をどう考えていたのだろうか?

まずは、第1期の富野監督ライディーン降板(及びコンバトラーVの監督はずし)で名指しされ、Vガンダム時にサンライズを去った経営者の一人である山浦さんのコメントを見てみよう。

まずは、ライディーン降板の事情について、「ザンボット3・ダイターン3大全」より抜粋する。



ライディーンは、当初、放送局も決まらないまま、自主的に5話くらいまでを作っていたんですが。やがて放送局がNET(現・テレビ朝日)に決まって、局のプロデューサーがやってきた。

この方が、幼児番組についての姿勢を、データ主義的にとても強く持っている方だったわけですね。

作品作りに関しては情熱を持っていた我々ではあったのだけれど、力関係では負けてしまい、結果として5話以降、作品を路線変更することになって、監督だった富野も、前半で降りてしまった。だけど放送してみると、5話までの視聴率がとても良かったんですね。

これで自分達の仕事に自信も持てたし、富野の力量も解ったわけなんだけど、やはり自分達の意見を通せなかった事や、富野を守ってやれなかったことは、悔しかったわけですよ。

そういうこともあって、作品に自主性を出していける会社がいるな、と考えるようになったわけです。それでアニメ制作会社のサンライズを作ったわけです。




つまり、もともとサンライズという会社は、「富野をスポンサーから守れ!」という思いで作られた会社だということがわかる。


次は、同じ山浦氏のインタビューを、「富野由悠季 全仕事」より抜粋する。



監督としては、僕は『ライディーン』の初期をやっていた頃から高く評価していました。彼は26本で降板したんですが、彼を降ろしたのは僕ですから。能力を買っていても降ろさざるを得ないというのは一番嫌な事ですね。悔いが残りました。だから『ザンボット3』を任せるときには、なんの悩みも無かったです。

『ライディーン』初期をやった彼なら安心して任せられる、そう思っていました。

新会社の最初の作品として、絶対に成功させなければならないという状況の中で、カッコいい言い方をすれば、彼しかいなかったということなのかも知れません。

現場の人にもあらかじめ同意してもらっていたことなんですが、富野監督を映像作家として売っていきたかったんです。実写映画も含めて 、日本の映画の悪いところは、俳優以外のスタッフが売れるのを嫌う風潮があるんですよ。もちろん黒澤明さんのような例外もいるんですが、基本的にはフットライトを浴びるのを嫌うんです。それではダメだと、僕は「ザンボット3」の頃から言っていました。

−それが実際に可能になったのは、劇場版『ガンダム』の頃からということになりますか?

そうでしょうね。それ以前の作品は、例えば『ヤマト』にしても、原作者は売れたけれども、実際にアニメを誰が作ったのか誰も知らない
ような状況でしたから。

−そういう動きの結果として、富野さんの名前が、アニメファンの間で有名になっていったわけですね。

『ガンダム』をやった頃から、小説を書くことも勧めましたからね。

−富野さんが小説を執筆したのは、どういう流れで実現したのでしょうか?

ずっと以前から書きたいと思っていたようですね。僕としても、それが可能なだけの力量を持っている人だと思っていたので、「別に直木賞や芥川賞を撮るわけでもないんだから、映像小説として書いてください」とお願いしたところ、快く引き受けてくれたわけです。




次に、Vガンダム時のプロデューサーであり、富野監督から「事情を知っていて送り込まれたダミー」とか「サンライズの次の時代を担う俊英だと思っていた」なとと言われた、、植田プロデューサーのインタビューである。

「機動戦士ガンダム」以降の経緯の全体を抜粋する。



<Zガンダム作成の経緯>
正直に言うと個人的には、ガンダムはもう自分の中では終わったと思ってましたから。経営者からもあの当時、「もうガンダムは作らない。ガンダムをやるときはサンライズが潰れるときだ」といわれていたくらいですから。

それよりも、「プロダクションは新しい作品を提案しなきゃいけない」と言っていたはずなんですが、そういった意気込みでやっていた『ザブングル』以降の富野作品が、どうしても『ガンダム』のヒットには及ばない。そうすると当然、「ガンダム待望論」というのが周辺から出てくるんです。

<逆襲のシャア、F91作成の経緯>
このあたりの経緯も細かく知りませんが監督は「映画もろくに新作で作らせてくれない」みたいなことも言ってましたし。会社としても、 もう一度、映画でトライしようという事になったんだと思います。ただ、結果的には初期の映画のように大ヒットしなかった。

<Vガンダム作成の経緯>
その一方で、リアル指向ではない”SDガンダム”というのが商品として非常に売れてくる。
富野監督以外が送り出した作品をいくつかOVAシリーズとしてやりましたが、当時の社長からは、縮小再生産だといわれ、新しいものがないと。

その一方で、生まれて最初に接したガンダムがSDガンダムだという子どもたちがたくさんいるような状況もある。そんな中で考えていった結果、「もう一回テレビで、富野監督の『ガンダム』をやるべきだ」という結論になり、『機動戦士Vガンダム』が始まっていったんです。

<Gガンダム作成の経緯>
当初は富野さんも企画に入ってました。でも途中で「富野さんはやっぱりやらないほうがいいだろう」ということになってしまったんです
。僕がスポンサーと話していた頃は、今ある「Gガン」よりももっと異色で”戦隊ガンダム”とでもいうような、もう無茶苦茶な企画だっ
たんです。「青いガンダム、黄色ガンダム、黒いガンダムなどの五体のガンダムが戦う』といったような。そんな話をしているうちに、富
野監督も「それは僕がやっちゃいけない」といったことをおっしゃるようになったので、それである時点から、今川泰宏監督にしようかという話になってきたんです。


まあ、会社全体が大変動してましたから(バンダイグループに入る)混乱している中ででもやらなきゃいけないんだと、腹をくくってスタ
ートした。

最初は「Gガン」というのはみんなにメタメタに言われましたね。「サンライズは魂売ったのか」と。プラモデルの担当者までが「植田さん、ほんとにこんなデザインでいいんですか」と言ってくるし、それに対して「それは御社の偉い方に言ってくれ」なんて答えたりね。


<ブレンパワードからターンエーガンダム作成の経緯>
富野さんに「20周年でガンダムをもう一回スタートさせてみようという話があるんだけど、富野さんやります?」と聞いたら、「俺はもうやらん。もうガンダムはいいだろう。もし機会があるんだったら新しいのをやりたい」と言っていたんですね。僕も、それじゃどうしようかと悩んでいたんです。でも、色々検討していった結果、サンライズの統一見解としては、「次のガンダムは富野
さんでやるべきだ」
ということが固まっていたんです。

だからその前の『ブレンパワード』は、そういったことも視野に入れ戦略的に制作していこうというところもあったので、従来のビジネス構築じゃないところからスタートさせたいと思ったんです。スポンサーがこう言ったとか、そんなプレッシャーがないところで一回監督を させてみたいと。


次はガンダムをやると決めてましたから、その前に富野さんの状態をできるだけベストなものに近づけるためにも、とりあえずは「ブレンパワード」をやってみてもらおうと。変な言い方をすると”プレガンダム”みたいな部分もありましたが、結果的には『ブレンパワード』 をやったことは、いろんな意味ですごく良かったと思ってます。





4.感想
以上、サンライズ経営陣のインタビューも見てきた。

なんというか、サンライズの経営陣には、富野監督に対する親心と応援心が感じられると思うのは、私だけだろうか?

富野監督がザンボット3をまかされたのも、その後の成功も、山浦氏をはじめとするサンライズの旧経営陣のバックアップがあればこそであろう。


サンライズの第一作を富野監督に託し、小説まで書かせて富野監督のメジャー化を図った山浦氏。

病み上がりの富野監督に、スポンサーのプレッシャーがかからないよう、ガンダムの新作の前にブレンパワードを作らせた植田氏。

ガンダムを作る時は会社の終わりだと言い、ヒットが出なくても富野監督にオリジナル新作を作らせ続けていた社長。


サンライズというのは、むしろ、見識もある、暖かい会社なのではなかろうか?


富野監督の実績と能力を踏まえ、常に出来る限りサポートしようとしているように思える。
(どんなに貢献度の高い社員でも一方的に切り捨てる会社は、世の中いくらでもありますよね・・)

経営譲渡の話を富野監督にしなかったのも、創作に専念して欲しいという思いもあっただろう。


しかし、一方では、確かに、富野監督の悲しさもわかる。

山浦氏が言うように、もともと、サンライズは、富野監督をスポンサーから守るために作られた会社であった。

しかし、旧経営陣は、バンダイに全権を売り渡して出て行った。

そして、結果的に富野監督はバンダイの役員と衝突し、精神の病に落ち込む。



サンライズの旧経営陣にとっては、その後の展開が予想できただけに、自分達が逃げることが後ろめたくて、富野監督に何も言う事ができなかった のかもしれない。

会社設立以来の、気心も知れたメンバーだからこそ、一言も経営譲渡を知らされていなかった富野監督としては、裏切られた気がしたのだろう。

もしかすると、バンダイとの衝突よりも、富野監督にとっては、かつての仲間の手による「裏切り」「人身売買」の方が、ショックが大きかったのかもしれない・・



極論すれば、以下のように言うことができるだろう。

サンライズという会社は、富野監督をスポンサーから守るために、経営陣が富野監督の才能にかけて新会社を設立したところから始まった。

そして、富野監督がヒットを出せなくなり、経営陣が見切りをつけ、ガンダムとセットでバンダイに売り渡したところで終わった。


(独立していた頃の)サンライズの歴史とは、そのようにまとめられるのかもしれない。


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