新ルパン三世の最終回「さらば愛しきルパンよ」における宮崎駿監督の真意

新ルパン最終回「さらば愛しきルパンよ」における、ルパン最大のトリックについての概説


宮崎駿監督は、新ルパン三世という企画そのものに反対だった。

そのために、新ルパン三世には参加しなかった。

「新ルパン」が始まるというときも「やらないか」という話があったんです。そのときの大塚さんから「新ルパン」をするかどうかの相談を受けたりもしたんですが、ぼくは「もうルパンでもないよ」などと返事をしていたんです。

ルパンというキャラクターの時代は終ったと考えていたんですね。キャラクターというのは、その時代とともに生きているものなんです。
」(82年 講演「ルパン三世とのかかわり」より抜粋)


それに、実際に放映された新ルパンを見て、怒りを感じた。

「どんなドタバタでも、何か思い入れのタネがどこかにかくされた核としてないと、やっちゃいけないことも平気でやりだしてしまう。銃で何でも始末をつけようとする男でも、こういうときには絶対撃たないんだということが、作る側にはっきりわかってないとただの機械みたいになってしまうんですね。

「ルパン三世」というTVシリーズがあるんですが、あれをみていると実に頭にくるんですね(笑)。

何の本音もたてまえもない、本当はもう何も欲しいものがない人間どもも、慣れあいで右往左往しているだけですよ。裸を出せば色気だと思い、助平じゃない人間は偽善者だと信じこんでいる。まるでキャバレーロンドンのCMだって、みんなに悪口をいっているんです(笑)。

偉そうなことを言わせてもらえば、こんな人達がなんでアニメーションなんか作ってるんだろう、この人達は本当に面白いんだろうかと疑わざるを得ない。そんな作品が多すぎると思います。」(84年 山根貞夫さんとの対談より抜粋)



その後、映画「カリオストロの城」をやることになったとき、自分自身の実年齢の増加にあわせて、もう一度ルパン像を考え直し、ルパンの年齢も大幅に引き上げることにした。
更に声優の全交換まで提案したという。
(詳細はカリオストロの城ページに書く予定ですので、ここでは触れません)


さて、結局、宮崎監督は、新ルパンでは145話「死の翼アルバトロス」と、155話「さらば愛しきルパンよ」を監督することになるのだが、もともと新ルパンの企画を批判し、参加も断わった経緯もあるため、様々な思いがよぎり、自分の名前を使う気持ちになれなかった。

そのため、「宮崎駿」という名前すら出さず、会社のテレコムをもじり、照樹務というペンネームを使うことにした。
なぜ、自分の名前を使わなかったのか?

詳しくは、「ルパンは時代に取り残された」を参照してほしいが、そこでは、宮崎監督の様々な思いが書かれている。


「むかしのルパンは人殺しはしませんでした。ところがいまのルパンは目標がないから、人間がマトなんです。世の中といっしょになって複雑怪奇な殺戮をくり返していますよ。

ルパンがほんとうに好きならとうに描くのをやめるべきですね。

そうだな、いまの時代にルパンを描くなら、ワルサーも持たず、車にも乗らず、ラッタッタで走りまわらせるほうが、よほどルパンらしい姿だと思いますが・・・。」



「複雑怪奇な殺戮を繰り返し」ている「いまのルパン」を「ほんとうに好きならとうに描くのをやめるべき」というのが、新ルパンに対する宮崎監督の見解だったのである。
(注:最初のルパンシリーズでも前半は平気で人を殺す金持ちの遊び人だったのだが、宮崎監督は自分が製作に関わった後半でキャラ設定を大きく変更し、情熱的で人を殺さない貧乏人の(?)ルパン像というイメージに近づけようとした経緯があった)


そこで、宮崎監督は、自分が作ることになった新ルパン145話でも155話でも、自分の主張を取り込んだ。
そこでルパンがやろうとしているのは、戦争をはじめとする悲惨な現実において、世界の平和のために、誰も(敵も含め)殺すことなく徒手空拳で戦い続けることであった。

・敵は武器商人や軍需産業、国家権力などで原爆やロボット、戦車などを使おうとする=複雑怪奇な殺戮を繰り返す世の中の象徴
・そのような圧倒的な敵達に対し、ルパンは「ワルサーも持たず」徒手空拳で立ち向かう。

そのような「新しい」ルパン像をうちたてることで、悲惨で殺伐とした世の中にも、その世の中同様に殺戮を繰り返す新ルパンにも、立ち向かおうとしたのだ。(このテーマを象徴するのが、145話の題名「死の翼アルバトロス」であり、155話の原題「泥棒は平和を愛す」である。)

(参考:テーマを象徴するセリフ)
145話「ドロボーはウソはつかねぇ」
155話(戦車に対し)「つきあってらんねぇ」

また、後に宮崎駿監督はこうも言っている。「もし、ルパンのシリーズの第3弾目をやるとしたら、僕は、徹底的に正義の味方として描きますね。正義の味方って言っても、今、世の中にひしめき始めているスケールの大きな犯罪を相手にする・・・。」(参考:宮崎駿監督によるルパン3世の第三シーズンと映画第三弾構想

新ルパンにおける宮崎作品は、2作ともこの路線の先取りであることがわかるだろう。

とくに、155話「さらば愛しきルパンよ」においては、宮崎監督は自分のテーマを極限まで徹底させた。

・ロボット兵のラムダのほかに、国家権力側の戦車も出すことで、殺戮とした世の中を表現している。テーマを追求するため、本当はラムダを100匹出した映画版を作りたかったようだ。
・ルパンは、ワルサーも持たず、クルマに乗らないどころか、一般人と一緒に普通の満員電車に乗っている。


それに比較して、人間をマトにすることに躊躇しないニセルパン。

このニセルパンは、実は、単なるニセモノではなく、宮崎監督にとっては、これまでの、人を殺す新ルパンシリーズそのものだった。

「もうこれ以上、ルパンとかかわることはないだろうと思い、いままでのルパンは全部ニセモノだたというようなトッピな話にしたんですが、かえってヒンシュクを買ってしまいました。」(講演「ルパン三世とのかかわり」より抜粋)


つまり、「さらば愛しきルパンよ」のラストに込められていた意味は、これまでの新ルパン154話分は、全てニセモノで、本当のルパンは初めてここで登場したということだった!

このとき登場したホンモノのルパンは、他では2度と見られないほど厳しい表情をしている。これは、クラリスや小山田マキに対する優しい表情と表裏一体である。

つまり、新ルパンというニセルパンの物語ではなく、宮崎監督が考える「ホンモノのルパン」なのである。

3年間にわたり、視聴者を楽しませた新ルパンは実は全てニセモノであった・・殺伐とした現代における本当のルパンは、平和を愛し、ワルサーも使わず、人殺しもしない・・

宮崎駿監督が、最後にしかけた、ルパン最大のトリックである。


そして、同時に、これが、宮崎監督が愛したルパンへの訣別宣言でもあった。


最終回の「さらば愛しきルパンよ」という題名には、「ほんとうに好きならとうに描くのをやめるべき」という宮崎監督の愛情と意志が込 められている。

もっとも、このような形で新ルパン三世を全否定したことにについては、後に激しく後悔したようだ。

「ルパン達だけでやれたと思うんです。ホントに・・。ニセルパン出さなくても、できたんです。でも、なんか、今までやってきて・・こう・・『クソーッ』って思ってた部分がね、それでつい、ああいう馬鹿な事やってしまったんです。よくなかったと思ってる」(LUPIN THE THIRD VOL2より抜粋)

これ以降、宮崎監督がルパンを作ることは2度となかった。


(参考)新ルパン三世における宮崎駿作品
25には「死の翼アルバトロス」、26には「さらば愛しきルパンよ」が入っています。
どちらも名作ですが、私は「さらば愛しきルパンよ」は宮崎駿作品全体やルパン三世シリーズ全体の中でも特に好きです。

 

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