カリオストロの城の真実

第二章 ルパン三世と宮崎駿、モンキー・パンチ、山田康雄の年齢の問題


ルパンはいったい何歳なのだろうか?

カリオストロの城について、宮崎監督はこう言っている。(アニメージュ81.1)

これははっきり、中年の意識でつくっているんですよね。

旧シリーズ作ったときは、自分と同年齢のつもりで作っているんです。いや、高畑さんはどう思っていたかわかりませんけど。でも、年を考えないで作れたんですね。

(旧シリーズのときは)30歳です。

だから、いまは本当は作れませんよね。ズレちゃって。ほんとうに作者が思い入れしたシリーズものっていうのは、何か寿命が短いところがあるんじゃないかって気がしますね。




宮崎駿監督がルパン映画化のオファーを受けたとき、最初に考えたのはこの問題であった。

なぜなら、宮崎監督は、テレビ版ルパン三世を製作するにあたり、当時20代〜30歳であった自分自身の気持ちを素直に投影させて作っていたからだ。


はじめてルパンの漫画を読んだときに、おもしろいと思ったんです。その頃、自分も30になる前で・・あの、やけくそな、ハングリーな気分だったと思うんですよ。ルパンが青二才から必死になって売り出そうとしているっていう感じだったんですね。それは、まさに山田康雄もそうだったし。

この言葉は、そのまま、映画カリオストロの城においても、若き頃の回想シーンで使われている。

ルパン「もう十年以上昔。俺は一人で、売り出そうとやっきになっている青二才だった。

しかし、もはや宮崎監督自身も30代の終盤を迎え、20代の頃のようにはルパンに自分を投影できなくなっていた。

山田康雄が50を過ぎたように、歳をとったんじゃないですかね、ルパンそのものが・・

そして、同時に、当時放映されていた新ルパンを見て、時代にあっていないとも感じていた。(「ルパンは時代に取り残された」参照


そのため、ルパンの映画化の話を持ちかけられて、宮崎駿監督は困惑したという。(以下、カリオストロの城 アニメコレクションより抜粋)

ルパンの劇場物をやらないかといわれたとき、なんで今さらって僕は思ったんですよね、率直にいって。

つまり、僕の想いとしては、これは大塚さんもそうだとおもうけど、ルパンっていうのは60年代から70年代にかけて生きてたキャラクターでね。今さら出てくるには古すぎるって思ってましたから。

原作にしても、モンキー・パンチ自身が当時売り出さなければいけないっていうんで、必死にやった作品だったでしょ。

だから、ものすごく面白かったんです。何よりも面白かったのは作品のエネルギー。
作画技術とかじゃなんかもさることながら、とにかく、作る側のハングリーさってのが伝わってきたんですよね。
だから、ルパン三世そのものがハングリーなわけですよ。決して気どった男じゃなくてね。
それはモンキー・パンチ自身も反映してたって思ってますけれど。

そして作る僕ら自身も、何か面白いものはないかなあって思っていたときだったから、そうした意味でハングリー感が共通してたんですね。

だから作っていても、いや原作を見たときから非常に共感できる部分を持ってましたね。
TVの旧シリーズは商売的には成功しなかったけど、それなりにやりた放題やったっていう思いが。


本当のことをいうとルパンっていうのは終った作品だなあと思ってた訳です。それを再度やるっていわれたときに、実は非常に当惑したというのが本当のところです。


そこで、自分なりのルパン像を作らなければならない羽目になったときに、60年代末から70年頭に一番生き生きしていた男が、今、生き恥をさらして生きているというふうに構えるしか手がなかったんです。

それで、もし、十年前だったら、恋する人間としてのルパンもいたかも知れないけれど、なんか今さらね、若者のふりするわけにいかない
からオジサマで通そうかとかね。


以上のルパン三世の再設定が、第一章でみたアルセーヌ・ルパンからのインスピレーションとぴったり一致していることがわかるだろう。


そして、悩みに悩んだ末、宮崎駿監督は、映画カリオストロの城において、いくつかの抜本的な決断をした。

1.ルパンの年齢設定を30半ばにすること
これにより、宮崎駿監督自身の年齢にも近づき、若くて無茶やっていた20代のルパン(旧ルパン)とは別のキャラクター性を持つことを明確になった。
つまり、かつての宮崎駿監督やモンキー・パンチや山田康雄のようなハングリーな若者ではなく、オジサマとすること。

2.時代設定を1968年と明確にすること
つまり、彼が最も輝いていた時代に舞台を設定すること。
これは、新ルパンを見て、時代にあっていないと考えていたことへの対処である。

ちなみに、1968年という設定は、劇中の映画に登場する新聞でも明記されている。
1967年にルパンが初めて漫画で登場し、69年にはアニメ化が決定したことを考えると、1968年の意味がわかるだろう。宮崎監督からみて、ルパンが最も輝いていた時代である。


3.何よりも、ルパン三世というシリーズを終わらせること
もはや、自ら恋愛するよりも、少女に良い印象だけ残して去っていく30半ばのルパンを描くことで、ルパン三世というキャラク タそのものを終らせること。


これについては、各インタビューで以下のように言っている。
・汚れた中年では、物語は作れません。
・「カリオストロの城」で、最後に「完」とした意味を考えて欲しい。
・ルパンの最終回と思って作りました。


つまり、自分で恋愛するよりも、少女の未来を気遣うルパンを描くことで、旧ルパンの頃とは明確にキャラクターを分け、そして、ルパンという作品そのものを終わりにすることが、「カリオストロの城」のテーマだったのである。


第一章で書いたように、この作品が、恋愛に燃える20歳のアルセーヌ・ルパンを主人公とした「カリオストロ伯爵夫人」と、少女から去っていく30半ばのアルセーヌ・ルパンを主人公とした「緑の目の令嬢」をベースとしているということの意味が、これで明確になるだろう。

「カリオストロの城」のテーマは、あくまでも、ルパンの加齢による変化を描くことであり、結果としてルパン・シリーズを終焉させることであった。


なお、繰り返しになるが、宮崎駿監督が、そのような作品テーマを選択せざるをえなかった理由は以下の2つである。

@ルパンのキャラクターが時代に合わなくなっていると感じたこと。

A宮崎駿監督が、本当に心からルパンに思い入れしており、自分が歳をとっているにも関わらず若いルパンを描くことができないと感じたこと。


そして、実際、宮崎駿監督は、これをもってルパン・シリーズを終焉させたと考えていた。

ルパンがほんとうに好きならとうに描くのをやめるべきですね。(「ルパンは時代に取り残された」参照より抜粋)

後に、たまたま新ルパンの最終回を担当することになった時も、この考えは変わらず、そこでも、少女(小山田マキ)のサポートに徹し、少女から去っていくルパン像を再度描いた。

さて、ここまで、ルパン三世の年齢の変化が、カリオストロの城のテーマであったことを説明してきた。


では、(宮崎監督の表現によれば)中年になり、生き恥をさらした男、ルパンはどうあるべきだろうか?

もはや時代にとりのこされ、汚れた男が再度輝くには何が必要なのだろうか?

クラリスについて、宮崎監督はこういっている。

宮崎「チャップリンの映画でね、チャップリンというのは、自分がそのひとのためにひと肌ぬいで、自分が今の状態より、より高貴になれるっていうか、意味がある人間になれるという、そういう相手を探して歩くような映画ばかり作ったでしょう。」

「だから、別に色恋じゃないんですね。自分を高めてくれる女に、自分を高めることにかりたててくれる女に出会うことを夢見ている映画を作ったんですね。」

さて、汚れた男が輝くための方法論を、宮崎監督はこうも言っている。

「私利私欲で盗むなんてもうすっかり飽きただろうと思ったんですよ。むしろお金がない人でしょ。そういうことにこだわらない、解放されている人間っていう風にしたいですよね。そうするとルパンはもう、やることやり尽くしていて、もう150本もあり、旧作も23本あ
り・・やることないですよ。それが一生懸命になったっていうのは何か!?・・ですよね。

それは、また戦争を起こそうとしている人間がいるっていう問題しかないんじゃないかと思ったから、ああいう話になっちゃったんですよ。」


自分を高めてくれる、再度、輝かせてくれる女性を探すこと。
それから、戦争を起こそうとするようなスケールの大きい敵と戦うこと。

汚れた中年が輝くための、この2つの方法論は、そのまま、「カリオストロの城」「死の翼アルバトロス」「さらば愛しきルパンよ」といった、旧ルパン後の宮崎監督のルパン三世すべてに共通する。

この点は、映画製作中に宮崎駿監督が書き、パンフにも掲載された「ルパン・ファンへの熱いラブレター」が充分語っている)

ルパンは、はみ出してしまった者なのです。自由の代償に安らぎと憩いを捨て、自分の足下に、絶望と孤独の深遠が口をあけているのを、充分知った男なのです。心の空虚を埋めようと、ルパンは行動にかりたてられます。自分の存在を意味するものにしてくれる闘い。その闘いに自分を導いてくれる人との出会いを、ルパンは渇望しているのです。

うす汚れた自分、腰をすえ生活している者にくらべ、はるかに薄っぺらな自分を浄化し、たとえ一瞬であっても、心を開いてくれる人のためなら、ルパンは一国家の全機構とすら闘う男なのです。

この映画で、ルパンはひとりの少女のために全力で闘います。けれども、ひとりの少女の重ささえ背負いきれないダメな自分を知っています。心だけ盗って、そのくせ未練は山ほどかかえこんで、しかしそれを皮肉なひょうきんにかくして去っていく。去っていかざるを得ない男−−−それがルパン三世です。


汚れた中年男が再度輝くことができ、自分の存在に意味を感じられるような舞台を提供することこそが、カリオストロ公国と、クラリスという少女の役割であった。

この、カリオストロの城のテーマは、一言でいうと、以下のようにも言い表せる。

「結局、1時間40分かけて、ルパンの真剣味を描くことになるのかな・・」(カリオストロの城製作時のインタビューより。アニメージュ79.11)



さて次に、同じくらい重要な要素である、クラリスの年齢設定に焦点をあてよう。

なぜ、あれほどの人気作である「カリオストロの城」は続編が作られなかったのか?

ルパン三世「おじさんは地球の裏側からだってすぐ飛んで来てやるからな」

という言葉が実現されなかったのは何故なのか?


カリオストロの城のページに戻る