1、富野監督の病との関係
TV版のZガンダムにおいて、演出テーマは「組織と個人の軋轢を見上げる少年を通して、人の意識の膠着性を見る」というものであった。
「組織と個人の軋轢」。
確かに、TV版のカミーユはことあるごとに大人社会や組織に対する怒りを爆発させた。
カミーユ「そんな大人!修正してやる!」
そんなカミーユを肯定するシャア・・「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破する上で、一番重要なことではないかと感じたのだ 」
「大人」や、「組織」を敵視し、怒りをぶちまけるカミーユの姿は、言うまでもなく、もちろん、製作者の富野監督そのものである。
「僕はむしろ、大人たちの願望が強ければ強いほど、(Zガンダムの)打ち切りは早いと思う。
「重力に魂を引かれた人々」というのは作品の渦中の人たちに対しての言葉だけではない。・・というのが、ここにもある。
こういう現実が、イコール「Z」の世界じゃないのかな。」(TV版Zガンダム放映開始時)
「出資者なり、経営者を、僕は今でも許すことができません。大人の倫理感として、それは許せないのです。」(Vガンダムについて)
常に、組織や「大人」に対して怒りつづけていた富野監督。
しかし、「大人」や「組織」に怒りをぶつけていたカミーユの精神は最後には崩壊する。
「Zガンダムは僕にとっての現実認識のストーリーであったんです。それから考えていったら、彼はあの様になるしかなかった。
自分の限界を超えて、無理に力を得ようとカミーユがやっているわけで、限界を超えてしまっている彼に何も起こらないで済ませるわけにはいかなかった。」(TV版終了時のインタビュー)
富野監督にとっての現実認識のストーリーとしてのZガンダム。
実際、この言葉どおりに、富野監督は、なんと、カミーユ同様に精神の病にかかってしまった。
「つまらない直球を投げ続けて、肩を壊したのだ。だから、見事に、「Vガン」でキレて病気になった。」(「ターンエーの癒し」より)
その結果、富野監督は、Zガンダムのような作品を作った意義を考え直さざるをえなくなる。
「神経症の病人を拡大生産していくような作品を公共の場におくことはしてはならない。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)
精神の病をかかえた富野監督が、病から回復するためには、新しい認識が必要だった。
「鬱病、自閉症というのは、まさに文字にかいたように、意識が外にむかうことがない。」
「個という意識は、一人で生きているのではなく、あきらかに、人々というあいだで、その集合体によって構成されている空気といっし ょに意識を呼吸し、エゴはそれら周囲の意識を感知して自己−これこそアイデンティティ−を育てていって、個を体現しているのではな
いだろうか?
つまり、個とは一人ではないのだ。」
「顔は、頭は、まっすぐにあげて歩いてみよう。そうすれば、そこに、自分を見つめてくれているひとの目がある、とわかる。それに気づくことは、安心の元を手に入れることだ。そして、自分で自分を見つめる瞳をえがくのは、あまりやらないほうがいい、というメッセージも、ビジュアル社会に生きなければならない若者たちにはお伝えしておきたい。」(以上、「ターンエーの癒し」より)
自分の意識にこもるのではなく、内向しがちな意識を外に向け、他者とのつながりや、視線を感じること。
それが、自己の安心につながるということ。
この認識が、映画におけるカミーユの変化にそのまま反映されている。
このような、新訳Zガンダムにおける新しいカミーユ像について、富野監督は、こう語る。
「全部目の前に現われてくる事象を、テレビ版のカミーユみたいにプレッシャーとして、フラストレーションが高まるというふうに感じるんじゃなくて、全部それが外界を学習するための人々、そのための事件だと受けとめるようにしました。カミーユの受けとめる目線だけを変えたんです。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)
そして、この自身の体験を踏まえたスタンスの変更は、同時に、自閉や鬱病に苦しんでいる人々や、今後、歳をとり、同様の苦しみを受けるであろう人々に対しての、提案でもある。
「すなわち、戦いに疲れ、ニュータイプになりそこなたカミーユが自己閉塞するというようなテーマでは、現実の暮らしのなかでおなじような体感をして、それぞれの人生を送っている青年たちには、自閉させるツールとして消費させられるだけと感じたのだ。
ぼくは、そのような若者たちに足場を半歩ずらすことを提案したくなったのである。そうすれば、突破できる道も拓けるのではないか、
というメッセージを旧作の物語を利用して提供できないだろうか、と考えたのだ。
作業は、カミーユという主人公が出会う事件、出会う人、体験する戦闘経験をとおして、心になんらかの糧になるものを感じられる少年と考えて、彼の人生を追いかけてやるだけのものにした。
そのために、大団円がどうなるか分からないまま分からないまま全体構成をやり直していったのだが、そこで得られた結果は、かるい病気など吹き飛ぶような当たり前のものになって、自分ながら舌を巻いたものだ。」(Zガンダム 創作の秘密より)
そして、このようなスタンス変更の提案は、同時に、富野監督自身にとっても、大事なことであった。
「この仕事によって、ぼく自身、少しだけ足場をずらすことによって、もう妄想は抱かないですむだろうと想像できるようになって、ありがたいと感じるようになった。」(Zガンダム 創作の秘密より)
さて、以上のような前提知識の上で、Zガンダムの映画のラストがどう変わったかをみていく。
2.ラストの解説
映画Zガンダムにおいて、カミーユは若干TV版とはキャラクターが異なった。
かつてのようにキレまくることはなく、周囲を見ているし、周囲への状況把握力が強調されている。
(代表例:物語冒頭でジェリドを殴るシーンのいきさつはぼかされ、エマの発言はカミーユの状況把握力に驚くセリフに変わり、シャアを殴るシーンは削除された)
これは、富野監督が言うように、周囲を見ることで全ての経験から学ばせるということだろう。
しかし、そうはいっても、映画第三弾の後半、エマの前でバイザーを開けるシーンがそのまま残っているように、カミーユは、映画版においてさえ、明らかに狂いつつあった。
その後、ハムブラビを倒すシーンを見て、エマは言う。
「私の命をすって!Zガンダムはそれができるマシンなのよ!」(セリフはうろ覚え)
TV版では、ここでZガンダム独自のバイオセンサーの話が出るが、映画では削られている。
これは、生命とのリンクがTV版ではZガンダムというハードに依存しているのだが、映画では、あくまでカミーユの問題になっているためだと思われる。
つまり、他人に対してオープンな精神を持っているからこそ、カミーユは、エマの命をとりこんで自分の力に出来るのである。
このことは、シロッコとの最後の戦いで、よりはっきりする。
シロッコを守ろうとするサラに対し、映画版では、カツはテレビ版とは異なる指摘をする。
「今のあの人の心は閉じている・・」(セリフはうろ覚え)
それに対して、数多くの精神と触れ合い、それを取り込んで自分の力にできるカミーユ。
TV版での対決は、一人ひとりの生命の重みを感じられるカミーユと感じられないシロッコの対決という意味あいであったものが、映画版では、心を開いて他人の力を自分のものにできるカミーユと、心を閉ざしているシロッコの対決というように変わっているのだ。
このことは、富野監督がターンエーの頃から考えていた新しい「ニュータイプ」の定義の、初めての表現でもある。
「学ぶということは、他者をとりこむことで、自己に他者を投影することである。となると、自己はひとりではないし、また、他者が自己のものを学んでくれて、吸収してくれるなら、そこにも自己がいることになる。
これは、多重人格論ではなく、このように統合されているという認識が強固であれば、専制的な意志の統合とはちがうものになる。これはかなり長いあいだ誤解されるだろうが、統治論とか管理ではないかたちのニュータイプ化として認識される時代はくるだろう。」(「ターンエーの癒し」より)
そして、このニュータイプの定義にしろ、映画におけるシロッコとカミーユの対決にしろ、上述したように、精神を自分ひとりに内向させることで鬱病になり、周囲の人々に意識を向けることで病から回復した富野監督自身の体験そのものであろう。
そして、カミーユは、TV版同様に、シロッコを倒す。
ところが、やはり、TV版同様に、シロッコは怨念を発し、カミーユをそれを受けてしまう。
エマの前で、宇宙空間であるにも関わらずバイザーを開けたこととあわせ、カミーユの精神が崩壊するのは間違いない状況まできているのだ。
しかし、そこで、TV版からの異変が起きる。
ファ・ユイリイがやってくるのだ。
それ自体はTV版と同じなのだが、ここでは決定的に異なる意味がファには与えられている。
まず、カミーユが精神を崩壊させるのは、単にプレッシャーやシロッコの怨念だけではなく、現実からの逃げであったということを富野監督は言っていたが、これは、富野監督自身の病気の経験では以下の言葉に対応する。
「数字をみてしまうと、あっという間に鬱病の症状がでそうになって、心身症だ自閉症だといって仕事を放り出したくなる。」(ターンエーの癒しより)
次に、TV版では崩壊したカミーユの精神が、映画版では、最後の最後で崩壊しなかったのは、映画版カミーユが外部に目を向けるキャラクターであることに加えて、ファがやってきてくれたためであった。
これは、富野監督自身の病気の以下の経験に対応する。
「だれかが見てくれている、誰かが聞いてくれているという想像は、自閉症になることを予防してくれる。
自己が安定するのだ。」(ターンエーの癒しより)
その結果、映画版カミーユは、病に逃げることなく、ファがみてくれているということに対する気づきから、精神崩壊ギリギリのところで、立ち直ることができる。
「うわー、こんなひどいことをやられて、辛かった、辛かった、辛かった、辛かったぁ〜」で止まる子を、「辛かったんだけど、だけどこの辛さを知ってくれている、この人がいてくれた、この人がいてくれたんだ。だったら、また頑張れる」という目線を持つ。それだけの違いを持ち込んだのです。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)
その結果、精神の崩壊ギリギリのところで、映画版のカミーユは、現実の富野監督同様、立ち直ることができる。
そこで気づいたものは、「日常」のかけがえのなさであった。
まずは富野監督自身の経験。
「日々の情を大切にしたい。ぼくは、このような仕事をすることで、自閉から鬱病になってしまうかもしれない自己を支えることができた。」(ターンエーの癒しより)
次に、映画カミーユのラストについての説明。
「ここまででカミーユという少年は、この戦争状態の中で、何人かの男や女や子供たちを見てきたわけですが、ラストに向けて結局自分にできることはこれしかない、というところに落ち着くわけです。それはどうやら非常に手近なものになるかもしれないんですが、基本的にはむべなるかな、という落ち着きどころだと思っています。
それが一生、彼にとって精一杯生きていくべき日常になるのでしょう。
そして、その日常というのは、フォウに出逢うことがなければ、決して手にすることのなかったようなものなのです。
「Z」という作品は、ロボットの宇宙戦争ものですから、モビルスーツのひょうなツールを通して、宇宙という「世間」の中で、どういうふうに今後の自分を生かしていこうかとするのかというときに、こういう方法しかないのだということを、彼は選択するというだけのことです。
カミーユが『星の鼓動は愛』のラストでする選択は、ひょっとしたらとても手狭なことかもしれないんだけれど、きっと皆が「そうだよね」と認識してくれるような、最大公約数の回答を手に入れたことになっているだろうと思います。そういうふうにできるなら、鬱にもならずに、精神崩壊も起こさずに、この人は暮らしていけるだろうということで、「隣人の安心」というものを手に入れられるという物語になっていきます。
つまりその結末というのが、今回の「新訳」の本質です。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)
非常に手近な、とても手狭な選択としての「日常」である、ファ・ユイリイ。
彼女が見ていてくれたからこそ、精神の崩壊を起こさずに済んだというのは、まさに富野監督と、奥さんの亜々子さんとの関係そのもの
であろう。(詳しくはターンエーの癒し参照)
つまり、新訳Z3部作というものは、TV版のカミーユと同様に精神の病で苦しんだ富野監督が、自身の体験をもとに、どうしたらそのような状況に陥らないですむかを描いた、メッセージ的な作品なのだ。
・周囲をプレッシャーと考えずに、よくみて、学ぶこと。
・日常の中にある大事な人との時間を大切にすること。
そのわずかなスタンスの違いだけで、TV版では崩壊したカミーユは、映画版ではハッピーエンドを迎えることができた。
映画版でも、バイザーを自ら開き、シロッコの怨念を受け、精神崩壊の手前までいっていたにも関わらず・・
さて、結局、新訳Zガンダムのラストとは、一体どこが衝撃的だったのか?
それは、戦争によるプレッシャーやシロッコの怨念まで含め、TV版と全く同じ経緯であっても、おそらく、意識の持ち方をわずかに変えるだけで、人は精神を崩壊させることもあれば、そこから復帰することも可能になるという、富野監督自身の実体験に根ざした変化こそが、驚くべきところではないだろうか?
その一点、おそらく、映画全編のうち、最後のわずか数分を表現するためだけに、それまでの全ストーリーは捨石として使われ、あえてテレビ版とほぼ同じ話を使った。(これは、ザンボット3でも富野監督が使った手法であると思う。)
つまり、映画版がテレビ版とほぼ同じ物語であるのは、総集編だからではなく、わずかな意識の違いが、精神の崩壊からハッピーエンドへの転回をもたらすということを表現したかったのだ。
「カミーユが宇宙空間でバイザーを開けてしまうというところまでは全部使っているけど、彼が狂わないという物語ができたんです。スゴイですよ!
このプロットで全体を見直したときに、当初は今言ったシーンは外れるだろうと思っていました。
いくらなんでも、あのテレビ版の芝居は、カミーユが発狂するための伏線描写だったわけだから、絶対に外す必要があると思ったんだけど、それがまったく外れなかったのです。
これはスゴイことだと思っています!!」
Zガンダムラストの衝撃とは、ハッピーエンドだからではなく、同じプレッシャーやシロッコの怨念を受けていてさえ、人はわずかな意識の違いで、精神を崩壊させずにすむという証明たりえるということであり、それに気づいたとき、かつて精神を病んだ富野監督自身が、おそらく誰よりも衝撃を受けたのだろう。
そして、映画完結編の「星の鼓動は愛」のパンフで富野監督はこうかたる。
「老齢を直前にして、かつて自分が考えて実行しようとしていた志が、思い込んでいたほど自閉的でなかったのではないかと知るにつけて、この現実的な記憶と体験を観客の皆様に知ってもらうことも悪いことではないと考えるようになりました。
たかが、ロボット物といわれるジャンルの作品でこのように直截的に自己の問題を考えることができましたのも、すべからく皆様方ファンの方がいらっしゃったからのことです。」
若干分かりにくい文章であるが、おそらく、こういうことだろう。
かつて自閉と精神崩壊の物語でしかなかったZガンダムが、目線をわずかに変えることで全く異なる物語になりうることに気づいた富野監督は、「組織と個人の軋轢」のなかで自分が実際に精神の病にかかり、そこから復帰した記憶と体験を、Zガンダムの映画化を通じて考え、語ろうとしたのだ。
20年前、富野監督が「組織と個人の軋轢」をテーマにZガンダムを製作したとき、富野監督には結論は見えず、シロッコは死に、カミーユは崩壊した、誰にも光の無い、救いの無い物語しか描けなかった。
しかし、その後20年の間に、まさに「組織と個人の軋轢」のなかで富野監督は何度もキレ、あげくのはてには精神の病になり、そこからかろうじて復帰するなかで、「組織と個人の軋轢」をどうすれば突破できるのかを見出した。
それを、若い世代や、これから中年になろうとしている、かつて自分が何も解決の指針も示せなかった世代(私の世代だ)に、伝えようとしたのが、新訳Zガンダムというものがたりの本質だろう。
「リアリストでは、中年以後を突破できない。それを我々の世界は現実生活の中で知っています。」(Zガンダム・ヒストリカ1より)
「最後は年寄りの説教でした。」(星の鼓動は愛の映画パンフより)
かつて、シャアが言うように、「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破する上で、一番重要なことではないかと感じたのだ」と考えていた富野監督が、このセリフを削り、カミーユがシャアを殴る「そんな大人、修正してやる!」も削り、宇宙でバイザーを開けたり 、シロッコの怨念を受けるシーンは残した新訳ゼータ。
TV版の崩壊したカミーユを描いた気持ちの中には、「アニメだけ観ていたらお前らバカになるぞ」と視聴者に渇を入れる意図もあり、また、病理的な物語を描くことで、「芸術家というものはこのような作業をつうじて大成していくものだと開き直り」もあったという。
しかし、自身が病気も経験し、20年という刻(とき)をかけてたどりついた結論は、「組織と個人の軋轢」の中で、どんな事態があっても、TV版カミーユや自分のように、狂うことなく事態を突破するための方法を、Zガンダムという娯楽作品を通して、いずれ歳をとり、中年という難しい年齢にはいるであろう若者たちに伝えることであった。
・周囲をプレッシャーと考えずに、よくみて、学ぶこと。
・日常の中にある大事な人との時間を大切にすること。
最後にもう一度、富野監督の考える新しいステップのニュータイプ像の定義を見てみよう。
「学ぶということは、他者をとりこむことで、自己に他者を投影することである。となると、自己はひとりではないし、また、他者が自己のものを学んでくれて、吸収してくれるなら、そこにも自己がいることになる。
これは、多重人格論ではなく、このように統合されているという認識が強固であれば、専制的な意志の統合とはちがうものになる。これはかなり長いあいだ誤解されるだろうが、統治論とか管理ではないかたちのニュータイプ化として認識される時代はくるだろう。」(「ターンエーの癒し」より)