まずは、2つのインタビューから抜粋します。 1.ロマンアルバムより 「その根底には、今の世の中に生まれてきた子供たちが、どうしてこんなものを背負ってこなければならなかったのか・・というものをいっぱい抱えているという思いがあるんですね。 そういうふうな思いで主人公を作ろうと思ったんです。この映画の中では”祝福されぬ”主人公でなければ、主役足りえないと思っていたんですから」 「村の老巫女は「運命(さだめ)」だと言います。「その祝いはやがてそなたを殺すだろう」とはっきり言っている。 それは、生命という存在そのものが持っている非常に不条理な部分だと思うんです。しかし、こういうことは子供たちに限らないですよ。大人もそうです。いずれ死ぬんですよ。 命の問題を語ろうとしたときに、死の問題を抜きには語れないんですね」 不条理な死の呪い。その運命が「現代に生きる人間と似ているんじゃないか」 2.風の帰る場所より 「不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子供とか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ」 さて、以上が宮崎監督による説明ですが、若干わかりにくい気がします。 たしかに、世の中の不条理を描きたかったのでしょうが・・ 以下、宮崎監督の深層に入り込む努力をしてみます。 1.作家としてのスタンス この点で興味深いのが企画書における説明です。 そこにはこう書いてあります。 憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。 呪縛を描くのは、解放の喜びを描くためである。 つまり、呪いを描くのも、そこからの解放を描きたかったのでしょう。 この点、宮崎監督の他の多数の作品と同様に、登場人物が「浄化」されていく姿を基本としていることがわかります。(この点についての詳細は宮崎駿論を参照ください) ただし、他の宮崎監督作品では、悪人がいい人になっていく形で「浄化」が描かれるのに対し、「もののけ姫」という混沌と対立の物語では、憎悪や呪縛からの解放という形式をとったのでしょう。 2.ナウシカからのテーマの継続 漫画版ナウシカを描いてくなかで、当初自然や母性賛歌のようなテーマであったものが、生命の持つ偶然性や不条理性の認識へと力点が移っていきました。 その結果、漫画版ナウシカ完結の頃には、不条理の中でも生きることの重要性がテーマとなっていました。 そのため、漫画版ナウシカ完結直後の作品である「もののけ姫」においても、不条理な業とともに生きる主人公を描くことにつながったと思われます。 詳細は、以下を参照 ナウシカの母 風の谷のナウシカの生命論 3.より個人的な事情 もともと、宮崎監督が『もののけ姫』の原案となる日本を舞台としたファンタジーを考えていたとき、子供はちょうど自我の形成期だったとのとです。 「(作りたい作品は)自分の子供の成長と関係あるんですね。 子供がいない時は自分のために作りたかった。幼児がいる時はチビを楽しませるために作りたい。少年になると自分がその頃に夢見た物語が湧き出てきちゃう。今、自己形成期になって、自立と依存の間をゆれている息子を横目で見てると、なんというか、自分の中に闇が存在しているのに気がついた頃の自分を思い出すわけですね。 闇を持っていながら、だから光を持って進んでいける少年の自己形成の物語をやってみたいです。」 このインタビューは1983年のものです。映画「もののけ姫」の時点では、すでに子供も成人してしまいました。 しかし、なぜアシタカに闇の属性を持たせたかったかというと、もともと、自分の子供に向けて、闇を持っていながら光を持って進む少年の物語を見せたかったという思いがあったため、肝心の息子は成人してしまった後でも、作品のコンセプトとしては引き継がれたのではないでしょうか? そして、すでに息子は自己形成期を終えてしまっていたため、一般論として、「現代に生きる人間と似ているんじゃないか」という、先に引用したような回答になったと思われます。
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