ナウシカの胸は大きい。 私は、これは、ナウシカが共感する<自然>や<生命>ということを象徴しているのだろうと漠然と考えていたが、宮崎駿監督の弟の宮崎至朗さんはこう語る。 「兄が幼いころのことですが、母が7〜8年入院してたことあるんですよ。 寂しい思いをしたんでしょうね。 「ナウシカ」のバストが大きいのは「母性へのあこがれ」でしょうね。 悪くいえばマザ・コンとか・・・ あ、これ書かないでくださいね。」 (風の谷のナウシカGUIDEBOOK「 宮崎駿の1日」より抜粋) たしかに、母性というのは宮崎アニメにとって重要なキーワードである。少女ながらに大人の男達の母親のように振舞うシータ(やはり胸が大きい)や、実際、大きくなった子ども達に指図するドーラ(宮崎家の母親は彼女のようだったらしい)。それに、(胸はともかく)母の不在がそのまま描かれたトトロなど。 何よりも、漫画版を見ればわかるように、ナウシカは多くの人にとって、まさに母である。巨神兵にとっても・・ だが、宮崎監督は、ナウシカの胸の大きさには、それよりはるかに深い意味を込めていた。 以下、映画版公開時のインタビューより抜粋。 −−−ナウシカという少女は、実に魅力的ですよね。 宮崎「ナウシカの胸は大きいでしょう。」 −−−はい(笑) 宮崎「あれは自分の子どもに乳を飲ませるだけじゃなくてね、好きな男を抱くためじゃなくてね。あそこにいる城オジやお婆さんたちが死んでいくときにね、抱きとめてあげるためのね、そういう胸なんじゃないかと思ってるんです。 だから、でかくなくちゃいけないんですよ。」 −−−ああ・・・なるほど・・・(衝撃!)。 宮崎 「その、やっぱりね、胸に抱きしめてあげたときにね、なんか、安心して死ねる、そういう胸じゃなきゃいけないと思ってるんですよ。」 −−−よくわかりました。 (ロマンアルバム「風の谷のナウシカ」より抜粋) この後描き続けられた漫画版ナウシカには、瀕死の兵を胸に抱くナウシカ、悲しみに泣く城オジ達を胸に抱いていたわるナウシカなど、印象深い名シーンは数多い。 ナウシカの胸はそのために大きかったのだろう。 だが、物語も終盤に入り、とうとうナウシカが入浴するシーンが描かれるが、 そこは、それまでのイメージとは異なる、控えめな表現の胸のナウシカがいた 。 なぜ、ナウシカの胸は、最後の最後で小さくなったのか? 以下は連載終了直後のインタビューである。 −−−14年前に、ナウシカを作ったときと、終わった時と、宮崎さんの中でナウシカ像というのは大分変化しましたか? 宮崎「ううん、ナウシカはナウシカのままですよ。変わったでしょうけれど、 ナウシカはナウシカですよ。少し前よりもナウシカのことが、少しわかるようになったという方が正しい。 整合性とかの為でなくて、本当に僕はナウシカの後にくっついていったわけですから。ナウシカに対する考え方が自分の中で変化したとかいうわけではなかったですよ。」 −−−それは面白いですね。それはよく言われるキャクラクターがひとりでに動く、もうナウシカが勝手に動き出すということですか。 宮崎「ナウシカは、こうするだろうって、はじめから予測していなかったから 、彼女がどう動いても、勝手にどうのという言い方はしたくないですね。 ただ一つだけ変わったことがあったとすれば、もっと肉体的な人間として描こうと初めは思っていたんですよ。 しっかりと胸も大きく描いてと思っていた。 でもいざ、ヌードシーンが出てきたら、何か申し訳なくて描けないんですね。 それだけは確かでした。本当に。 これは恥じらいがあったとかそういうことではなくて、何か見てはいけないものを描くような気がしてね(笑)。それで、これは描きたくなかったですね。 そういう感情が自分の中に生まれたということだけは確かです。 それが変化だよね。むしろ最初だったら平気で描いてたかもしれない。そういうことを恥じらう人間だとは思わなかったから。 そういうことをやろうと思ったのだけれど、この時期にきて、何かそんなことまでやる必要はない。 そういうことでこのキャラクターを描く必要はない。もっと精神的なもんだけで描いて行っていいんだということを最後のところで思うようになったというのは、自分が思いつく変化のたった一つの例です。 「風の谷のナウシカ」は、当初は、フカイやオームに象徴されるように、自然の再生というテーマを持っていたが、最後には生き方の問題に焦点が移った。 ナウシカの胸の大きさの変化は、おそらく、漫画版「風の谷のナウシカ」における、テーマ設定の微妙な変化とも連動しているのだろう。 また、ナウシカのヌードシーンは、牧人との対決の中で描かれるが、このシーンだけ、ナウシカは母ではなく娘になっていたことも考えさせられる点である。
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