スキンの技術は向上し、シリコーンとTPEの人形が少なくなります。人形は、独自の合成材料で作られます。これらの材料は、タッチセンサーのような技術とのより良い統合を可能にし、より現実感を感じます。実際の肌の微妙な模様、線、テクスチャを見るようになります。材料はまた、体のどの部分に位置するかによって硬さが異なる。例えば、骨が肌に近い場所、例えば腰、肩、肘などは、胸や尻のように女性が通常より多くの脂肪沈着を有する場所よりも硬く感じるでしょう。
最近、スカーレット・ヨハンセンのように見えるように・ドールを作った男性についてのプレスがありました。彼女の姿はここにあります。悪くない!
どのようにリアルドールは、より現実的に見えるようになりますか?
スキンの技術は向上し、シリコーンとTPEの人形が少なくなります。人形は、独自の合成材料で作られます。これらの材料は、タッチセンサーのような技術とのより良い統合を可能にし、より現実感を感じます。実際の肌の微妙な模様、線、テクスチャを見るようになります。材料はまた、体のどの部分に位置するかによって硬さが異なる。例えば、骨が肌に近い場所、例えば腰、肩、肘などは、胸や尻のように女性が通常より多くの脂肪沈着を有する場所よりも硬く感じるでしょう。
人形人工知能や人形ロボットなどと比較すると、実際の人形が今日どのように見えるかは数年遅れています。しかし、人形メーカーは、製品の物理的な外観(シリコンワイフを含む)で停滞していません。人形の登場は今年も改善され、より現実的になります。
セレブの人形
最終的な人形の傾向は、今後数ヶ月に見て有名人のアニメラブドールの出現です。
その要求はそこにあります。有名人がの人形として再現されるように彼らの肖像を認可し始めるのは時間の問題です。私たちは、ポルノの女優やアニメのキャラクターが最初に現れるのを見るでしょう。彼らが社会的/評判の影響を扱うのが楽になるからです。しかし、十分に有利な場合、私たちは身体を人形として作り直すことを喜んでいるすべての有名人を見始めるでしょう。
人工知能人形
完全に意識的なロボットは最終目標ですが、途中で肥満ラブドールは性格を持ち始めます。
初期のプロトタイプで見たように、人格は最初は単純になります:
人工知能の能力は急速に学習され、人形とより統合されます。人形は、すべてのタイプとその所有者との様々なレベルの親密さの会話をすることができます。所有者はまた、完璧な仲間になるために人形の人物を微調整することができます。
人形人工知能はある時点でワイドウェブにも接続できるようになるでしょう。これはあなた人形が世界のすべての知識を持つことを可能にします(オンラインで利用可能な場合)。カルマの経について皆さんに教えることができるロボットを想像してみてください。
]]>世間としてはマニアックな趣味という認識かもしれませんが、一応認知はされているみたいですね。ですが、知名度にも関わらずユーザーの人口はあまり多くはありません。
]]>アンバル星人ゴーガディと尊長怪獣ゲリデヴァとの戦いから1年後、元の世界には戻らず、ジェシカセリアとして様々な次元へと渡って旅をするジェシカ・カイオス。
¶アンバル星人ゴーガディと尊長怪獣ゲリデヴァとの戦いから1年後、
アンバル星人ゴーガディと尊長怪獣ゲリデヴァとの戦いから1年後、元の世界には戻らず、ジェシカセリアとして様々な次元へと渡って旅をするジェシカ・カイオス。
]]>一方でジェシカは目が覚めると、そこはなんと別の世界。あの玉の力によってこの世界に飛ばされていたのだ。しかもこの世界には誰もいない。いるのはこの世界に来たジェシカのみ。
¶一方でジェシカは目が覚めると、そこはなんと別の世界。あの玉の力よってこの世界に飛ばされていたのだ。しかもこの世界には誰もいない。いるのはこの世界に来たジェシカのみ。
¶山野バン達が日本へ帰還するのを見送ったジェシカ・カイオスは、Nシティで散歩をしている。『あれ以来、あの戦いが嘘のようにこの世界は平和となっていた。』ジェシカはそう思っていた。すると散歩をしている間にジェシカはビルの隙間の道に光の玉を見つけた。ジェシカはその玉を触れようとするが、その瞬間、玉から突然両手が出現し、ジェシカの胸を触れ、100回ずつ揉み始めた。だか、ジェシカは苦しそうであった。その時、揉み終えた玉は急に光始め、ジェシカはそれと共に消えてしまった。
一方でジェシカは目が覚めると、そこはなんと別の次元に飛ばされていたのだ。
¶山野バン達が日本へ帰還するのを見送ったジェシカ・カイオスは、Nシティで散歩をしている。『あれ以来、あの戦いが嘘のようにこの世界は平和となっていた。』ジェシカはそう思っていた。すると散歩をしている間にジェシカはビルの隙間の道に光の玉を見つけた。ジェシカはその玉を触れようとするが、その瞬間、玉から突然両手が出現し、ジェシカの胸を触れ、100回ずつ揉み始めた。だか、ジェシカは苦しそうであった。その時、揉み終えた玉は急に光始め、ジェシカと共に消えてしまった。
¶山野バン達が日本へ帰還するのを見送ったジェシカ・カイオスは、Nシティで散歩をしている。あれ以来、あの戦いが嘘のようにこの世界は平和となっていた。すると散歩をしている間に
ミゼルとの戦いから数ヶ月。
山野バン達が日本へ帰還するのを見送ったジェシカ・カイオスは、Nシティで散歩をしている。『あれ以来、あの戦いが嘘のようにこの世界は平和となっていた。』ジェシカはそう思っていた。すると散歩をしている間にジェシカはビルの隙間の道に光の玉を見つけた。ジェシカはその玉を触れようとするが、その瞬間、玉から突然両手が出現し、ジェシカの胸を触れ、100回ずつ揉み始めた。だか、ジェシカは苦しそうであった。その時、揉み終えた玉は急に光始め、ジェシカはそれと共に消えてしまった。
一方でジェシカは目が覚めると、そこはなんと別の世界。あの玉の力によってこの世界に飛ばされていたのだ。しかもこの世界には誰もいない。いるのはこの世界に来たジェシカのみ。
]]>第3弾『HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN』
¶第3弾『[[HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN]]』
¶第3弾『HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN』
¶第3弾『HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN 第一章 赤と青 二人の戦士』
¶第3弾『[[HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN 第一章 赤と青 二人の戦士]]』
第1弾『HYPER GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア 巨人となったジェシカ・カイオス the Story of JESSICA KAIOS 巨大怪獣ガヌーダ編』
第2弾『HYPER GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア 巨人となったジェシカ・カイオス the Story of JESSICA KAIOS 尊長怪獣ゲリデヴァ編』
第3弾『HYPER W GIGANTIC HEROINE ジェシカセリア&ジリアンセリア the Story of JESSICA KAIOS & JIRIAN TYEN』
枚数が売れたのはそのあたりだが、作品として優れているのは、デンジャラスの時期であるし、ほかにも、映像系に限って言っても、ディズニーランドでやっていたキャプテンEO、ジャネットと共演したスクリーム、ゴースト、インヴィンシブルのYou ROCK MY WORLD(フルバージョン)だって素晴らしい。
ライブなら、デンジャラス・ツアー、ヒストリー・ツアー、スーパーボールでのコンサート、30周年記念コンサートなど、スリラー期やバッド期とは比較にならないインパクトのものがいくらでもある。「This is it」を見ても、誰でもわかるだろう。
以下は、その経緯を、簡明に伝えるためのものである。
マイケル・ジャクソンの最後の10年間を襲った5つの不運
マイケルの追悼番組の多くが、以下のようにのべている。
マイケル 栄光と転落
そして、スリラーやバッドを絶頂期とし、その後はスキャンダルにまみれ、財政難に苦しんでいたとしている。
しかし、実際は異なる。
ここでは、TV番組の偏向報道について一言いったあと、この10年のマイケルの苦難について、簡潔に語りたい。
1.マイケルの絶頂期はスリラーやバッドではない。
枚数が売れたのはそのあたりだが、作品として優れているのは、デンジャラスの時期であるし、ほかにも、映像系に限って言っても、ディズニーランドでやっていたキャプテンEO、ジャネットと共演したスクリーム、ゴースト、インヴィンシブルのYou ROCK MY WORLD(フルバージョン)だって素晴らしい。
ライブなら、デンジャラス・ツアー、ヒストリー・ツアー、スーパーボールでのコンサート、30周年記念コンサートなど、スリラー期やバッド期とは比較にならないインパクトのものがいくらでもある。「This is it」を見ても、誰でもわかるだろう。
これについては、とにかく、自分で見てほしい。
日本の追悼番組は、マイケルを懐メロ歌手として捉え、ほとんどスリラーかバッドしか流していない。
スリラーやバッドが売れたのは、当時、音楽ファンの枠を超えたブームを起こしたからである。
それ以降の作品を、多くの人は基本的に見ていないから知らないだけである。
好き嫌いは個人によりあるだろうが、マイケルが自分の世界をさらに切り開いていることは誰でも見ればわかると思う。
2.マイケルの慈善活動がほとんど扱われていない
あれほど皆が熱狂した「We ARE THE WORLD」の話でさえ、ほとんど取り上げられていない。
彼の様々な環境保全やチャリティ、ノーベル平和賞ノミネートの話さえ、全く扱われていない。
おおまかに言って、彼の資産は1000億円、彼の負債は500億円だが、これまでに行った寄付金は600億円にのぼると言われる。(先日やっていたJ−WAVEの特集の話による)
3.マイケルは、栄光から転落したわけではい。
というか、転落していたが、それは、二つの不運と、3人の悪意の積み重ねによる被害という明確な原因によるものであった。
TV放送でよく言われているように、本人のスキャンダルのせいというよりも、仕掛けられた悪意によるものである。
ここからが、本題である。
以下は、その経緯を、簡明に伝えるためのものである。
マイケルは、ヒストリーツアー後、小休止していた。
しかし、
1999年(2000年だったかな?) MTVで、自分はこれからだぜ!と復活宣言。
2001年 新作アルバム「インヴィンシブル」を発売。
この時の先行シングル「You ROCK My World」では興味深いシーンがあった。
誰も彼を注目していないなか、自ら、舞台のカーテンを開け、皆の注目を集めるのである。
これを見た瞬間、私は、無理やりでも世間を注目させてやるという彼の意欲を感じた。
だが、残念ながら、ここからは、苦難の10年のはじまりでもあった。
運の悪さ1:ソニーが思っていたほどプロモーションに協力してくれなかった
マイケルは、スリラーやバッドのように、20分規模の長編ビデオを作りたかったらしい。
しかし、ソニーは、マイケルが期待したほどには、プロモーション費用をかけず、また、マイケルが希望した曲(アンブレイカブル)でも作らせなかった。
この点については、マイケル・ジャクソンとソニー戦争にまとめました。興味ある方はそちらをお読みください。
さて、そうはいっても、最初のシングル「You Rock My WORLD」のプロモーションビデオは、(ロングバージョンは)相変わらず見事な作品であったが、これは制作費に3億円かかっていた。(マーロンブランドの出演料が高かった?)
(参考)マーロン・ブランドとの対決:これについてはゴッドファーザーとの対決参照
ともかく、ソニーは、マイケルが期待したほどには、後押しせず、アルバムは、米国では200万枚しか売れなかった(制作費3000万ドル、制作期間5年にもかかわらず・・)
これにマイケルが激怒。
後には、なんと、マイケルは率先してファンを扇動し、ソニーへの抗議運動を行うこととなる。
これは、ファンの私ですら、マイケルの精神はちょっと不安定なのではないかと思った。
アルバムの売り上げなど、マイケルがビデオクリップを数本追加すれば、10倍くらいには簡単に増えるのに・・、抗議行動する時間があるなら、ビデオを早く作って欲しいと思ったものである。
それはともかく、マイケルはマイケルで、自分の力でプロモーションし、盛り上げようとしていた。
なんといっても、彼には、絶対成功する隠しネタがあった。
それは、ジャクソン5再結成である。
彼は、新作発表と自らの30周年記念に、ジャクソン5再結成はを目玉とした1大イベントを開催することを計画した。
しかし、ここから、彼は、記録的な運の悪さの連鎖に会うことになる。
運の悪さ2:ビン・ラーディンによるテロ
2001年 ジャクソン5復活を含む、デビュー30周年コンサートで、マイケルは自分の新作を一気にブレイクさせようとする。
この時のコンサートメンバーは、おどろくほど豪華であった。
ブリットニー・スピアーズ、ディスティニーズ・チャイルド、ホイットニー・ヒューストンなど、ビッグネームがずらりと並び、マイケルの歌を歌った。
さらに、アッシャーとのダンス対決まで行った。
しかし、なんといっても最大の目玉はジャクソン5再結成であった。
これによって、一気にマイケル・ジャクソンへの注目が集まるはずだった・:・
しかし、演奏した翌日(9・11)に、なんとニューヨークにテロが起き、世界貿易センタービルが破壊された。
さすがに、ジャクソン5再結成のお祝いどころではなくなってしまう。
一気にイラク戦争へと突入する中で、マイケルの大パフォーマンスも忘れられてしまう。
誰にも予期できないテロであった。これは、運が悪いというほかはない。
運の悪さ3・・マーティン・バシールによる悪意:自分のスキャンダル追及番組を全力で支援
ジャクソン5再結成も不発に終わったマイケルは、次なるプロモーション施策を考えていた。
そこに、悪魔の声がやってくる。
2003年 「世間はあなたを誤解している。本当のあなたを皆に知ってもらおう」という、
マーティン・バシールにひっかかり、数週間の生活のドキュメントをとらせてしまう。
マーティン・バシールは、かつてダイアナ妃のインタビューをとって話題になった人物であり、マイケルも信用してしまったのだろう。
この時、致命的だったのは、編集権を完全にマーティン・バシールに渡していたことである。
結果として、逆に、マイケルのスキャンダル攻撃番組を作られてしまった。
ここでのマイケルは、確かに、目もうつろ(というか、焦点があっていないというか、血走っているというか・・)、無精ひげ、子供とばかり遊んで・・という状態で、あきらかに、ちょっといっちゃっている感じがした。
しかし、いきなりマイケル批判番組に方針変換したマーティン・バシールは、やはり道義的には許せない気がする。
だが、正直言うと私は、何よりも、こんな番組の存在を許してしまったマイケル自身に、もっとも驚かされた。
彼が、まともな判断力を保っていた時期には、ありえない失態だった。
運の悪さ4・・ギャヴィン少年の母による悪意:お金目当ての悪人にだまされる
マイケルは、それに対して、「裏切られたマイケル・ジャクソン」という番組で反論する。
マイケル批判番組の映像内容を、マイケル側が撮った映像と比較し、検証するというものだ。
しかし、この番組が、彼のキャリアにとって、最大の致命傷となった。
マイケルは、昔から、多くの子供達に慈善事業を行っていた。
医者に死を宣告された子供たちに、ネヴァーランドに招待するのである。
この時も、そのような子供達がいた。
その中に、マイケルのネバーランドに来てガンが治ったギャヴィン少年の奇跡も放映した。
ところが、この少年とその親がくせものであった。
自分の子供はガンだ、と言っては、有名人にたかってお金をせびる常習犯だったのである。
この親は、マイケルにたかるだけたかったあと、これ以上、お金を引き出せないとみるや、
今度は、自分の子供は、マイケルに性的ないたずらをされた、と、方針転換してマイケルを訴えた。
かつて、13歳のジョーイ少年が、マイケルの性的疑惑で多額の和解金をせしめた例を再現しようと思ったのである。
誤解しないで欲しいのは、マイケルが子供を特別に好きなのは事実だが、この件は、そういう次元の話ではなく、完全な悪意による意図的な言いがかりだったことである。
運の悪さ5・・トム・スネドンによる悪意:復活ダンスを、警察と検察官の悪意でつぶされる。
以前からマイケルと犬猿の仲であった検察官がトム・スネドンである。
彼は、かつても、マイケルを少年への性的疑惑で捜査したことがあり、今回を逮捕の最大のチャンスと考えていた。
一方、マイケルは、「You Rock My WORLD」のビデオについて、ダンスのきれが落ちたという評価が出ていた。
そこで、マイケルは、それらの風評を一掃すべく、「今度は、誰も見たことのないダンスを見せてやる」と意気込んでいた。
ところが、撮影当日、警察が踏み込み、マイケルは逮捕される。
マイケルの新しいダンスは幻と消えてしまった。
結局、無罪が確定するのは、2005年である。
これで、1999年の復活宣言以降、6年の大部分がムダにすぎてしまった。
その後は、精神的ダメージが大きく、アメリカから離れ、後にネヴァーランドも売ることになる。
維持費がかかるから売ったというのもあるが、それ以前に、ネバーランドで住む生活スタイル自体をやめたのである。
しばらくは、音楽活動もろくに行っていなかったが、じょじょに再起に向け、トレーニングを開始した。
そして、ようやく、今年、2009年になり、復活コンサートを開くまで、後2週間ほどにせまっていたのだが・・・
残念である。
せめて、「This is it」の3D版だけでも、上映してほしいものである。
]]>そのおかげで、僕らが物質的には苦労しないで、毎日、「またほか弁だな」「
またコンビニ弁当だな」と思いつつも喰えるようになった。文明とは、そうい
うものです。
神がいましたら、やっぱり、その富を奪うことはできないから、人間は、もっ
と貧乏だったはずです。文明というのは、人類が自然からの収奪によって、成
立しているのですから。文明を全否定したいとは、思わないです。
僕も池に入ると、「とんぼやめだかの数が増えたぞ、減ったぞ」と言って喜ん
でいます。だから、チリメンジャコを一握み喰いながら、これらを育てるのに
自然はどれほどの労力を払っているのかとおもうと、「罪深い事だなぁ」と一
瞬おもう。でも「おいしいなぁ」と食べる。そういう矛盾した存在でもあるの
です。人間は。
だから、しようがない。
しようがないから、儲かればほかの生き物の方にもまわそうよ、とおもう。
全部譲り渡す気は起こらないけど。
(『「もののけ姫」を読み解く』より)
]]>そう誤解されても、しょうがないと思わざるを得ないのですけれど、この十数
年、とにかく色々と作品を作ってきて、この大きな転換点にきているのに、「
自然に優しいジブリ」で終りたくなかったのです。
だから、自然と人間との関わり合いをもっと突き詰めて追求して行く。すると
、人間のやってきた事の業というか、文明の本質にある攻撃性とかが見えてく
る。散々、相手を痛めつけて、おとなしくさせてしまってから、「周りに残っ
た者に優しくしよう」と言っているに過ぎないんです。
文明の本質みたいなことをちゃんと描かないで、「優しくする人、よい人」「
優しくない人、悪い人」という考え方で切り捨てていくのは、間違いだと思い
ます。
優しかろうが、優しくなかろうが、人間は自然に対して極めて凶暴に振る舞っ
てきたんです。
それで、自分達が選ばれた者であるとか、この人類が一番高等な生き物である
とか言い出す。ある時には、人類の中のある部分が、一番高等だと順番をつけ
たがる。今また、「優しくする人、よい人」「優しくない人、悪い人」という
判断の単純化が進んでいる。そんなものではないんです。よいとか悪いとかで
はなくて。
こういう人間の本質みたいなものを据えた、自然と人間との関わり合いを描く
映画を作りたいと思っています。それはメッセージというものでもなく、自分
自身に回答が出ていないから、甚だ迷走しながら映画を作ったんです。
この映画は、「悪い人間が森を焼き払うから正しい人がそれを止めた」という
映画ではないのです。
よい人間が森を焼き払う。それをどう受けとめるかなんです。
ハイチのように、実際にそういう状況があります。自分の横にいる子供を飢え
させないために、木を伐るのですよ。貧乏で石油ストーブもないし、電熱器も
ないから、炭がいるのです。
そのために、木を伐って全土が丸坊主になり、さらに漁業もだめになる。何と
かしないとハイチは滅びます。軍事独裁政権が悪いとか民主主義がいいとか言
ってもだめなんです。
(『「もののけ姫」を読み解く』より)
「僕はそれが残酷にならないようにしたつもりですけどね。そういう描写で爽快感を得るような、スプラッタものにするつもりは全然なかった。ただ、人の生き死にの問題を扱わざるを得ないから、それをきれいごとで描いてもしょうがない。人間同士の戦いだけじゃなく、人間ともののけたちの戦いもあって、当然、死者もたくさん出る。そういう世界なんですよ。
まして、登場人物がみんな"人の命が何よりも大切だ”なんて考えるよりも、どうやって生きるかと一生懸命にもがいている中で、死ぬところだけは隠して見せないようにするたんていうことなら、こういう作品はつくらないほうがいいんです。残酷なシーンもあるけど、それは枝葉末節にすぎないんであってね。
まあ、ジブリという会社はおとなしい作品ばかりつくっているというイメージがあるし、僕もそういう部分をいままでずっと抑えてきたから、それで目立つということはあるかも知れませんね。
ただ、さっきも言ったように、この素材を扱うにあたってはもう抑える必要はないと思ったので、あえて踏み込んだということなんです。
正しいことを正しい人が行なうのではなくて、正しいことをやっている人が悪人で、悪人だと思われていた人が非常に善良であったり・・といったことを踏まえないと描けない。善悪の判断だけでつくる映画ではない、ということですね」(ニュータイプ・マーク2より)
「ええ、覚悟してやろうと。それから、自然に優しいジブリなんて思い込んで
いる奴を蹴飛ばしてやろうと思ったんです。なにをトンカチなことを言ってる
んだと。俺はそんなもんじゃないはずだってわかってるはずだと。実際はわか
ってないんですけどね、当然ね。」
そう誤解されても、しょうがないと思わざるを得ないのですけれど、この十数
年、とにかく色々と作品を作ってきて、この大きな転換点にきているのに、「
自然に優しいジブリ」で終りたくなかったのです。
だから、自然と人間との関わり合いをもっと突き詰めて追求して行く。すると
、人間のやってきた事の業というか、文明の本質にある攻撃性とかが見えてく
る。散々、相手を痛めつけて、おとなしくさせてしまってから、「周りに残っ
た者に優しくしよう」と言っているに過ぎないんです。
文明の本質みたいなことをちゃんと描かないで、「優しくする人、よい人」「
優しくない人、悪い人」という考え方で切り捨てていくのは、間違いだと思い
ます。
優しかろうが、優しくなかろうが、人間は自然に対して極めて凶暴に振る舞っ
てきたんです。
それで、自分達が選ばれた者であるとか、この人類が一番高等な生き物である
とか言い出す。ある時には、人類の中のある部分が、一番高等だと順番をつけ
たがる。今また、「優しくする人、よい人」「優しくない人、悪い人」という
判断の単純化が進んでいる。そんなものではないんです。よいとか悪いとかで
はなくて。(『「もののけ姫」を読み解く』より)
「二十一世紀の混沌の時代にむかって、この作品をつくる意味はそこにある。
世界全体の問題を解決しようというのではない。荒ぶる神々と人間との戦いに
ハッピーエンドはあり得ないからだ。しかし、憎悪と殺戮のさ中にあっても、
生きるにあたいする事はある。素晴らしい出会いや美しいものは存在し得る。
憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。
呪縛を描くのは、解放の喜びを描くためである。
描くべきは、少年の少女への理解であり、少女が、少年に心を開いていく過程
である。
少女は、最後に少年にいうだろう。
「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない。」と。
少年は微笑みながら言うはずだ。
「それでもいい。私と共に生きてくれ」と。
そういう映画を作りたいのである。」
ほかに、いくつかのインタビューから抜粋します。
「人間を許すことはできない」と、あの女の子ははっきり言うだろうと。つまり、サンというのは、アシタカに突き刺さった棘ですから。これは今後大変な目に遭うだろうなと思いつつ、でもアシタカはそれを背負って生きていくんだというふうに決めたという事です。」(風の帰る場所)
「人間がつつましく生きていること自体、自然を破壊しているんだという認識に立つと、どうしていいかわからなくなる。でも、自然と人間の問題は、そこから考えないと、やばいなというところまで来てしまったんですね。
サンの最後の言葉は、答えが出せないままにアシタカに刺さったトゲなんです。そしてアシタカは、そのトゲとも一緒に生きていこうと思っている。
あの後、アシタカはタタラ場に住んで、サンは森に住むんでしょう。タタラ場の理屈から言うと、生きていくためには木を切らなければならない。だけど、サンは切るなっていうでしょ。その度に突っつかれて生きていくんだな、アシタカは大変だなと思って(笑)。
でも、それはまさにこれから生きていく人類の姿そのものなんですよ。」(ロマンアルバム)
]]>とくに、「美女と野獣」をモチーフにした初期のイメージボードの「もののけ姫」においては、もののけのイメージは、トトロのイメージに非常に似ています。
ということで、「もののけ姫」のインタビューと、「となりのトトロ」のインタビューを並べてみました。
同じ問題意識から生まれていることがわかると思います。
1.「「もののけ姫」を読み解く」より
「木を伐ったその後に出来上がってきた風景が、今僕らが自然と言っている、日本の見覚えのある風景だと思うのですよ。
それを僕らは、自然と呼んでいるけれど、実は、その前に深い、怖ろしい自然があって、その時の記憶が自分達の心の底にある。山奥には人が踏み入ったことのない清浄な土地があって、鬱
蒼たる森と清らかな水があって、実はそういう形が日本の自然のいちばんの中心ではないかと思うんです。
それが変わるにしたがって、今の慣れ親しんだものになった。日本人の庭というのが、深山幽谷を狙ったというのはその自然観を反映しているのです。だから、森をずいぶんきり倒して山様を変えたにも関わらず、自分達の心の奥底には、やっぱり神がいて、そこに、いちばん清浄な部分があるという記憶だけがいつまでも残っている。僕も、そうした記憶がいつの間にか植えつけられています。
自分たちで、食うために焼き払いながらも、森の持っている神を認識していた。ここでいう神は、魂をつくっている神ではなく、人間が崇める前の大昔からこの土地にあって、生きとし生けるものの根源をなすようなもので、漠然とした思いなのです。
だから日本の神道では清浄な所を決めて、いつもそこを清らかにしておいて穢さない。それが神域なんです。
生態系が残っている所は暗いです。暗いというか、わけのわからないところを人間は持っているのです。フランスでも就職難だったりして、若者の自殺は多いのですけれど、実は、フランスの中で、若者の死亡はほとんど、緑が潤っている北半分なのです。
2.となりのトトロに関連しての発言(出発点より)
「日本の森や林は、本当は暗いんです。入っていくと、どこかおっかなくてゾクゾクするんですよ。何かいるって感じるんですね。」
「日本人にとっては、神様って闇の中にいるんですよ。ときどきは光の中にも出てくるかもしれないけど、いつもはどこかの森の奥深いところにいたり、山の中に住んでたり、そこへ”依代”を建てると、ふらっとそこへやってきたりする。
ですから、沖縄のほうに残っている一番原形に近い神社は、社といっても拝殿はあるにしても御神体は、ただの木だったり石だったりするんです。それも、ピカピカ輝いていたりせず、うっそうと暗いところにシーンとして、蝶々がハタハタと飛んでたりして、どこか不気味なんですよ。
前に子供たちと行ったら、”こわい、こわい”って言うんです。なにかがいる気がする。その”こわい”という気持ちが、日本人にとっては、日本人にとってはある種の森とかそういうものに対する尊敬の念で・・ようするに、原始宗教、アニミズムなんですね。”何かがいる”みたいに自然とは混沌としているんですよ。”入らずの森”というのは、あちこちの土地にあるんだけど、そこへ行くと山歩きでさんざん山仕事やっている人間でもね、なにかあるって感じがするそうです。
突然、恐怖に襲われて、あそこには入らないほうがいいってことになるらしいのね。そういうことってあるんです。それは何だかわからないけど、たぶんぼくはあると思うんですよ。五感だけで感じられるものだけじゃないでしょう、世界というのは、別にオカルトを信用してるわけじゃないですよ。
この世界は人間のためだけにあるんじゃないんだから、そういうものがあってもいいと思うんです。
だから、ぼくは人間のために必要だから森を残そうっていうふうなその能率的な発想で自然を考えるのは、なんかやっぱり違うんじゃないのかなあという気がしてね・・。
そういうのは自分の心の奥深い暗がりとどこかでつながっていて、そういうものを片方で消してしまうと、自分の心の中にある暗がりもなくなって、なにか自分の存在そのものが薄っぺらいものになるという感じがどこかにあるもんで、気になるんですね。
ぼくは初もうでには行ったことないけど、それはあのキンキラキンの神社の中に神様がいるとはとても思えないからで、やっぱりどっか深山幽谷の中に、日本人の神様っているんじゃないのかなあ(笑)。
]]>1.ロマンアルバムより
「その根底には、今の世の中に生まれてきた子供たちが、どうしてこんなものを背負ってこなければならなかったのか・・というものをいっぱい抱えているという思いがあるんですね。
そういうふうな思いで主人公を作ろうと思ったんです。この映画の中では”祝福されぬ”主人公でなければ、主役足りえないと思っていたんですから」
「村の老巫女は「運命(さだめ)」だと言います。「その祝いはやがてそなたを殺すだろう」とはっきり言っている。
それは、生命という存在そのものが持っている非常に不条理な部分だと思うんです。しかし、こういうことは子供たちに限らないですよ。大人もそうです。いずれ死ぬんですよ。
命の問題を語ろうとしたときに、死の問題を抜きには語れないんですね」
不条理な死の呪い。その運命が「現代に生きる人間と似ているんじゃないか」
2.風の帰る場所より
「不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子供とか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ」
さて、以上が宮崎監督による説明ですが、若干わかりにくい気がします。
たしかに、世の中の不条理を描きたかったのでしょうが・・
以下、宮崎監督の深層に入り込む努力をしてみます。
1.作家としてのスタンス
この点で興味深いのが企画書における説明です。
そこにはこう書いてあります。
憎悪を描くが、それはもっと大切なものがある事を描くためである。
呪縛を描くのは、解放の喜びを描くためである。
つまり、呪いを描くのも、そこからの解放を描きたかったのでしょう。
この点、宮崎監督の他の多数の作品と同様に、登場人物が「浄化」されていく姿を基本としていることがわかります。(この点についての詳細は宮崎駿論を参照ください)
ただし、他の宮崎監督作品では、悪人がいい人になっていく形で「浄化」が描かれるのに対し、「もののけ姫」という混沌と対立の物語では、憎悪や呪縛からの解放という形式をとったのでしょう。
2.ナウシカからのテーマの継続
漫画版ナウシカを描いてくなかで、当初自然や母性賛歌のようなテーマであったものが、生命の持つ偶然性や不条理性の認識へと力点が移っていきました。
その結果、漫画版ナウシカ完結の頃には、不条理の中でも生きることの重要性がテーマとなっていました。
そのため、漫画版ナウシカ完結直後の作品である「もののけ姫」においても、不条理な業とともに生きる主人公を描くことにつながったと思われます。
詳細は、以下を参照
ナウシカの母
風の谷のナウシカの生命論
3.より個人的な事情
もともと、宮崎監督が『もののけ姫』の原案となる日本を舞台としたファンタジーを考えていたとき、子供はちょうど自我の形成期だったとのとです。
「(作りたい作品は)自分の子供の成長と関係あるんですね。
子供がいない時は自分のために作りたかった。幼児がいる時はチビを楽しませるために作りたい。少年になると自分がその頃に夢見た物語が湧き出てきちゃう。今、自己形成期になって、自立と依存の間をゆれている息子を横目で見てると、なんというか、自分の中に闇が存在しているのに気がついた頃の自分を思い出すわけですね。
闇を持っていながら、だから光を持って進んでいける少年の自己形成の物語をやってみたいです。」
このインタビューは1983年のものです。映画「もののけ姫」の時点では、すでに子供も成人してしまいました。
しかし、なぜアシタカに闇の属性を持たせたかったかというと、もともと、自分の子供に向けて、闇を持っていながら光を持って進む少年の物語を見せたかったという思いがあったため、肝心の息子は成人してしまった後でも、作品のコンセプトとしては引き継がれたのではないでしょうか?
そして、すでに息子は自己形成期を終えてしまっていたため、一般論として、「現代に生きる人間と似ているんじゃないか」という、先に引用したような回答になったと思われます。
]]>「もののけ姫」に関する多くのインタビューの中でも、宮崎駿監督が、常に最も熱く語るテーマです。
1.ロマンアルバムでの説明
「室町期の前、鎌倉時代は、人が主義主張で生きていた。もっと壮絶な人々が生きていた時代です。それが室町時代になると、得なほう、都合のいいほうにつこうということで動くようになる(笑)。
そういう意味で、室町というのは、ちょっとおもしろい時代だなと思ったもんですから。
それに、女たちが自由でかっこいいんです。」
「女と男の関係、侍、百姓・・・何をとっても歴史というものは単純なものじゃない。だから僕は、従来の時代劇の常識みたいなものに囚われるのは嫌だったんです。主人公の少年も、ちょんまげを結って、腰に刀をぶら下げてしまうと、それはもう侍ですから。侍のいい少年か、悪い少年かになるだけで、侍という固定観念に関しては変わらないんですね。『お前は何者だ』と聞いた時に、『私は侍です』ではなくて、『私は人間です』と言える人物を主人公にしたかった。」
「今ある”時代劇”という固定観念は、黒澤明監督の『七人の侍』による影響が非常に強いんです。僕はそれを呪縛と呼んでいるんですけれども、それほど力のある作品なんですね。僕は黒澤作品の大ファンだし、『七人の侍』もとても好きです。
しかし、同じものを作るんじゃしょうがないと思いまして、自分が思い浮かべている日本というものを作ろうと思ったんです。過去に生きた人たちを、先入観や経営者のひな型として見るのではなくて、もっと生身の人間として考えたい。
田んぼがあって豊かな実りがある土地だとか、そんなものだけじゃなくて、もっと泥臭くて、闇の世界もある。そういうふうにして、もう一回見直してみると、この小さな島の持っている歴史というのは、もっと豊かに、いろんなものがあるんじゃないかと思うんです。」
(ロマンアルバムより)
2.「もののけ姫を読み解く」より抜粋
「古代の文化といってもそう簡単に説明できるようなものではないんです。
映画の冒頭に蝦夷の村が出てくるんですが、なぜ蝦夷かというと、僕は西国の人間ではなく、関東の人間で、多分、自分の中に蝦夷の血が濃厚に流れていると思うんです。鼻の穴の格好とか色々なものを見るにつけ、ずっとそう思ってきた。
だから、蝦夷に近い日本人として−日本という国は近代国家になっていく過程で色々変化していくのだけれど・・・自分達の重要な先祖である蝦夷という民族を、ただの蛮族と考えるのは間違いと思っているわけで、どういう暮らしをして、どういう姿形をしていて、どういう歌を歌っていたか、というようなことを夢見るのが結構、好きなんですよ。好きな道楽といいますか。
大和朝廷の征夷大将軍、坂上田村麻呂にアテルイという蝦夷の最後の王が殺され、一族は服属する。その後、その末梢の阿部氏が朝廷軍に勝った「前九年の役」や、同じく蝦夷の末梢で、清原氏という、平泉の藤原三代の元になる一族の、一族間同士の争いを源氏が鎮圧する「後三年の役」が起こる。
蝦夷は最後まで中央政府に反乱を起こした民族なんです。初めは大和朝廷、それから鎌倉
幕府へと相手は変わるわけですけれど。
このように、かつての日本の東の方は込み入っていて蝦夷だけでなく、色々な国が日本にはあったということです。
さらにもっと前には、例えば、大和朝廷にできた王朝があり、それ以前にも北九州に王朝があったり、東北の方は東北で別の王朝があった。出雲にもあったし、吉備にもあった。
いたる所に国々があって、それが最終的に、古代に大和朝廷の下に統一されるのですが、その時でも、東北の秋田から岩手とか、津軽などには別の王国があった。
王国というのがふさわしいかどうかわからないけれど、ちゃんと国があって、それぞれの文化があったのです。それがなんとなく、ぜんぶ壁に塗り込められたようになって、よく判らなくしまったのですね。
だから日本の歴史っていうのは面白くない。色々な人たちがいて、そこで色々なことがあって、勝ったりも負けたりもしたけれど、そういうことを経て今日があるのだ、という考え方の方がずっと豊かになる。
そういう意味からすると、現存する蝦夷の姿というのは絵描きがいい加減に、ほとんどわけもわからず、鍾と鬼が混ざったように描いている。
青森県の「ねぶた」などに出てくる、坂上田村麻呂がアテルイをやっつけている絵なんかでは、アテルイはまさに鬼なんですよ。」
「僕は、蝦夷も含めて日本人というものを考えたい。
大陸系の顔の人もいるし、朝鮮系の顔の人もいる。それから南方系の、僕の鼻みたいな形をしている、インドネシアにいっぱいいるような人もいる。そういう人間たちを含めて、日本というのは出来上がっている。
日本の原形というのは、米や稲だけでなくて、色々な所で色々な事が始まって、それらがちゃんと基調をなして、全部消えるのではなく、あるものは残りながら今の習俗が決まっているんです。
話を蝦夷にもどすと、彼らは同じ照葉樹林文化の、ブータンなどに住む人たちと似た格好をしていると、僕は道楽で思っています。映画の冒頭に、蝦夷の三人娘が出てきますが、傘を被って、黒っぽい着物を着て、そこに赤い帯がついている。本当は刺繍でつけたい位なんですが、そんな細工はアニメーションでは難しいから、帯をつけただけですけど。その三人娘を実は、一番気に入って
いたりしてましてね(笑)。
それはタイなどの山岳地方の焼畑をやっている人たちの格好なのです。脚半をつけて手甲をつける姿は、ブータンなんかもそうですね。王様だってドテラに脚半を履いたりしています。お米は、ジャポニカ種の粘りの強いのが好きですしね。
そういう共通性があって、本当によく似ているのです。」
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