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NEWTYPE 96年11月号 対談「庵野秀明+上野俊哉」 のソース :: アニメの部屋

xpwiki:NEWTYPE 96年11月号 対談「庵野秀明+上野俊哉」のソース

  
月刊ニュータイプ 96年11月号

 

エヴァンゲリオン通信[E・コミッション]・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4号

EVA SPECIAL TALK with 庵野秀明+上野俊哉

新世紀エヴァンゲリオン
●’97年春、総集編+25話、26話リテイク版、’97年夏完全新作版、劇場公開予定

text by KANIO UCHIDA & TADON YAMADA(YAMADA PRODUCTION)

 

上野俊哉 うえの・としや/1962年生まれ。批評家。中部大学助教授。社会思想史、文化研究 、メディア論専攻、「スタジオボイス」「NAVI」「ユリイカ」など、幅広いジャンルで執筆中。著書に「紅のメタルスーツ」ほか多数

庵野秀明 あんの・ひであき/1960年生まれ。次にキミたちが庵野監督の声を聞けるのは、11月3日(日)18:30〜の文化放送「RADIOEVANGELION」(仮)だ。主演声優たちとのトークあり、ミニドラマありの2時間ぶっ続け生放送の予定

 

●冷めた世代と”魔法の箱”

 

 とどまるところを知らない「エヴァンゲリオン」論争。物議をかもしている最終2話をふまえて作品全体を見渡してみても、やはり「エヴァ」は完結したとはいえないだろう。「エヴァ」が、多くの謎を残したまま姿を消してしまったため、ファンたちは心の透き間を埋めることを”謎解き”で癒している。そして、その謎解きのヒントとして、”現在存在しているエヴァそのもの”ととらえられている庵野秀明監督のことばを求める。そもそも文学や絵画などは、受けてそれぞれの捉え方があるものだが、その作者を知ることで、作品に対する見方に広がりが生まれるというもの。そのため、今や庵野監督は雑誌やラジオなどさまざまなメディアで質問責めに遭っている。今回の対談も、庵野監督の人となり、そして「エヴァ」という作品を知るうえで重要なものとなるだろう。

 今回の聞き手は、中部大学助教授で社会思想史を専門とし、本誌「ガンダムFIX」の執筆者としてもおなじみの上野俊哉氏。大のアニメ・ファンでもある彼は、庵野監督と同世代であり、「エヴァ」の中には世代のエッセンスが凝縮されていると語る。

 

上野 思うに、われわれの世代にとっては、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』って、あまりにも大きいんです。車が好きとか、機械が好きとか、あるいはSF一般が好きという人は圧倒的に擦り込みを受けているという感じがする。マシン、怪獣、変なカッコしたものが出てきて、町が壊されていくという原風景の圧倒的な擦り込みというのがまずあって、『エヴァンゲリオン』も僕はそっちに近い感じがするんです。

 

庵野 そうですね。僕らの世代(’60年代前半生まれ)の共通体験はテレビかマンガしかないと思うんですよ。それはしょうがないと思います。僕らより前には、全共闘や、お上に逆らってひどい目に遭って、4畳半に引っ込んでフォークを歌う世代というのがありましたよね。その前の世代には、圧倒的な共通体験として戦争と戦後があると思うんですよ。あの何もない焼け野原から、日本を復興させるんだという。そういうパワーって、スゴイですよね。だけど、僕らには”魔法の箱”の中にしか語るものがない。情けないんですけど、仕方ない。そこを認めたところから、スタートだと思うんですよ。

 

 第壱話から貫かれる、エヴァと使徒の巨大感を効果的に描く手法は、『ウルトラマン』など特撮モノの影響を色濃く反映している。初号機がシャムシエルを刺し殺す第参話のラストも、夕闇での2体のシルエットが印象的

(1)全共闘&学生運動:1951年に締結された”日米安全保障条約”により、アジア圏の防衛という名目で日本に米軍の駐屯基地が設置されたが、当初、日本は捨て駒的な扱いを受けていた。それに怒った民衆が条約改正を求めて起こしたデモを通称”安保”と読んだが、それに感化された学生も、学校側の理不尽な体制に反抗する運動を盛んに行うようになった。その学生たちの組織を”全共闘”、その活動を”学生運動”といった。

 

●冷えきった世代

 

―戦争や学生運動の時代が終わった日本には、高度成長期と言いながらも、文化的にはぽっかりと穴が空いたような空虚な時代が訪れた。そこで彼らは、テレビという”魔法の箱”を初めて与えられるが、そこには、先人たちが体験したようなリアリティーはない。「そんなことはわかっているよ」と冷めた目で見ながらも、彼らは”魔法の箱”に何か目に見えない力を感じていた。

 

上野 『ウルトラマン』を見ているときも、初めから僕らは着ぐるみだと知っているわけですね。だけど、仮面ライダーにしても、ウルトラマンにしても、ジッパーが見えていようが全然カッコ悪くないと思える、ある感性があると思うんです。怪獣もいるかもしれないという、ある信頼や信仰があると同時に、一方では、ものすごい冷めた、あれはしょせん”物”なんだ、着ているんだという感じがあって。装着することのカッコよさへの美学もインプリンティングされていると思うんですが。

 

庵野 ええ。ある程度、冷めたところもあるんですね。ニュースは本物。マンガやドラマはニセ物という先入観があって。最もニュースも真実とは限らないですがね。ただ浅間山荘や安田講堂のリアルタイム映像の臨場感とか、お茶の間で味わえたんですよね。所詮はバーチャルな物なんだけど、やっぱりテレビってスゴいと思った。子供の楽しみというか娯楽がテレビやマンガにしかなくなっていたとき、それを最大限に楽しもうとしてたんだと思います。テレビの中、番組そのものを遊び場にして。だからチャック等は見えないものとしたり、何かと理由を探して、整合性をもたせたり。少年雑誌のフォローとかもあったけど、昔は頭の中で番組の足りない部分を想像したりして、補完をしてたんですね、自分たちなりに。

 

●箱の中に見た”裏切りの体験”

 

上野 かつて、戦中派、もしくはわれわれの両親たち昭和ひと桁世代は、昨日まで軍国主義だったのに、きょうから突然、戦後民主主義になったりという”裏切り”の実体験をしている。昨日まで”行け行け”と言っていた先生や軍人が、コロッと変わっちゃって自由平等を唱えるというのは、ものすごいフィクション体験というか、まゆにツバつけるような体験なんですよね。だけど僕らの世代は、(その当時を)あらかじめテレビや映画の中で、初めから物語として見ているわけで、全然リアリティーがない。だから、本当に裏切られたという体験をしたことがないんじゃないかという気もするんですが。

 

庵野 ですから”箱の中”での裏切りなんです。僕らは、それを静かに見ているということしかやってない。あとは、先生の話や親の話で聞いているんですね、実体験を。51年前の8月15日を境に、日本全体の価値とか、体系がゴロッと変わったわけじゃないですか。外敵と戦って、初めて日本は戦争に負けたんです。2000年以上の歴史の中で、初めてですよね、日本がなくなったのは。だけど、その初めての経験でも、日本は耐えたわけですよね、滅びずに。日本という国は運がいいとは思うんですけど、それだけじゃなくて、お上が変わればそれにコロッとついていくという、日本人の性質もあると思いますね。僕らは、それらの話をじかに聞いているから、戦後の価値観の変化というのが、知識として擦り込まれてますね。僕らにとってこのことは大きかったと思うんですよ。やはり確かなものなんかどこにもないんだという確信を得ましたからね。

 

●テレビ黎明期と現在の状況

 

―共通体験はテレビしかないという彼らの世代は、’60〜’70年代のテレビドラマが人格形成のうえで重要な位置を占めているという。そして、テレビを見つづけて育った彼らは、当時の番組のていねいなつくりに比べ、現在の番組には違和感を抱く。

 

上野 『ウルトラQ』や『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』では、脚本家が沖縄出身だったり、物語にある微妙な影が落ちているとか、星新一が企画のメンバーにいたりして、非常にシリアスだったというのが一般的に言われていますよね。それはもちろん事実なんだけれど、ただ、公害やオイルショック、ドルショック、ベトナム戦争、あるいは日本の中のいろんな学生運動の失敗、そういう背景に流れる社会の動きを見るには、僕らはあまりにも幼かった。

 だけど、『アイアンキング』や『シルバー仮面』とか、(『ウルトラマン』以後の)特撮の中には、また別のシリアスが入っている。今度は、オイルショックも知っているし、もういろんな社会的な事件を知ったうえで、これらの作品を見ているわけです。『アイアンキング』には、不知火一族っていう大和朝廷に恨みを抱くグループが出てきたり、独立幻原党っていう過激派みたいなやつが出てきたりと、それはそれで時代を反映していて、昔の『ウルトラマン』や『セブン』のもっているシリアスさとは違う、かなり具体的なものに触れている面もある。『レインボーマン』に至っては、日本人だけ殺す”死ね死ね団”なんてのが出てくる。これらは、『ウルトラマン』や『セブン』とは区別できますね。

 

庵野 体系的に考えれば、’60年代頭のころの作品は未来を語っていますよね。この時期は日本全体がイケイケムードだったから、未来に明るいものを感じている。『ウルトラマン』も1993年の話なんです。ジャミラと同い年なんですよ、僕(笑)。『セブン』も’80年代後半という設定でしたね。その2作品は、まだ未来を語っていた。それから、日本全体のイケイケ&ゴーゴーが行き詰まって、ガタンと落ちたときから、現実を語りはじめましたね。

 それが等身大ヒーローになったとも思うんですよ。”ウルトラシリーズ”も『帰ってきたウルトラマン』になると人間ドラマになってますしね。ウルトラマンが出てこなくても、成り立つ番組になっている。『セブン』でも、ちょっとそういう話がありましたけど。脚本の金城哲夫さんの中にあったと思うんですよ。未来に対する憧れみたいなものを、疑問をもちつつも信じようとしている部分が。金城さんは、本当は信じていなかったんじゃなかったのかと思うんですよ。信じようとしていただけだと。そこが、またスゴイんですけど。絶望を知ってて、あえて絶望を語らない強さが。

 

上野 金城さんはある意味で、戦中派的なりアリティーを知らなければならない土地(戦場となった沖縄)に育って、東京に出てきているわけですからね。ちょっと異例なポジションにいる人ですよね。

 

庵野 そういう人が、地球での異端であるモロボシ・ダンという人物を描けるんだと思います。やっぱり、そういう原体験をしている人じゃないと描けないと思います。その辺の心情というのは、本を読んでわかるというもんじゃないですから。

 

上野 実際、周りに活動家なんかがいたという『アイアンキング』の脚本家(佐々木守氏)も、ダメだと知りつつ、ムダだと思いつつ、でも若干のシンパシーを感じて、独立幻原党や不知火族とかを書いていたとおもうんです。やはり、よかれあしかれ、体験をひきずっている。

 

庵野 目的が現政府転覆ですからね。作品の中に、過激派などの雰囲気というのがそのまま出ている。それは、悪にせざるを得ないんですけど。まあ、いろいろ考えても、良質なんですよ、当時の作品は。つくっている人がすごくまじめにやっていたと思います。

 

上野 今は違いますか。

 

庵野 まるで。子供番組だからといってナメているのが多い。子供番組だからこそ、キチンとやらなければいけないと思うのに。レベルというか、スタンスが違うんですよね。

 

上野 いろんなレベルがありますから。月とスッポンがあるというか・・・

 

庵野 そうなんですが、昔はいいものは断トツによかったんですよ。そのよいフィルムの数も多かった。特撮も途中から粗製乱造になって、ブームになってから、数々のひどいものがドバッとできましたけど。

 

上野 僕としては『(太陽戦隊)サンバルカン』ぐらいまではよかったと思ってるんだけど。

 

庵野 僕も(超電子)バイオマンの途中から1度見なくなったんで。(鳥人戦隊)ジェットマンあたりからまた復帰して。今の(激走戦隊)カーレンジャーは極めてグーですね。RVロボの合体シーンなどはナイスでした。

 

(2)アイアンキング:「シルバー仮面」のスタッフが約半年間のブランクを経て制作した巨大ヒーロー作品。主人公側を国家権力機構の一員に、対する敵をかつて、日本政府に滅ぼされた少数民族や革命ゲリラに設定するなど、前作以上に社会性、政治色の濃い作品となった。本作でも、製作者側の視点は敵側に置かれている。全26話の脚本を担当した佐々木守氏は当時、実際にパレスチナゲリラのアジトを訪問しており、その実体験が多分に作品に反映されていた。

(3)「シルバー仮面」:1971年にTBS系で放送された実写変身ヒーロー作品。”光子エネルギー”で動くロケットの秘密をめぐり、発明者・春日博士の5人の遺児と、秘密を奪うべく襲いくる宇宙人の戦いを描いた本邦屈指のSFドラマ。本作では、侵略する側とされる側の構図が従来のヒーローものとは逆転しており、「本当に悪いのは地球人では?」と考えさせるような重厚なエピソードを多数輩出したが、視聴率的には裏番組の「ミラーマン」(円谷プロ制作)に敗れてしまった。

(4)1972年にNET(現テレビ朝日)系で放送。7種類の姿に変身可能なヒーロー、レインボーマンと、日本人の全滅をたくらむ国際的な秘密結社”死ね死ね団”の戦いを描く。原作者の川内康範氏が、戦後処理に熱心な政治活動家であったため”日本の戦争責任”という思いテーマが盛り込まれていた。それは死ね死ね団の、”日本兵に家族を殺された外国人が、戦後、日本人に復習するために組織した”という設定からも明らかであろう。

(5)金城哲夫:「ウルトラQ」「ウルトラマン」「ウルトラセブン」(1966〜1968年)のメーンライター。沖縄出身でありながら本州の人間として多感な青春時代を過ごした彼は、常に沖縄人でも日本人でもない”異邦人”としての自分を意識して作品中の登場人物に投影させた。その最も顕著な例が「ウルトラセブン」の主人公、モロボシ・ダンで、彼は常に宇宙人と地球人の間に立って苦悩するキャラクターとして描かれていた。’75年、”事故”で若くして他界した。

 

●キャラクターは庵野監督そのもの

 

―「エヴァ」の魅力のひとつとして、強烈な個性をもつキャラクターがある。自分の周りの誰かに似ているようだけれど、実はどこにもいない。そんな彼らをもっと知りたいと思うことが、「エヴァ」にひきつけられていることでもあると思う。よく言われていることだが、キャラクターそれぞれには、庵野監督自身の一部が投影されているという。

 

庵野 とくにシンジ、ミサト、アスカには、自分に近いものを感じますね。で、シャドーとしてカヲル君。レイは僕の一番コアな、深層の部分でつくってます。できるだけ自分は無干渉にして、にじみ出るところだけで形にしていますね。

 

上野 僕はレイってすごい好きなんです。たとえば『Zガンダム』のフォウって、本当にいてほしいんですよ。本当にあいたい。でも、レイってそうじゃないんですよね。これは2次コン(2次元コンプレックス)ではなく、レイっていうのは、自分の前にはいない、完結している存在だと思う。同じ人工的につくられたものであっても。

 

庵野 まあ、気が狂ってますけどね(笑)。レイはそうしたかったんですよ。難しかったんですけどね。それが描けるのはそういう人だけですから。これは僕が気狂うしかない。

 

上野 精神分析とか人格セミナーがどうのこうのとかって言われてますけど、ああいうサイコロジー一般に対する興味というのは、昔から強かったんですか?

 

庵野 まるでなかったです。

 

上野 『エヴァ』をやってて、そういうのに向かっていったっていう感じですか?

 

庵野 そうです。自然にそっちに。以前は精神分析の本て、全然読まなかったんです。大学の一般教養で少し触れた程度ですね。その中では一番面白かったです。

 

上野 じゃ、何となくキーワードというか、興味みたいなものが心の中に引っかかっていたんですね。

 

庵野 ええ。僕、人間にあまり興味がなかったんでしょうね。それが、自分の話をはじめたときに、途中で伝える言葉が欲しくなったんですよ。それで、いちばん使いやすいと考えたのが、世間一般で使われている心理学用語ということばだった。そして、本をあさりはじめたんです。それまで、心理学に興味をもつなんて思わなかったッス。

 

 初号機のエントリープラグ内部にいるレイは、初号機から伝わってくるシンジの情報と、自分の記憶を重ね合わせて自問自答する。そこで語られる飾り気のないことばの連なりは、透明で硬質なレイのイメージそのもの。

 

●自分と自分との会話

 

庵野 16話が最初なんですよ。ストレートに自己の内面世界に突入してしまったのは。以前から線画によることばの表現というのもやってみたかったし。あのシーンのダイアローグは比較的にまだ楽だったんですよ。自分のことをそのまま台詞にすればよかったんです。しかしその後、総集編のレイのモノローグで詰まったんです。あ、制作は16話のほうが先に入ってたんですよ。総集編は後からつくっても間に合いますから。

 で、どうもイメージわかないときに、友人が『別冊宝島』の精神病の本というのを貸してくれて。その中のポエム群ですね、ショックを受けたのは。脳天直撃でした。そこでスイッチが入れ替わったんでしょうね。レイのモノローグが堰を切ったように浮かんで来ましたから。その本のポエムとはまるでちがうものなんですが。その友人のお陰ですね、ワンステップ進めたのは。ありがたいです。やはりフィルムは一人じゃつくれないですね。スタッフやキャストといっしょにおもしろくしていくものだと実感しました。僕一人じゃ何もできません。

 

 ディラックの海と呼ばれる使徒の内部(虚数空間)に取り込まれてしまったシンジは、虚無の中で自分自身と対話する。背景の夕焼け、そして、顔のアップを魚眼レンズでとらえた映像などは、まさに『ウルトラマン』。

 シンジほか、キャラクターそれぞれ自分の心をさらけ出す心の補完は、まるでサイコセラピーのようすを見ているかのよう。庵野監督は意識していなかったらしいが、実際にこのような精神治療の方法があるという。

 

●おたく以外の人々にはあたり前の最終回!?

 

―アニメおたくの間だけでなく、さまざまなところで議論を巻き起こしている最終2話。あの2話には、当たり前のことだが、庵野監督の意図する知られざる大きな意味があるという。果たしてそれは?そして、感性が待たれる映画版では、(庵野監督を含めて)万人が納得する最終回となりうるのだろうか。

 

上野 僕は、あれ(最終2話)は裏切りではなく、一種のスタンダードな終わり方だと思っている。実際、あの結末は、実験映画を見ている人や美術を鑑賞している人たち、ふだんアニメを見ない人は、スッとわかるんですよ。だけど、ずっとアニメを見てきた人は、最後にあれが来ちゃうと、裏切られた感覚がするのかもしれない。

 

庵野 最近、ふだんアニメを見ない人たちと話す機会が増えたんですが、彼らは冷静におもしろかったと言ってます。25話などはとくに女性に評判がいいですね。でも、それは怒ると思うんですよ、大半のアニメファンの人たちは。怒る理由もわかります。ただ手抜きだという意見などには残念ですが、失笑してしまいますね。手を入れ過ぎたスタッフはいても、手を抜いた人は一人もいません。1話から見ていてそれを感じ取れない人たちには悲哀を感じます。こういうことをいうとまた怒られるんですが、その人たちには。そう『言われているだけマシなんだ』ということまで、こうして口に出さなきゃわからない。これはつらいですね、正直に。

 実はきれいに終わっているんですよ、テレビ版って。内的にも外的にも見事に収まるところに収まっています。今はもうひとつの別の収まり方に向かって、作業をしているだけですね。あと、TV版のラストをあの形にした、一番コアというか、本音の部分は誰にも言ってないんですよ。別に今までの発言ウソだということじゃないです。他の監督さんもそうだと思います。普通、一番の理由は他人には言わないですよね、それは大事なモノですから。あと、万人が納得するような代物なんてないですよ。同じ人間は一人としていませんから。望むものは人の数ほどありますよ。

 

●「エヴァ」に”答え”は与えられるのか?

 

上野 多くのファンは、映画版で一応の完結を期待しているわけだけど、僕は、初めから何か明確な回答が得られるとは思ってないし、(パソコン通信の)フォーラムなどで期待されているような何かが展開されるとも思ってないんです。ずばり、映画版では、使徒及びEVAをめぐる、あるいは”人類補完計画”を巡るナゾに暫定的な答えを出すということはあり得るんですか?

 

庵野 一応。

 

上野 あくまで”一応”ですか。

 

庵野 ”一応”です。全部明かす必要はないんですよ。むしろそのほうがつまらないと思います。『エヴァ』はジグソーパズルのようなつくりになっています。バラバラのピースをお客に見せているんですね。組み立ては受け手にまかせてあるんですよね。ただ完成写真ないので皆違う完成図を想像している。見当たらないパーツがあれば、それは自分の力で埋めてくださいとしているだけです。ジグソーの組み立て作業も楽しいですが、出来あがりを想像する作業はより楽しいものだと思います。ただマニュアルがないと生きていけない人たちには、つらいかも知れないですね。

 

―庵野監督は、常に「与えられるばかりではなく、みずからが答えを導き出してほしい」と語っている。だから、映画版でも、すべてがお膳立てされたエンディングとはならないだろう。その後は、ひとりひとりが答えを、「エヴァ」というパズルを完成させるのだ。


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    • 現: 2014-08-30 (土) 21:16:49 ゲスト[DjL8Xh6lj6I]