1.敵がいなくなった
・荒地の魔女が、原作では最後まで敵(といっても火の悪魔にあやつられている)なのですが、映画では、途中からは、いいおばあちゃんになっています。
何でこれが最も大きな違いかというと、悪人を出しても浄化させるというのが、宮崎監督の最大のポリシーだからです。
原作では最後のクライマックスまで引きずる敵を、映画ではあっさりといいおばあちゃんに変えてしまうところが、宮崎駿監督の作家性でしょう。
2.戦争と兵器の導入
・映画では、かなり強く戦争シーンと兵器としてのハウルが描かれていましたが、そのへんは一切原作ではありません。
以上2点は、宮崎駿監督の特質を非常に強く表現しています。
このへんの詳細は、以前書いたハウル論 殺人兵器が恋をするまでをごらんください。これを書いたときは、原作小説はちょっと見ただけだったので、ちょっと修正した方がいいのですが、主旨は変わっていません。
それから、原作と映画では異なる点が多数あります。ソフィーに妹が2人いる点、サリマンが男である点、犬やカカシの話など・・
しかし、そのへんは、本質的な違いや、宮崎監督の作家性というよりは、物語を短い時間でわかりやすく表現するために変えたということでしょう。
さて、重要なのは、映画だけでは話に理解できない部分があるのではないか?というところです。
映画見たのはもう随分前なので、あまり覚えていないのですが、火の悪魔カルシファーと、彗星の子供を捕まえる話と、ハウルの契約関係の部分が、映画見たときはよくわかっていなかったような気がしました。
当時は、あまり気にならなかったのですが、原作読んで、初めて十分に理解できたような気が・・
ハウルの映画の感想のひとつに、話がよくわからなかったという声があったと思うのですが、そのへんに起因するのかもしれません。
さて、小説版であった話で、映画では削られた魅力的な話もいろいろあります。
呪文の謎解き関係の話や、荒地の魔女が、2人の人間をごちゃまぜにくっつけたり、首をとったり、頭蓋骨を売り払ったりする不気味な話は、全てなくなっています。
宮崎作品の方向性とは違うからでしょう。
とても面白い話なのですが・・
それから、何といっても、ハウルが実は現代人で、テレビゲーム持ってたりする点。
これは小説でも曖昧に描かれていますが、間違いないでしょう。
イギリスのファンタジーには非常に根強い伝統があって、主人公はあくまでも現代人であり、何かの機会に、あっちの国に行ってしまうわけです。
不思議の国のアリスにしろ、今度映画やるらしいナルニア国物語にしろ、ハリー・ポッターにしろ、そうです。
ハウルも、そういう伝統の一人なんだと思います。
イギリスのファンタジー小説というのは、あくまでも、現代の人間が、何かのはずみに向こうの世界に行ってしまうというところに面白みのひとつがあります。
宮崎アニメで言うと、「千と千尋の神隠し」が、まさに、その伝統のうえに作られていたと思うのですが、なぜか、ハウルでは原作のそのような部分をとってしまったのは、宮崎監督がTVゲームを嫌いなことも関係しているのかもしれません。
*なお、映画「ハウルの動く城」の後の、ハウルとソフィーの物語を知りたい方は、是非小説第二巻「アブダラと空飛ぶ絨毯」を読んでください。主役じゃないですけど、2人のその後の生活と物語がわかります!
この項の編集は、[[ハウルの動く城の原作とアニメの違い:http://anime-room.jp/modules/xpwiki/?cmd=edit&page=%A5%CF%A5%A6%A5%EB%A4%CE%C6%B0%A4%AF%BE%EB%A4%CE%B8%B6%BA%EE%A4%C8%A5%A2%A5%CB%A5%E1%A4%CE%B0%E3%A4%A4&refer=%A5%CF%A5%A6%A5%EB%A4%CE%C6%B0%A4%AF%BE%EB]]
- ハウルの動く城の原作とアニメの違い のバックアップソース(No. All)