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富野監督からの批判 :: アニメの部屋

xpwiki:富野監督からの批判

富野監督による、何かと話題を呼んだ(?)エヴァンゲリオン批判についてのコメント集です。

批判の論点の妥当性については、読んだ人がそれぞれ判断すればいいと思いますし、私なりの解釈はまた別途書きたいと思います。

何はともあれ、エヴァンゲリオンへの対抗心がひとつの原動力となり、富野監督が復活したのは、エヴァンゲリオンの大きな功績といってよいでしょう(同じ話は宮崎駿監督にも言える)。


1.「このアニメがすごい!」のインタビューより抜粋(1997年 1月発行)

「本来、たとえば今話題になっている『エヴァンゲリオン』なんていうアニメは作品じゃないはずなんだと。

だけどそういうものを俎上に上げてしまう。そういうカルチャー論、サブカルチャー論って言葉で何でも認めていく。それはサブカルチャーの側の問題というより、すでに評論する側も全てデジタル化している。これは、かなり深刻でやばいぞって思います。

「と言っても、オンエアの一本しか見れなかったです。

それ以上は見られなかった。

エヴァが、僕みたいな年代とか、僕みたいな感覚を持つ人間から見た時に、あのキャラクターは生きてるキャラクターではない、と感じます。

ドラマは、生気ある人によって描かれるはずなのに、その根本を無視している。かくも腺病質なキャラクターとメカニックで、ドラマらしいものを描けるというのは、頭の中で考えていることだけを描いていることで、短絡的に言えば、電脳的だと。

セックスにしたって生きているから出きることでしょ?その境界線を分かっていない年代、つまり、ビデオとかインターネット上のオマンコ見てセンズリかいているだけで、生のセックスに興味を持てない、本物の女性を怖がる病理現象があるだけで、さっき行った『死ぬこと』が実感出来ないっていうことが一緒になった感性の人々の実在を見せつけられただけで、そう、あれはカルテに見えるんですね。」

2.「NEWTYPE 」のインタビューより抜粋(1997年 7月号)

「(エヴァについては)これ以上は勘弁して下さい。もうある意味で言い過ぎましたから言っちゃいけないと思います。

それとこの2、3ヶ月で心境が変わってきたところがあって、さっき言ったように庵野くん個人に対しては、富野がいたおかげで、お前がこうなったとしたならば、それについてはごめんね、ということで止めさせておいてください。」

「『エヴァ』に関しては『エヴァ』を直接つくった・・ガイナックスというグループが成立したプロセスが持っている、あのグループに入ったときに個までがガイナックスになっていってしまうというそういう妖しさを排除していかなくてはいけないんだ、と言えるのは僕の立場でしかないと思います。そういう気をつけた作品をつくりたいと思っています。」

「上手に表現出来るかどうかわからないし、僕が今後作品つくらせてもらえるどうかも未定です。

ただやれるとするならば、庵野くんに対する”ごめんね”ではなく、もっと重要なことがメッセージに入ってくると思います。

それはここまで膨れ上がった、ビジュアルっていうものをこういうふうに愛せるようになった世代に、違うものをきちんと投入しなくちゃいけないというのが僕にとっての責任だと思います。」

「富野ファンがまだいてくれるとするならば、その20代30代の人たちに”富野まだやってんのあのバカ、アニメか、ロボットか、うーん、いいじゃない?”って言われるつくり方をしたい。

その年代が楽しんでくれるものはいまのティーンエイジャーも観てくれるだろうと思っています。」

「我々がつくりあげた情報化社会で育った子供たちが『エヴァ』をつくったわけですから、『エヴァ』の12年後に出てくる『エヴァ』はもっときっとイヤだろうな、その子供たちを叱咤激励出来る50代でありたいなと思います。」

3.「戦争と平和」の対談より抜粋(2002年5月発行)
富野 「(エルガイムについて)これだけは絶対に組み込むなと言ったものが一つだけあって、それは最後までぼくが認めなかったので永野君の怒りを買ったということはありました。

エルガイムの頭の部分に女の子が入っているという設定、それはだめだ、と使わなかったのです。」

−それはなぜだめだったんですか、富野さんとしては。

富野 単純な話で、ぼくは動物と何か機械的なものが共合するということは生理的に許せないのです。

−たとえば、『エヴァンゲリオン』に対して富野さんは批判的でしたが、そういう生理的なところが理由だったのでしょうか。

富野 「もちろんです。そういうことを混在させて気がすんでいるというのは尋常じゃないと感じます。病院に入れ、と、それだけのことです。

大塚 機械的なものと生身のものが溶け合ってというのは、手塚治虫も含めた戦後まんが史の中にずっとあったモチーフですよね。

富野 ぼくは、それは大嫌いなんです。もちろんぼくは『鉄腕アトム』で仕事を始めているわけですが、あれはマシンとして了解していました。

大塚 アトムは例外的にそうですよね。

富野 だから、今のロボット開発者という技術者も大嫌いですね。『エヴァ』を作った人たちと今のロボットを作っているスタッフはぼくにとって同列なわけです。

−つまり『エヴァ』のドラマツルギーとかエンディングのまとめ方が嫌いなわけじゃなくて、出発点から富野さんにとってはいやだったんですね。

富野 出発点以前の問題ですね。

上野 以前にお会いしたとき、病気の人間が病気のものを動かして喜んでるという、手法以前の問題であって、気持ちが悪いということをおっしゃってましたね。

大塚 おそらく日本のまんがマニアとかアニメマニアの多くが気持ちいいと思うところが、富野さんにとっては根源的に生理的にだめなんだというところが、すごくおもしろいですね。

−だから、『ガンダム』ができたのかなという気が、今しました。

富野 そうは言っても、たとえば作り手として庵野君が大嫌いかというとそうじゃなくて、作り手はそれでいいのです。ぼくが『エヴァ』のときに一番愕然としたのは、それに市民が乗ったのかもしれない部分で、これは社会が病気になってきているんじゃないかと思えました。

上野 世の中が、世間が乗ったということですね。

富野 そういう危機感を持ちました。だからそう意識はされていないのかもしれないけれど、その病理というのは社会の一部に間違いなく出ていると思います。

−『ライディーン』はOKだったわけですか?ある種、あれも融合的なないですか(笑)

ササキバラ あれはフェードインするだけだから(笑)・・。そいうことでいうと、『Zガンダム』のラストでメカと生理的にある種の密接なつながりを持ったことで、逆に人間が精神的に破綻しちゃうわけですよね。そこが今の話とダブって見えたんですが。

上野 というよりも、「イデ」みたいなものもあるし、富野さんとしては精神的なつながりはいいんでしょう。『エルガイム』のバイオリレーションはようするにニュータイプなんだし、心とマシンのつながりは許すと。だけど、少女の形をした肉体なり、母の形をした心がマシンと一体化しているということに生理的に嫌悪感がある。

−それを冒涜と感じるということですか。

富野 冒涜だとか、そういうことではなくて、そういうことを容認した瞬間に自分が動物であり生物であるということを否定することじゃないですか。そこまで自己否定できるかといったら、ぼくはそれはいやですね。『ライディーン』のこと他の作品のことも含めて、簡単な話なんです。自分の外側にあるものは、心なり肢体なり生体にとって、あくまで補強手段として、道具としてしか僕は認めてないのです。

ササキバラ 歴史的にはサイバーパンクということがターニングポイントになったと思うんですが、ああいうところに突入していくこと自体がもうダメっていうことですね。そっちへ行っちゃいかん、と。

富野 うん、行っちゃいかんでしょうね。

−じゃあ、押井さんの『攻殻機動隊』みたいなものは・・。

富野 ぼく『攻殻機動隊』見たことないからわかりません。

ササキバラ たとえば『ブレードランナー』だと、ラストで「レプリカントでもOK」と言ってしまうところに行き着くわけですよね。そこがたぶん境目というか。

富野 だから、ぼくは『ブレードランナー』は実はかなり好きな映画なんですが、ラストシーンを見た瞬間に「なんだぁ、これは!」って(笑)、大っっ嫌いな映画になったんです。それまでの映画屋としてのプロフェッショナルな作りとか、そのセンスに関しては本当にいいと思うんですが、そこまでできる人たちがなんでこうも簡単に自分の才能をマシンに売り渡すんだろうか、それは無神経じゃないかと思って、そのとき、「あ、こいつもやっぱりキレてるんだな」と思いました。現にそれ以降の作品暦はそのように見えますねぇ。


Last-modified: 2013-06-18 (火) 08:53:50 (JST) (3965d) by yasuaki