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ハウルの動く城のよくある質問 :: アニメの部屋

xpwiki:ハウルの動く城のよくある質問

0.なぜ『ハウルの動く城』はわかりにくいのか?

宮崎監督は、「ハウルの動く城」を製作するにあたり、わざと、ストーリーの説明を省きました。

ご覧になられるとお分かりになられると思うんですが、宮崎さんとお話したときに「(作品の)説明は全部はぶいてある」とおっしゃっていたんです。

ひとつひとつ「あれはおかしい」とかいう人もいらっしゃると思いますが、ジャン・コクトーが「この作品はただ感じてもらえればいい」 と申しましたように、観る人のボギャブラリーや許容力に預けてある作品なんです。

他にも家族とはどういうものであるのか、善と悪とはどういうことなのかなどいろんな要素が入っていますので、そういうところをお楽し
みいただければありがたいと思います。
(美輪明宏氏:ロマンアルバムのインタビューより抜粋)

ただ感じてもらいたい、ということもあるでしょうが、私が考えるに、宮崎監督はかなり作為的に説明を省いたと思います。

映画版でもっとも曖昧にされているのは、「ソフィーが実は魔法を使え、生命を吹き込むことができる」という小説版の設定です。

映画では、この設定がなくなったわけではありません。

むしろ、ソフィーが生き物を蘇らすシーンは大体入っています。

・カカシのカブ、契約を破ったカルシファー、同じくハウル。
注意深く見れば、映画でも小説同様に、カブにしろカルシファーにしろ、ハウルにしろ、ソフィーは、彼らを復活させるための明確な言葉(呪文)を使っているのです。

ソフィー(カブに対し)「逆さになっているよりましでしょう。元気でね。」

ソフィー「心臓をハウルに返したら、あなたは死んじゃうの?」
カルシファー「ソフィーなら平気だよ、たぶん。おいらに水をかけても、おいらもハウルも、死ななかったから。」
ソフィー「やってみるね。どうか、カルシファーが千年も生き、ハウルが、心をとりもどしますように。」

しかし、ソフィーが生命を吹き込む魔法を使えるという設定は、一言も説明されていません。

なぜでしょうか?

小説版のソフィーの特徴は2つあります。
自分にコンプレックスがあり、自分自身に否定的な暗示をかけて、自分の本来の良さを損なっている。老婆になるのも、実は呪いという よりは自己暗示の面が強い。
生命を吹き込む魔法を使える。

宮崎監督は、の点はそのまま残し、の点は曖昧にしたのです。

それによって、この物語が、ある魔法使いの女の子の物語ではなく、映画を観る誰もが、自分の問題として捉えられるようにしたかったのだと思います。
つまり、物事を変えるのは、周囲のせいでも能力のせいでもなく、自分自身がどう意志を持つことができるかが大事だと。

この点では、宮崎監督の前作「千と千尋の神隠し」にでてくるあるシーンが参考になります。千は、湯婆婆の前に言ったとき、何度断られ ても「仕事をください」といい続けます。一度でも、それをあきらめたら、彼女はだめなのです。
これについて、宮崎監督はこう言っています。

「言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「かえりたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産み続けるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。
世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」

全ては本人の気持ちしだいであり、どういう言葉をしゃべるかだということ。

このことは、『ハウルの動く城』でも、せっかく若返ったソフィーが「私、きれいでもないし、そうじくらいしかできないから・・」と言った途端に老けてしまう描写でも明確にされています。

「人間なんて気持ち次第で同じ人が90歳のおばあちゃんになったり、ある時は50代のおばちゃんになったりする。そういうことで言うと、ソフィーも気分によっては少女になるってあるんじゃない?」(宮崎監督の言葉:ロマンアルバム鈴木プロデューサーインタビューよ り抜粋)

自分の気持ちしだいで自分は変われるのだということ。

このことを強調したいために、映画ではソフィーの気持ち次第で少女になったり老婆になったりするという、小説にはない表現が加わるとと もに、ソフィーの魔法使いとしての能力の説明はなくなりました。

しかしながら、ソフィーが使う呪文の言葉自体は、映画でもそのまま残りました。なぜなら、これらの言葉は、本人の意思をはっきり表現することで、自らの運命は切り開かれるという宮崎監督の意図と一致するからです。

つまり、魔法使いが使う呪文としてではなく、「言葉は意志であり、自分であり、力なのだ」という宮崎監督の思いを表現するために、小説から残されたのです。

このような事情もあり、ソフィーが魔法を使えるという点は、ほとんどわからなくなりました。

その結果、映画のストーリーを論理的に考えると『?』なシーンが生じることになりました。

おそらく、論理的に物語を理解して欲しいのではなく、気持ちしだいで人はいくらでも変わるのだというメッセージを理解して欲しいということでしょう。

1.なぜ、ハウルは若い女性の心臓を奪うのか
ハウルは、若い女性の心臓を食べる、と言われています。
実際のところはどうなのでしょうか?

この噂は、小説版ではいかのように説明されています。

ソフィー「ねえ、はっきりさせたいんだけど」
    「ハウルはかわいそうな女の子たちをどうするの?聞いた話じゃ、心臓を食べて魂を盗むそうだけど」

マイケル(マルクル)「あなたは<がやがや町>の人ですね。初めて空中の城を人前に出したとき、ハウルさんに言われて、悪い噂を流しにいきましたから。ぼくが、そのう、そういった噂を流したんです。でも、あくまで言葉の綾です。」

カルシファー「ハウルは移り気なのさ」
      「女の子に興味を持っているのは、相手が恋に落ちるまでだね。相手がハウルにほれたとたん、もうどうでもよくなるわけ。 」

つまり、心臓を食べるというのは、相手の心を奪うことです。

英語では、心も心臓もどちらも「ハート」であり、かけ言葉になっているのです。

なぜ、ハウルが悪い噂を流そうと思ったのか知りたい方は・・こちらをお読みください。#5.ハウルは何故城を動かしたのか

なぜ、ハウルが移り気で、相手がほれたとたんにどうでもよくなるのか知りたい方は・・こちらをお読みください。#7.ハウルはなぜ浮気性なのか

さて、ここで、宮崎アニメファンなら、若い女性の心をうばうとはどういうことか、
当然、次の連想に思いつかねばならないでしょう。

銭形「クソッ、一足遅かったか!ルパンめ、まんまと盗みおって!」

クラリス「イイエ、あの方は何も盗らなかったわ。私のために闘ってくださったんです。」

銭形、クラリスを見る。

クラリスも銭形に向き直る。

銭形「イヤ、奴はとんでもないものを盗んでいきました。」

判りかねているクラリス。

銭形(キッパリ)「あなたの心です。」

アッ!となるクラリス。

クラリス(パッと目を輝かせ)「ハイ!」

明るく頷く。

以上、言うまでもなく「カリオストロの城」のラストです。

ハウルが心臓を奪うという言葉で表現されているのは同じことでしょう。

2.なぜ、ソフィーは歳をとったり、若返ったりするのか?
ソフィーは、自分の容姿に劣等感を持っています。
「あたしなんか、美しかったことなんか一度もないわ!」

そして、自分は人生で成功することもないだろうと考え、帽子作りをやめずにいます。

原作では、ソフィーは、自分では気づいていませんが、魔力を持っています。
彼女が言った言葉が、そのまま実現していくのです。
その彼女が鏡を見ていった言葉が、「これじゃオールドミスみたい。」
その後、荒地の魔女が現れ、彼女を老婆にします。

つまり、彼女が老婆になるのも、ある意味では、荒地の魔女の呪いというより、彼女の自己暗示のようなものです。そのような自己暗示が解けたとき、つまり眠っている時や、自分の素直な気持ちが表現できるときには、心も容姿も若くなります。

全ては、彼女が、自分自身を醜い老婆が似合っていると考えるか、若さがに合っていると考えるのかによるのです。

小説版では、この点を一層明確にする次のセリフがあります。

ハウル「あんたが気づかないうちに、何度か呪いを解こうとしてみたんだ。ところがどうやってもうまくいかない。」
「そこで僕としては、あんたが好きで変装していると思うしかなかった」

「変装だって!」ソフィーはおうむ返しに叫びました。
ハウルは笑いました。「だってそうだろう。あんた、自分の力も使ってるんだよ。見た目をあれこれ変えたりして、あんたたちはなんて変わった一族だろう!」

さて、小説では、ソフィーはいつ若返るのか、あまり明確になっていません。
最後には、呪いが解けているという言葉があるので、おそらく若返っているのですが・・

ここで映画化のさい、スタジオジブリ内で、どういうタイミングでソフィーが若返るのかが議論になったそうです。

女性が可愛いか可愛くないかだけで判断されるのはおかしい。
宮崎監督も還暦を迎え、「もし若さだけに人間の価値があるとしたら、歳をとったら意味がないのか?」ということは大きなテーマだっ
た。
女性スタッフ達への感謝の気持ちも込めて、「歳をとった女性にも魅力はあるよ」というものを作りたかった

という考えの元、映画では、ソフィーは気持ち次第で若くなったり歳をとったりする表現に落ち着いたそうです。(ロマンアルバム:鈴木
プロデューサーインタビューより)

そして、このことは、単に若さの表現の問題だけでなく、作品のテーマそのものとも密接につながります。

→ハウルの城はなぜわかりにくいのかを参照ください。

さて、この点について、宮崎監督の深層心理まで踏み込めば、歳をとったり若くなったりする女性という表現は、実はジブリ内の議論とは無関係に、どの作品にも見られる、少女と老婆による母性表現ともつながっていることがわかるでしょう。

宮崎監督の物語では、少女は同時に母親を示すものでした。(マンガ版ナウシカが巨神兵の母となるシーン、映画ラピュタにおいてシータが大人達の面倒を見るシーン、新ルパンの最終回「さらば愛しきルパンよ」におけるロボット兵を操る少女など)

同時にまた、宮崎アニメでは、少女のように元気な老婆というのも定番です。(ラピュタに出てくるドーラ。彼女の部屋にかかっている若 き頃の少女姿にも注意。千と千尋の湯婆婆など。)

これらのイメージは、宮崎監督の少年時代、母親が病気で不在だったことからの母性への憧れ、一方で、男だらけの宮崎家の中でドーラのように元気に振舞っていたこと、さらには、晩年、介護でずっと老いた母を見る機会が多かったことなどが、様々にからみあっています。
(宮崎アニメ分析のツール参照)

もっとも、これらは無意識的に出たものであり、意図的に描こうとしたわけではありません。

「彼女はハウルに対して時として内面がおばあちゃんだったり、女性だったり、妻だったり、母であったりもする。若かろうが、歳をとっていようが、女性にはそういう多面性があると思うんです。ただ宮さんはここで、それを意識的に描こうとしたのではない。描いているう
ちに、そういうことになってしまった。そこがこの作品の面白さでもあると思うんです」(鈴木プロデューサー)

3.城の構造はどうなっているのか?そして、ソフィーは城をどうしたかったのか?なぜ、ソフィーの魔法は解けたのか?[1]

この点を理解するには、まず、城の構造を理解する必要があります。

小説では、城に部屋が少ないことをいぶかしむソフィーに以下のような説明があります。

マイケル(映画のマルクル)「ハウルさんとカルシファーが城に見せかけて、カルシファーが動かしているんです。」
「本当はこれはポートヘイヴンの町(映画の『みなとまち』)にあるハウルさんの古い家にすぎません。城の中に本当にあるのは、その家にある部屋だけなんです。」

しかし、その家がつきとめられたため、ハウルはソフィーの家を買い取り、そこに城の本体を引っ越します。

つまり、ハウルの動く城は、実は実体ではないのです。
あくまでも、実体は、ポートへイヴンの家だったり、ソフィーの家にだったりします。

城の部屋数が増えたのも、実は、ソフィーの家がハウルの古い家より部屋数が多かったためと考えられます。

さて、では、何故ハウルはソフィーの家に引っ越したのでしょうか?

これは、もちろん、ソフィーの家で生活すれば、ソフィーの呪いを解くのに大きな前進になると考えたからです。

そもそも、ハウルは呪いそのものは既に解除していました。(参照:#なぜ、ソフィーは歳をとったり、若返ったりするのか?)

あとは、ソフィーの心の思い込み(自己暗示)をどう解きほぐすかというところがポイントだったのです。

それまで、通常はずっと老婆だったソフィーが、引越しを終えた途端に若返るのに注目してください。

引っ越して、子供の頃からの住まいに戻ったことで、ソフィーの自己否定的な暗示は解ける寸前まできていたのです。

ところが、プレゼントの花畑の中で、ソフィーが
「わたし、きれいでもないし、そうじくらいしかできないから・・」「年寄りのいいところはなくすものが少ないってことね」と言った途端、ソフィーはまた年寄りに戻ります。彼女が後ろ向きに自己否定的なことを言うと、すぐに老婆に戻るのです。

その時のハウルの、いつにない厳しい表情を見れば、引越しも、花畑も、いかにソフィーの自己暗示を解除するかを目的にしていたことがわかります。

さて、ハウルは、ソフィーの家がサリマンにばれたとき、何故か、逃げようとはしませんでした。

普通に考えれば、ポートヘイヴンから逃げたときのように、また引っ越せばよいだけなのですが・・

荒地の魔女「あらハウルじゃない。めずらしいわね。あなたが逃げないなんて。」

この言葉からも、ハウルは、いつも、荒地の魔女に家の実体を見つけられた時には引っ越していたことがわかります。

なぜ、今回だけハウルは逃げないのでしょうか?

もちろん、ソフィーの家に引っ越したことは、今までのように身を隠す引越し(=逃げ)とは意味が違っていたからです。

そうではなくて、ソフィーの自己暗示を解除することが目的で来ているから、ここから逃げるわけにはいかないのです。

しかし、それを理解していないソフィーも逃げることを提案します。

ソフィー「逃げましょう。戦ってはだめ。」

ハウル「なぜ?ぼくは、もう、じゅうぶん逃げた。ようやく、守らなければならない者ができたんだ。」

ここで、ソフィーは大きな誤解をします。

この家にいる自分達を守りたいから、ハウルは戦っているのだと・・だったら、自分がまずここから逃げれば、ハウルも逃げられると・・

実際は、そうではなくて、ソフィーが若返るのにソフィーの家が役立ちそうだから、ハウルは、もうこれ以上逃げるわけにはいかないのです。

そこまでハウルの気持ちが理解できていないソフィーは決断します。

自分達が、逃げてしまえば、ハウルも逃げられる・・

それでソフィーはドアの色を変え、荒地に行きます。
そして、こちらに逃げようとします。

ソフィー「マルクル、こっちへ来よう!」

カルシファー「ええーっ、引越し?むちゃだよ!あっちは、からっぽだよ。」

ソフィー「だめ。わたしたちが、ここにいるかぎり、ハウルは戦うわ。」

つまり、ソフィーの考えは、ハウルが逃げられるように、自分達がまず逃げることだったのです。

しかし、カルシファーが「無茶だ、あっちはからっぽだ」と言っているのは、先に書きましたように、通常、ハウルの動く城の実体は、ある家だからなのです。しかし、荒地には家はありません。

ソフィーが、城の実体を、何もない荒地に移そうといったので、カルシファーは、こういいます。
「なにが起こるか、おいらにもわからないんだ・・」

しかし、ソフィーは、ハウルのためと信じ、自分達がまず逃げようとします。

そして、城は、荒地に引っ越したために、崩壊します。

マルクル「お城、からっぽだね」

これも、もちろん、今までは常にどこかの家が実体としてあったからです。

カルシファー「だからぁ、あっちにいれば、おいらとハウルで守れたんだよ」

この言葉にソフィーは特に反論しません。ただし、自分の考えていたように、自分達が逃げればハウルも逃げられるというものではなかったという現実を認識します。

そして、ソフィーは、再度ハウルを助けに行こうとします。
「ハウルのところに行きたいの。お城を動かして」

この瞬間、ハウルの動く城は、単なる見せ掛けではなく、本当の動く城となり、ハウルを助けに行こうとします。

しかし、荒地の魔女がハウルの心臓を見つけたために、城は壊れます。

そして、ソフィーは過去の扉を開き、ハウルとカルシファーの契約の場面を見ます。

さて、明示はされていませんが、ソフィーはこの過程の中で、ずっと次のように考えていたはずなのです。

「ハウルは、守るものが出来たと言って、あの家にこだわり、逃げずに戦った。だから、私は、自分がまず逃げた。それでもはハウルはこなかった。なぜ??ハウルがあの家から離れなかった理由は??」

そして、おそらく、どこかのタイミングで答えにたどりついたのだと思います。

「ハウルは、私を守るためだけにあの家にこだわっていたのではない。私の呪いを解くために、あの家から離れられなかったのだ。私が後ろ向きな自己暗示に囚われていたから、ハウルは逃げられなかったのだ・・」

断言はできませんが、このことに気づいたのは、ハウルとカルシファーの契約を観た瞬間、指輪がちぎれた時ではないかと思います。

だからこそ、それまで過去のハウルにソフィーを導いてきた指輪は消滅し、彼女は未来へ帰ります。

(注:もともとハウルは指輪をくれた時、「お守り。ぶじに、行って帰れるように」と言っていました。これは、国王のところへ行くときのことと、過去に行くときのことを両方示していたのでしょう。国王のところから城に戻るときは、指輪は赤い色でソフィーを導き、過去に行くときは青い色で導きます。空間の移動と時間の移動に対応しているのかもしれません。)

つまり、過去への呪縛が解けたソフィーの心の変化を、過去から未来へ戻すことで表していると思います。

「わたしは、ソフィー。待ってて、わたし、きっと行くから、未来で待ってて!」

後ろ向きな志向から未来への意志の転換とその決意の表明。この一言は、宮崎アニメにとって重要なことです。(参照#なぜ、ソフィーは歳をとったり、若返ったりするのか?)

そして、未来へ戻ったソフィーは、ハウルを見て、こういいます。

「ごめんね、私、ぐずだから。ハウルはずっーと待っててくれたのに」

ここで言っている、「ぐず」「ハウルはずっーと待っててくれたのに」というのは、過去と現在の対比や、荒地から助けに戻ったことなど、時間・空間的な意味も少しはあるかもしれませんが、本質的には、ソフィーの自己暗示が解けるのに時間がかかっていたのを、ハウルは、城をソフィーの家に移したり、敵からソフィーの家を守ったりしながら、ずっと待っていたことを示していると思います。

ソフィーが魔物のハウルを見て、「わたし、あなたを助けたい。あなたにかけられた呪いを、ときたいの」といったとき、ハウルは「自分の呪いもとけない、おまえにか!」といいます。ハウルは、ソフィーが後は自分の思い込みをいつ解くのか、ずっと待っていたのです。

その後、ハウルが、家を引っ越したのも、花畑をプレゼントしたのも、逃げずにソフィーの家で敵と戦っているのも、全ては、ソフィーが自己否定的な暗示をかけるのをやめるのを、ずっと待っていたということであったのに、ソフィーは気づいたのです。

自分が否定的なことばかり考えていたことがハウルを窮地に陥らせていたことに気づいてから、彼女はもはやそのような考えをやめました。
以降、彼女が歳をとることはもはやなくなります。

ただし、彼女が白い髪をしていることで表現されているのは、彼女が、普通の若い女性に戻ったということではなく、彼女の気持ちが彼女の容姿を変えているのだということでしょう。

呪文が解けたのではなく、彼女が自分への否定的な暗示をかけるのをやめた、つまり、彼女がどのような容姿を持つかは彼女の気持ちしだいという作品のテーマが表現されているのではないかと思います。

4.ハウルは少年時代にカルシファーとなぜ、どういう契約を行ったのか

映画では、あまり説明がありませんが、小説版では、具体的な説明があります。

ソフィー「カルシファー。あんたって、もと流れ星だったんじゃない?」

カルシファー「そうさ。あんたが気づいてくれたからには、おいらも話せるよ。契約で自分からは話せないことになっているからね。」

ソフィー「で、ハウルに捕まったのね?」

カルシファー「5年前、ポートヘイヴンの湿原でね。ちょうどハウルがあそこで魔術師ジェンキンとして開業したばかりのころさ。

7リーグ靴をはいたハウルに追いまわされて、怖かった。どっちへ転がっても怖かったんだけど。だって、空から落ちたときに、もう死ぬってわかってたし。

死ぬぐらいなら、なんでもする気になった。だからハウルが、おいらを人間みたいにして生きのびさせてやろうか、と言ってくれたとき、契約をもちかけたんだ、おいらの方からね。

あのときは二人とも、そんな契約をしたらどうなっちまうか、わかってなかった。おいらは助けてもらったお礼がしたかったし、ハウルの方はおいらが気の毒だと思ってくれただけだもん」

しかし、この契約は、双方に問題をもたらすことがわかります。

カルシファー「長い目でみれば、お互いにためにならないんだ」

長い目でみると、どうしてお互いのためにならないのでしょうか。

契約をすると、お互いが相手の力を利用することができるため、魔術師としては、大変大きな力を手に入れられます。

しかし、相手に心をあずける時間があまりに長いと(小説版の荒地の魔女の例では)最後には星の子に完全に心を支配されてしまいます。

ただの操り人形の化け物となってしまうのです。

一方、星の子も、契約した相手が死ぬと自分の命もつきるため、次々と乗り移る相手を探すことになります。

まさに悪魔です。

この問題の別な面として、悪魔との契約を解く呪文の問題があります。そちらも参照ください。

では、最初に戻って、ハウルは何故星の子をとらえようとしたのでしょうか。

小説版のカルシファーの説明では、ハウルは星の子を気の毒に思ったとだけ言っています。

しかし、魔術師としてのハウルが、追い掛け回して星の子と契約した以上、そこには、魔術師としての自分の力を強化させたいという野心がないとはいえないでしょう。

それが、化け物に変身する衝動をおさえるハウルに表現されています。
(なお、巨大な力を得ようとすることと、その衝動を抑えることというのは、宮崎アニメの最大の本質的特徴のひとつです。詳しくはハウル論「殺戮兵器が恋をするまで」をお読みください。)

一方、映画版では、ハウルは星の子を追い回してはおらず、立ち止まったまま、落ちてくる星の子を受け止めています。

まさに、偶然、ぶつかったというイメージです。
これを、宮崎監督は、「星にぶつかった少年」という表現で呼んでいます。

声をやった木村拓也さんに、宮崎監督がまず言った言葉がこれでした。

ハウルを演じるにあたって、監督から具体的なアドバイスはありましたか?
木村「いや、(監督は)白髪の生えた少年なので具体的じゃないんですよ(笑)。
第一声で「この少年(ハウル)はね、星にぶつかった少年なんだよ!」と意味不明な説明をされまして・・まったく理解できないまま「わかりました!よろしくお願いします」と(笑)」

つまり、宮崎監督のイメージでは、まず、ハウルは、たまたま落ちてくる星に出会ってしまった少年なのです。

これは、他の宮崎作品と同じイメージです。

「未来少年コナン」におけるラナ、「天空の城ラピュタ」における、シータが空から降ってくるイメージ。

宮崎アニメにおいて、少年が冒険を始めるときには、いつも、空から新しい冒険の予感がふってくるものなのです。

5.ハウルは何故城を動かしたのか

城の構造上、実体は実は普通の家です。(参照#3.城の構造はどうなっているのか?そして、ソフィーは城をどうしたかったのか?なぜ、ソフィーの魔法は解けたのか?[1]
では、何故、ハウルは城を動かす必要があったのでしょうか。

小説ではハウルはソフィーに3つの理由をあげています。

「職業柄、みんなに力と邪悪さを印象づけたかったんだ。それに王様にぼくのことをよく思われたくないんだ。おまけに、去年、とても力のある奴を侮辱して怒らしちゃってね。だから、両方を避けたいんだ。」

たしかに、物語を見ても、ハウルは荒地の魔女と王様(もしくはサリマン)から逃げています。

ハウルにしては、やけに論理的でわかりやすい説明ですが、この3つの理由だけでは正確ではありません。

ハウルは、ソフィーに言いづらいもう一つの大きな理由をもっているのです。

それは、ハウルが心をうばった娘さんたちが、ふられて悲嘆に沈み、涙ながらにハウルの家におしかけたり、その娘さんの親戚が怒って殴りこみにきたりするからです。

マイケル(マルクル)「こんなふうにハウルさんがやたらに恋に落ちるせいで、ぼくらがどれ程やっかいな目にあってきたか、ご存じないでしょ。

訴えられるのはしょっちゅうで、剣をかざしたもとの恋人に、めん棒を持った母親に、こん棒の父親と叔父さんたちが押しかけてくるんですよ。

それから叔母さんたち。恐ろしいのなんのって、帽子ピンでつこうと追いかけてくるんです。

最悪なのが、相手の女の子がここをつきとめた時ですね。戸口に来て、めそめそ泣くでしょう。ハウルさんは裏口から逃げ出しちゃうから、ぼくとカルシファーで相手をしなきゃならないんだ」

ハウルが城を動かしたりあっちこっちにドアをつなげた最大の理由は、実はこれかもしれません。

6.なぜ、原作にはない戦争シーンが映画ではつけ加わったのか
なぜ、原作にはない戦争シーンが映画では付け加わったのでしょうか?

宮崎監督は「戦火の恋」をやりたかったそうです。(ロマンアルバムの鈴木プロデューサーの言葉より)

しかし、実は私は違うと思っています。ちょっとまとめ中なので、とりあえずブログに書いた「ハウルの真実」を参照ください。

7.ハウルはなぜ浮気性なのか
映画ではぼかされていますが、ハウルは、なぜ、女の子にかたっぱしから声をかけるのでしょうか?

カルシファー「ハウルは移り気なのさ」
      「女の子に興味を持っているのは、相手が恋に落ちるまでだね。相手がハウルにほれたとたん、もうどうでもよくなるわけ。

小説ではソフィーはハウルに直接問いただします。

ソフィー「あたしの言ってるのは、相手を恋に誘い込んだとたん、ご婦人をふるあんたのやり方のこと。どうしてそんなことするのさ?」

ハウルは震える手でベッドの天蓋をさし示しました。
「だから、ぼくはクモが好きなんだ。『もし最初は成功しなくても、何度でもためせ 、ためせ』ぼくもクモも何度でもためしてみる。」

ハウルはとても悲しそうです。
「自業自得だな。何年も前に取引をしたせいだ。だから、今じゃ誰もまともに愛せないんだろう」
ハウルの目から流れ落ちているのが涙であることはもう間違いありません。

つまり、ハウルが相手を恋に誘いこんだとたんに、相手に興味をなくしてふるのは、カルシファーとの契約が原因であることがわかります

では、なぜカルシファーとの契約がそのような事態を引き起こしたのでしょうか?

小説版では、自分の体の一部を失っている人物が3人登場します。
ハウルと、ジャスティン殿下と、魔法使いサリマンです。

そして、ジャスティン殿下もサリマンも、どうにか、失われた身体を取り戻そうとします。

となると、明言はしていませんが、ハウルも、自分が取引で失ったもの=心臓を取り戻そうとしていると考えるべきでしょう。

しかし、カルシファーとの契約で自分の心臓を取り戻すことはできません。

そのために、その代償行為として、多くの女性の心(=ハート=心臓)を得ることに生きがいを見出しているのです。

ですから、自分自身に心臓が戻ったとたん、ハウルの浮気性はなくなります。
(参照#12.彼らはあの後どうなったのか)

8.ソフィーの家族構成は?そして、ソフィーは何故自分はダメだといつも考えているのか。
小説版の設定だと、母親はソフィーと次女のベティーを生みますが、ソフィーが2歳のとき、亡くなってしまいます。父親は金髪の女性と再婚し、その結果、
金髪美人のマーサが生まれます。
しかし、父親も、ソフィーが学校を終える歳に死亡。姉妹は働くことになります。(物語の直前です)。
映画では、次女ベティーの設定と三女マーサの設定が融合し、金髪のベティーとなります。
だから、長女のソフィーと母親は似てませんが、次女のベティーと母親はそっくりで金髪なのです。

参考までに三女マーサの設定は無くなりましたが、痕跡は映画のはしばしにみられます。
「ハウルがマーサって女の子の心臓を食べたんだって」
「いまから末の娘のところに行くんだよ」

さて、ソフィーにとって、母親は継母なのです。

小説版のソフィーは、いつも、おとぎ話の長女は運が悪いから何をやってもダメだと思い込んでいますが、その理由は、このようにおとぎ話にありがちな設定(父も母もすぐ死んでしまい、継母に育てられる)に自分がなってしまっているからです。

つまり、自分の実の両親が次々と死んでしまったショックが、彼女の自己否定的な暗示を引き起こす大きな原因となっていると思います。

このようなソフィーが癒されていく過程として、映画では終盤近くに次の会話があります。

マルクル「僕ら、家族?」
ソフィー「そう、家族よ」
マルクル「よかった!」

家族の崩壊から心を閉ざしたソフィーが、自ら新しい家族を作ることで少しづつ癒されていきます。
このすぐ後、サリマンによる攻撃がはじまり、ソフィーの呪縛が解けていくことを見てもわかるように(参照#3.城の構造はどうなっているのか?そして、ソフィーは城をどうしたかったのか?なぜ、ソフィーの魔法は解けたのか?[1])、自ら家族を作ることは、 ソフィーの呪文が解ける上で大きな要素を果たしていたのです。

参考までに小説の続編、「アブダラと空飛ぶ絨毯」では、ソフィーは子供を生み、文字通り家族を作っています。

9.ハウルは何故ソフィーに惹かれたのか
恋心が目覚めだので・・といってしまえばそれまでですが、それ以外の説明としては以下のものがあります。

ハウルが最初にソフィーに声をかけたのは、おそらく、浮気者の性格からでしょう。
しかし、なぜハウルがめくらめっぽう若い女性に声をかけているかというと、自分に心臓がないためと考えられます。(参照#7.ハウルはなぜ浮気性なのか)

一方、ソフィーは、実は命を吹き込む魔法を使える女性でした。(参照#ハウルの動く城はなぜわかりにくいのか)

つまり、後から考えれば、この他には考えられない組み合わせなのです。

生命を吹き込む力を持つソフィーだからこそ、心臓のない男であるハウルに、ハート(心、心臓)をもたらすことができたのです。

ハウルは、かなり早い段階でこのことに気づいていた可能性があります。
しかし、もしかすると最初に気づいたのは荒地の魔女だったのかもしれ ません。

なぜなら、小説版では、ソフィーは販売している帽子に次々と(無意識に)魔法をかけて売っているのですが、荒地の魔女は、ソフィーの店にきたとき、帽子をひとつひとつ見てその属性を見破り、あげく、「人の商売に手出しをするとこうだ」と言ってソフィーに魔法をかけるからです。

荒地の魔女は、ソフィーの力を知った上で、ハウルを救う鍵になる女性だからこそ、呪いをかけて老婆としたのでしょう。

心に傷を負った女性と心を無くした男性が出会うことで、二人とも癒され、心が結ばれていく・・ハウルの動く城はそのようなラブストーリーと見ることも可能です。

(参考)上に書いたように、80年代〜90年代風に考えれば、心に傷を負った者同士のラブストーリーなのですが、ヨーロッパのおとぎ話しの伝統を考慮して考えると、19世紀のロマン主義の系譜も考えられます。
呪われた運命の男性が、誠実な女性の身を犠牲にした行動によって救済されていくという・・ワーグナーが多数のオペラを作っているテーマですね。

10.カカシのカブとは何者なのか?
映画で若干謎が残る存在として、カカシのカブと犬のヒンがあります。
そのうち、カカシのカブは、実は隣の国の王子だったことがあかされます。

これは、小説版とは明確に異なる設定です。

小説では、カカシや犬(犬になったり人になったりする犬人間として登場)は、実は国王の弟のジャスティン殿下や魔法使いサリマン(映画とは異なる設定)といった人間達が、荒地の魔女によって変身させられた姿なのです。

同じような存在として、カカシと犬のほかに、小説では頭蓋骨も登場します。

映画ハウルのイメージ・ボードを見ると、テーブルの上に頭蓋骨がのっていたりもしますから、ある時期、小説に近い展開も考えられていたことがわかります。

ところが、最終的な映画では、ご存知のように、かかしは隣の国の王子、犬のヒンは謎の存在となります。

なぜでしょうか?

あまり語られませんが、宮崎作品の大きなテーマは、「純粋な機械が、少女に助けられて人間になっていく」というものです。

詳細は私のハウル論「殺戮兵器が恋をするまで」をお読みください。

そのような観点でみると、カカシのカブのエピソードというのは、宮崎作品の真髄を体現していることがわかります。

初めは、ただの物であったものが、少女に助けられて命を持ち、純粋無垢に少女を助けようとつとめ、最後は美しい人間になっていく・・

カカシのカブの設定が小説とは全く異なる物語に変更されたのは、少女に息を吹き込まれるカカシという設定が、宮崎監督の作品モチーフにとって、本質的な物語に非常に近かったためと考えられます。

あのエピソードの中には、宮崎アニメ全作品のエッセンスが凝縮されているのです。

11.なぜ荒地の魔女は力を失ったのか(星の子とマンダラケ人間)について
ハウルと荒地の魔女は、どちらも星の子(悪魔)と契約したことから、強い魔力を使えるようになります。

では、どのようにすれば彼らから力を奪うことができるでしょうか?
当然、星の子の力を奪うことによってです。

ソフィーが初めて動く城に入ったとき、ハウルは、彼女が、呪いを持ってきたのを見つけます。

そこには、星の子の絵と、流れ星の絵がかいてありました。

ソフィーと荒地の魔女が王の城にいくとき、荒地の魔女が気が付かないうちに、彼女はある絵を踏みつけます。
そこには、やはり星の子の絵が書いてあります。
そして、彼女の魔力は失せ、自力で階段を上らせられるはめになります。

荒地の魔女が部屋に入ると、今度は星の子の影法師があらわれ、皆で魔女を囲み、魔力を完全に奪います。

ハウルとソフィーを囲み、魔力を奪おうとしたのも、星の子達でした。

星の子たちは、どのようにして魔力を奪うのでしょうか?

流れ星で落ちてくる星の子は、地面に降りたとたんに死んでしまいます。

小説では、マイケル(マルクル)が星の子を捕まえようとしますが、「いけないよ。ぼくはこのまま死ぬことになっているんだ」「駄目!死ぬ方がいい!」といって逃げ、死んでしまいます。

映画で、ハウルを囲んで歌うシーンでは、イメージボードによると、歌の内容として以下の歌詞が見えます。

「ほっといて、ほっといて、ぼくにさわらないで、死にたいのに、死にたいのに」

つまり、星の子と契約して力を得たハウルや荒地の魔女から魔力を奪うため、星の子の仲間を使って、星の子の自殺衝動を誘い出しているわけです。

なお、サリマンが使う星の子は、設定によればマンダラケ人間とされていますので、本物の星の子ではなく、マンダラケを使って生まれたようです。

マンダラケは、小説版でもわずかに出てきますが、マンダラケ人間のイメージや、星の子にプレッシャーをかけて魔力を奪うという設定は映画オリジナルのものです。

12.彼等は、あの後どうなったのか?
ハッピーエンドの後、彼らはどうなったのでしょうか?

小説版では、(脇役ですが)続編において、ソフィーに子供もでき、結構楽しそうにやっていることがわかります。(魔神に魔法をかけられたり、大変といえば大変ですが・・)

また、「ハウルの大サーカス」という展示会が2005年5月〜9月まで東京都現代美術館で開催され、そこでの設定は、全員でサーカス団を結成するというものでした。(参照ハウルの大サーカスについて)

この項の編集は、ハウルの動く城のよくある質問[2]


Last-modified: 2013-07-24 (水) 08:03:01 (JST) (3923d) by yasuaki