ナウシカの母は、ほとんどその姿を見せないが、「風の谷のナウシカ」という作品にとって、最も本質的な何かを示している。
出てくるシーンはわずか一箇所。映画でも漫画でも、ナウシカの幼い時の思い出のシーンで、オームを燃やすときにその姿を示すのみであ
る。
無言で、ただ、ナウシカの訴えに耳をかさないシーンだけが描かれる。
このシーンの重要性がわかるのは、物語も終盤になって、ナウシカが牧人と戦うシーンである。
牧人は、ナウシカの弱点が母の思い出にあることに気づき、ナウシカの母に変容する。ナウシカは少女時代に戻り、母の胸でやすらぎそう
になる・・
しかし、ナウシカは、母が優しい笑顔を見せた瞬間、それがニセモノであることに気づく。この瞬間、ナウシカは自分を取り戻す。
そして言う。「母は、決して笑顔を見せることはありませんでした。優しい人でしたが、決して癒されない悲しみを抱えていました。」
そして、気づく。
「母は、私を愛しませんでした。」
それを聞いて、牧人は言う。
「お前が、オームに名前をつけたのは、お前が愛されない仕返しか」
つまり、ポイントは、
1.ナウシカは、母の身体の毒をうけた多くの兄弟の犠牲のもとに生まれた。
2.母が、癒されない悲しみをおい、優しいが笑顔はなかった。
3.ナウシカは、自分は愛されてはいなかったと考えており、これがナウシカの弱みになっている。
4.母の行為を反復するかのように、ナウシカ自身、愛していない巨神兵の母として振る舞った。
つまり、優しいが、愛情がない母は、ナウシカにとってトラウマとなっているのである。
身体に毒をうけ、深い悲しみをもつ、どこか冷たい女性。
これは、いうまでもなく、宮崎アニメの多くに共通するモチーフである。
トトロにおける療養中の母。
もののけ姫におけるエボシ。
アニメ版ナウシカにおけるクシャナ。
彼女達の共通点は、身体が不自由であり、ひどい経験があり、どこか冷たい美しさをたたえている点である。
宮崎駿監督は、彼女達の詳細は語らず、ただ、こういう。
エボシは本当にかわいそうな女なんです。
クシャナは本当にかわいそうな女なんです。
彼女達が、どれほどかわいそうなのかは、ほとんど実際には説明されない。
ただ、宮崎監督は、彼女達の苦しみを力説する。
言うまでもなく、彼女達のモデルは、宮崎駿監督自身の母である。
彼女は、難病をわずらい、少年期の宮崎監督をおいて、療養生活を送った。
母はどれほど、子供たちをおいて療養を続けることでさみしかっただろうか?
しかし、子供から見れば、それは一層さみしいことだろう。
「兄(宮崎駿監督)が幼いころのことですが、母が7〜8年入院してたことあるんですよ。
寂しい思いをしたんでしょうね」(弟の宮崎至朗氏談)
おそらく、彼は、自分が、母に愛されていない子なのではないかと考えざるをえなかったのではないだろうか?
ナウシカが、母は優しかったが自分を愛していなかったと考えざるをえなかったように・・
宮崎駿監督は、当初、ナウシカに母を見ていた。(ナウシカの胸の大きさについて、参照)
これは、母性的なものへの憧れ、甘えが出ていたと思う。
しかし、ナウシカと牧人との戦いの中で、おそらく、ナウシカが自分自身の深層意識に入り込み、自分自身と対決せざるをえなかったように、宮崎駿監督自身も、自分自身の深層意識に入り込み、自分自身と向かい合うことになった。
その結果、ナウシカの胸は小さくなり、ナウシカは(そして宮崎駿監督は)、おそらく、「母は自分を愛してはいなかった」という言葉につきあたる。
自然的なもの、母性的なものへの漠然とした憧れが、深層としては、自分が子供時代に抱えていた寂しさに起因する可能性に直面したのだろう。
そして、風の谷のナウシカという作品は、根本的な変化を遂げる。
自然や母性への崇拝から、生命論の物語へと。
そこでキーになるのは、もはやフカイではない。
子供3人を生みながら長期療養しなければならなかった自分の母であり、11人の子供を生みながら、自分の体内の毒によって10人の子供を殺してしまったナウシカの母である。
それは、宮崎駿監督の以下の、生命の誕生に対する認識の言葉ともひびきあっている。
「恐竜はいわゆる恐竜的進化の果てに滅びたと言われていたのが、このごろは違ってきました。ネメシスが因果応報の罰を与えたのじゃなくて、巨大隕石が地球に衝突して、それで滅びたとかね。地球が大地殻変動期を迎えて、大噴火を繰り返して、それで7割ぐらいの種が絶滅して、更新が行われたとか。地球はやさしくないんですよ。滅びたのは恐竜自身のせいじゃなかった。地球のせいだった。」
「カンブリア紀の爆発が偶然だったんだ。今の形も、自分たちが残っているのも偶然だったのだ」
つまり、当初は自然崇拝・母性崇拝であった物語が、以下の気づきと認識を受け、テーマが揺らいだのだ。
・母性への憧れは、母に対する寂しい思いから生まれていたという気づき
・生命とは、ある偶然の状況により誕生したものであり、やさしさから生まれたものではない。そのために、いろいろな矛盾を抱えながら生きていくものであり、業を背負ったものであり、残酷であり、絶望を本質としてもって言う認識
その結果、生命の本質とは母性賛歌で済むようなものではなく、生き物としての業をかかえながらも、それを乗り越えようとするものであるという結論に変わったのだ。
そして、ナウシカという物語は、自然の復活へという憧れ、母への憧れを捨てる。
テーマは、業を背負ったまま、生命としていき続けることの重要性にポイントは変わる。
毒をなくすのではなく、毒とともに生き続けること。
母への憧れを追い続けるのではなく、愛情がない母であっても、その業を引き受けて生きていくのが生命であるということ。
それが、牧人に母を見て、その胸に顔をうずめる幼女のナウシカから、母が優しすぎるために牧人のウソであることを見ぬくまでのわずか数コマで表現された、ナウシカの意識の変換であり、作品のテーマの転回の頂点である。
(参考1)
不条理な業を引き受けていき続ける生というテーマは、漫画版ナウシカ完結直後に製作された映画「もののけ姫」において、呪われたアシタカに引き継がれる。
なぜアシタカは呪われなくてはならなかったのか参照(もののけ姫のページ)
また、ナウシカの生命論も参照
(参考2)ナウシカの母についての宮崎駿監督の発言集
「ナウシカのお母さんは、どうだったのか。決してナウシカに邪険にしたとか、いじめたとか、そういうことじゃないと思うんですよ。どこ
かで、一番深いところではフカイ絶望があったんだと思う。
「ものすごく優しい人でしたが・・」といっているから、優しかったんですよ。
村人にも、彼女に対しても優しかったと思う。でも愛するのとはちがうって。」
「例えばナウシカは、この子は何か傷をもっている子だなということは、前から思っていたから。
そうすると、母は私を愛さなかったという方が、読者には唐突でも彼女の存在そのものと一致する。自分でも納得できる。」