1996年、宮崎監督ので弟子でもある庵野監督(後に、「風立ちぬ」で主人公の声優も担当)は、エヴァンゲリオンでブームを巻き起こす。
そのさなか、宮崎監督について質問され、以下のように批判している。(以下、「スキゾ・エヴァンゲリオン」より抜粋)
宮崎さんは・・昔はよかったんですけれどね(笑)。
次回作の「もののけ姫」は期待してるんですけれどね。聞いてる範囲から判断すると期待できる作品みたいですよ。でも、終わってみないとわからないけれど、どうなるか。
・・・どの辺で関心がきれましたか。
一般向けのつまらない日本映画の仲間入りをしてしまいましたね。僕はもう物足りなさしか残らないですけれど。「トトロ」は良かったですけれど、そのあとはつまらなくなった。
・・・後継者っていう意味では、宮崎さんもずっと後継者っていうことを言っていて・・。
僕を欲しいでしょうね。宮さんは(笑)。
・・・後継者と言ってるんだけど、どうも育っていない感じがする。
育っているんですか、ジブリで。
いえ、ジブリじゃ育ちません。育つ環境じゃないですから。
・・・強力すぎますもんね。上が。
あそこは依存でできている会社ですから。まあ、宮崎さんがいなくなったらあそこはもう無力です。
・・・さっきの話まで戻りますが、宮崎駿作品は、どのあたりで嫌になってきたわけですか?
『トトロ』まではまだ良かったですね。『魔女の宅急便』あたりからかな。
『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。
僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。
パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。
・・・庵野さんは毎回パンツを脱がないと気がすまないでしょう。
自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。ストリップしかないと思います。
基本的に作家のやっていることって、オナニー・ショウですから。それでしかないと思うんですよ。
あとは下世話な話ですが、四畳半で一人シコシコやっているのが絵になるかっていう問題ですね。
それが舞台の上に立って、パーッとやった方は、僕のオナニーはショウになりますっていうふうに。で、客は顔にかけてくださいってね、それで顔にかけてあげる。(エヴァンゲリオンの)最終回はスペルマじゃなくってバケツの水をかけたようなものです。スペルマを待っていた人たちは「違うこんなんじゃない!!」と怒る。
あれ(マンガ版『ナウシカ』の7巻)が僕と同じものだって感じがしたんですけれど、『ナウシカ』も、もうきちんとしてしまって。しょうがないんですね。『ナウシカ』の7巻と同じテーマでやらなきゃしょうがない。
あれは生きていけないわけですよね、旧人類としてのナウシカが。
共生を否定しましたね。自分達が生き残るためにナウシカは血で汚れてよかったです。忌み嫌っていた巨神兵の火で破壊しなければいけない業の深さ、これがいいんですよ(笑)。もう、いつわりのない宮崎駿のポリシーが出ていてとにかくあそこではパンツを脱いでますから。
マンガではパンツを脱いでチンチンを立てている(笑)。同じことをやってくれるように「もののけ姫」では期待している。いくら小さいとはいえ、やっぱりチンチンを立ててもらわないと。大きい小さいは関係ないんだから。立てたチンコの心意気ですよ。人前で立つってことはたいしたもんですよ。それでどんなに小さくても胸をはってショウを見せるのがすごいわけです。
自分のチンチンをですよ。
いや、みっともないとは思いますよ。でも、やるんです。みっともなくてもかまわない。自分のチンチンが小さいのは、これはもうしょうがないことだから。かといって、そこでペニスケースとか電動コケシでごまかすっていうのもダメ。小さいからといっても代用品で女を喜ばせるどうかと思う。
(注)ここで言っている女を喜ばすこと=観客を喜ばすことの意味であり、チンチンを立てる=自分の内面性をどこまで本当にさらけだすということである(たぶん・・)。
つまり、宮崎監督が自分を投影したとされる紅の豚が、庵野監督には、自分をさらけ出してはいないように感じたのでしょう。
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