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0.ハウルの動く城はなぜわかりにくいのか :: アニメの部屋

xpwiki:0.ハウルの動く城はなぜわかりにくいのか

0.なぜ『ハウルの動く城』はわかりにくいのか?

宮崎監督は、「ハウルの動く城」を製作するにあたり、わざと、ストーリーの説明を省きました。

ご覧になられるとお分かりになられると思うんですが、宮崎さんとお話したときに「(作品の)説明は全部はぶいてある」とおっしゃっていたんです。

ひとつひとつ「あれはおかしい」とかいう人もいらっしゃると思いますが、ジャン・コクトーが「この作品はただ感じてもらえればいい」 と申しましたように、観る人のボギャブラリーや許容力に預けてある作品なんです。

他にも家族とはどういうものであるのか、善と悪とはどういうことなのかなどいろんな要素が入っていますので、そういうところをお楽し
みいただければありがたいと思います。
(美輪明宏氏:ロマンアルバムのインタビューより抜粋)

ただ感じてもらいたい、ということもあるでしょうが、私が考えるに、宮崎監督はかなり作為的に説明を省いたと思います。

映画版でもっとも曖昧にされているのは、「ソフィーが実は魔法を使え、生命を吹き込むことができる」という小説版の設定です。

映画では、この設定がなくなったわけではありません。

むしろ、ソフィーが生き物を蘇らすシーンは大体入っています。

・カカシのカブ、契約を破ったカルシファー、同じくハウル。
注意深く見れば、映画でも小説同様に、カブにしろカルシファーにしろ、ハウルにしろ、ソフィーは、彼らを復活させるための明確な言葉(呪文)を使っているのです。

ソフィー(カブに対し)「逆さになっているよりましでしょう。元気でね。」

ソフィー「心臓をハウルに返したら、あなたは死んじゃうの?」
カルシファー「ソフィーなら平気だよ、たぶん。おいらに水をかけても、おいらもハウルも、死ななかったから。」
ソフィー「やってみるね。どうか、カルシファーが千年も生き、ハウルが、心をとりもどしますように。」

しかし、ソフィーが生命を吹き込む魔法を使えるという設定は、一言も説明されていません。

なぜでしょうか?

小説版のソフィーの特徴は2つあります。
自分にコンプレックスがあり、自分自身に否定的な暗示をかけて、自分の本来の良さを損なっている。老婆になるのも、実は呪いという よりは自己暗示の面が強い。
生命を吹き込む魔法を使える。

宮崎監督は、の点はそのまま残し、の点は曖昧にしたのです。

それによって、この物語が、ある魔法使いの女の子の物語ではなく、映画を観る誰もが、自分の問題として捉えられるようにしたかったのだと思います。
つまり、物事を変えるのは、周囲のせいでも能力のせいでもなく、自分自身がどう意志を持つことができるかが大事だと。

この点では、宮崎監督の前作「千と千尋の神隠し」にでてくるあるシーンが参考になります。千は、湯婆婆の前に言ったとき、何度断られ ても「仕事をください」といい続けます。一度でも、それをあきらめたら、彼女はだめなのです。
これについて、宮崎監督はこう言っています。

「言葉は力である。千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することは取り返しのつかない重さを持っている。湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「かえりたい」と一言でも口にしたら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に行くあてのないままさまよい消滅するか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産み続けるかの道しかなくなる。逆に「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。今日、言葉は限りなく軽く、どうとでも言えるアブクのようなものと受け取られているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。言葉は力であることは、今も真実である。力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。
世の中の本質は、今も少しも変わっていない。言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。」

全ては本人の気持ちしだいであり、どういう言葉をしゃべるかだということ。

このことは、『ハウルの動く城』でも、せっかく若返ったソフィーが「私、きれいでもないし、そうじくらいしかできないから・・」と言った途端に老けてしまう描写でも明確にされています。

「人間なんて気持ち次第で同じ人が90歳のおばあちゃんになったり、ある時は50代のおばちゃんになったりする。そういうことで言うと、ソフィーも気分によっては少女になるってあるんじゃない?」(宮崎監督の言葉:ロマンアルバム鈴木プロデューサーインタビューよ り抜粋)

自分の気持ちしだいで自分は変われるのだということ。

このことを強調したいために、映画ではソフィーの気持ち次第で少女になったり老婆になったりするという、小説にはない表現が加わるとと もに、ソフィーの魔法使いとしての能力の説明はなくなりました。

しかしながら、ソフィーが使う呪文の言葉自体は、映画でもそのまま残りました。なぜなら、これらの言葉は、本人の意思をはっきり表現することで、自らの運命は切り開かれるという宮崎監督の意図と一致するからです。

つまり、魔法使いが使う呪文としてではなく、「言葉は意志であり、自分であり、力なのだ」という宮崎監督の思いを表現するために、小説から残されたのです。

このような事情もあり、ソフィーが魔法を使えるという点は、ほとんどわからなくなりました。

その結果、映画のストーリーを論理的に考えると『?』なシーンが生じることになりました。

おそらく、論理的に物語を理解して欲しいのではなく、気持ちしだいで人はいくらでも変わるのだというメッセージを理解して欲しいということでしょう。

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Last-modified: 2013-08-03 (土) 10:18:36 (JST) (3911d) by yasuaki