月刊ニュータイプ96年6月号 映画化決定記念特別インタビュー

 

 

「新世紀エヴァンゲリオン」は、アニメ界という海に10数年ぶりに発生した大波である。

「機動戦士ガンダム」のファーストシリーズがオンエアされてから、すでに17年が経った。「宇宙戦艦ヤマト」や「銀河鉄道999」というアニメ映画を観るために、ティーンエイジャーが劇場を満員にした時代。いわゆるアニメ・ブームは1980年をピークに前後2〜3年。現在のNT読者の多くは、まだ生まれていないか、せいぜい赤ん坊だったはずだ。

 

当時は、ティーンエイジャーなら誰もがアニメを抵抗無く受け入れていた。しかし、その後、ティーンエイジャーでありながらアニメを観ることは「特殊なこと」になっていった。

 

特に、’80年代半ば、OVAが「発明」されると、アニメはファンのニーズに合わせて細分化を重ね、気がつくと「普通の人」が観ることの無いジャンルになってしまっていた。

もちろん「セーラームーン」や「ドラゴンボール」は人気がある。でもそれはあくまでも「子供たちのためのもの」だ。

もちろん夏休みには宮崎駿(あるいはスタジオジブリ)作品が一般客を劇場に集める。でもそれは、あくまで「デートで観に行ってもハズさない安心して見られる映画」として観られるわけで、けして「アニメファンのための」作品ではない。

 

アニメファンのために作られて、そのうえで「普通のお客さん」にまでスゴイ!と言わせる作品・・そんな作品の誕生を私たちは待ち望んでいたのだ。

そして「エヴァンゲリオン」。

アニメファンだけでなく、「普通の子供たち」や「先端カルチャーに敏感な大人たち」、そして「10年ぶりにアニメに帰ってきた元ファンたち」の熱狂的支持を受けた「エヴァ」は、TV放送が終了した今もなお、そのムーブメントを広げつづけている。

謎が謎として解明されないまま終了し、賛否両論を巻き起こした最終回からひと月−ようやくスケジュールが日常に戻った庵野秀明監督に話を聞くことが出来た。

 

「今の気分ですか?―――疲れてます(笑)」

 

そういいつつも庵野監督は、慎重に言葉を選びながら語り始めた。

 

「「エヴァンゲリオン」の作業ってライブ感覚なんですよ。ストーリーにしろキャラクターの配置にしろ、理屈でやってなかったんです。作業をしながら、いろいろな意見を取り込んで、自分で自分の心理を分析して”あっこういうことか”と。ことばを後から見つけていきました。

最初は単純なロボットものにしようと思ったんです。でも、学校がメーンの舞台になると他のロボット物と変わらなくなっちゃう。そこで、学園と組織のつのID、二面性を持った主人公にしよう、と。あんまり深く考えてないですよ、最初のころは。

それがだんだんスタッフが加わり、アドリブで誰かのギターがなり始めたらそれを受けてドラムやベースが変わるように、「エヴァ」にはライブ感覚が生きてきた。演奏が終わるのは放送が終わるとき。だから、前の回の脚本があがらないと次の脚本には入れない。通常の作品より時間がかかるんです。

脚本を書き終わって、前に立ち返って検証したとき”ああ、やっぱりこれちがってる”ト思ったものは絵コンテで直して行く。だから最終回は、最終回が近づくギリギリまでできなかったってことなんです。」

 

結局、「エヴァンゲリオン」というフィルムは、物語という側面と、庵野監督自身の心の旅のライブ・ドキュメンタリーという、2つの側面から成り立っている。それは、「自分自身のやりたいことに嘘をつきたくない。」という、彼の強い意思の反映という形で現れているのだ。

庵野監督は、「エヴァ」に関わって行くことで、みずからの「心の問題」と直面することになったのだ――――。

 

「主人公を14歳にした理由は、”子供以上、大人未満”だから。一人でも生きられるし、他人にすがっても生きられるんですよ。何世紀か前の人だったら、もうすぐ元服ですね。そのころは人生50年しかないから14歳くらいで独立しないと。今は人生70年以上ありますから、日本人なら成人の20歳になっても親に依存している人はいっぱいいるわけです。

親に、依存させられているのかも、という問題もありますけど。親の方が、いつまでも子供でいてほしい、というね。そういうのも含めて、14歳は精神的には独立可能な年齢として、この作品のテーマに適当だと思います。」

 

「即興性ということでいえば、2話で人類保管計画という、物語の縦軸になることばを出したけれど、何を補完するのか決めていなかった。字面のハッタリだけです(笑)。「エヴァ」の世界って人口が半分になっているけれど、あれは置き換え論で、実際に人間が半分になっている世界というのはアニメーション界のことなんです。

アニメ業界もアニメファンにしてもそうだけれど、昔は勢いがあったのに、人数がどっと減ってしまって、細々となっている閉息された世界っていうのは、アニメだと思います。」

 

そういえば、庵野監督は2、3年前、こんなたとえ話をしたことがあった。「ガンダム」の世界は富野由悠季という監督の心象風景で、スペースコロニーという閉ざされた世界(アニメ会社)にいる人々を解放しようとドン・キホーテのように奔走するシャアは、富野監督自身の置き換え論だ、と。

それなら「エヴァ」は、閉塞した現状を打破できないプロの軍人がいる世界に対し、素人集団ネルフ=庵野監督を中心とするガイナックスが挑む話・・というように置き換えてみるとおもしろい。

 

「そうですかネ。まぁどう見てもネルフって素人集団ですから。軍の形式っぽくしてるけど、軍じゃないです。軍隊にしたくなかったんです。だいたいアニメ誌なんかがミサトのことを”有能な軍人”とか書いて枠にはめてしまうから、おかしくなると思うんです。あれのどこが有能なのかなぁと思っちゃいますよ。あれで有能な軍人なら、軍人さんに申し訳ない。どう見ても行き当たりばったりの作戦ですよ。全部まぐれ当たり。まともな作戦らしきものを立案してるのはリツコだけです。

 

―――ミサトに関しては、客体と主体をかねている存在で、配置としては現実世界の僕に近い部分があります―――以前NT2月号で、ゆうきまさみさんが7話を引き合いに出して描いていましたが、あそこまでストレートでないにしろ、似たような意味がネルフにはあります」

 

ここでも庵野監督の心象風景が、2015年の第三新東京市にシンクロしている。つまるところ、人影のない街=アニメ界は、「エヴァ」を見たいという移民たちの流入で、わずかばかりにぎやかになった。

 しかし、その一方で、庵野監督の中に、一部のアニメファンに対するフラストレーションが高まっていったのも、事実である――。

 

「人類補完計画」という、いかにもSF的な用語。その正体が、私たち現代人の「欠けている心の補完」だった・・という概念には、正直新鮮な驚きを隠せなかった。番組スタート時点では想定されていなかった「人に欠けているモノ」。それが「心」というカタチに落ち着くまで、監督の中で、どんな葛藤があったのだろう。

 

「心の問題については、はっきり意識はしていなかったんだけれども、日本やアメリカの一部って、物欲はほとんど満たされているでしょ。心にゆとりができたから生まれる問題だと思うんですよ。だって”明日食う物どうしよう”と思っている人は、自分は他人に嫌われているのかどうなのか、なんて考えないですよ。もっと生きることに一生懸命になると思いますね。だから飽食の今、心の問題がテーマになる。「エヴァ」をやってたら、最終的にそこに行き着いてしまった。

 

様々な理由で描ききれなかったけど、本来のストーリー上の25、26話(最終回)に関しては、25話はプロットまでできてました。26話はプロットの段階で放棄してしまった。来年に発売するビデオとLDでは本来の25・26話を作り直しますが、26話に関してはビジュアル的にもう一度練り直しですね。思いつかなければ、あのプロットを分解してもう一回やりますけれど。TVでオンエアした25・26話は、僕のあの時点での気分がストレートに反映しています。だから僕の中では満足なんですよ。後悔はしていません。」

 

3月4日。「エヴァンゲリオン」25話のアフレコ終了後、最終回26話の収録を残してスタッフ、キャストによる”打ち上げ”が、東京・大久保にある録音スタジオ・タバックのそばで行なわれた。

 

「そのとき、まだ最終回の脚本が上がっていない。全部できたのは翌週ですよ。実質3日の作画作業です。本当は、表現としては絵に描いたものすら必要ないんじゃないかと思う。実際は、僕が出てしゃべってもよかったんです。それでもいけるはずだったけど、さすがに拒否された。

セル画でない部分、絵コンテの絵をそのまま使ったのは、ワザとです。間に合わなかったとか、そういう問題じゃない。とにかく、セルアニメーションからの解放をめざしたんです。ただの記号論なんですよ、セルなんて。マーカーでアスカの絵が描いてあって、そこから宮村優子の声がすれば、もう十二分にアスカなんですよ。セルにこだわること自体が嫌になったんです。

かといって別にCGに行くということではない。アニメーションは表現媒体として線画だけでも機能するんだ、と言いたかったわけ。”セルじゃないから完成品じゃない”とか”セルじゃないから手抜きだ”なんて文句をつけてくるアホウな連中に何か言いたかったわけですね。

それは解放なんです。自分がもっている固定観念みたいなものを、とにかく破壊してくれと。”セル人間じゃないと人間として認識できない”というのを通り越して、フェティシズムにまでいってしまっている・・。

一番最初に試みたのは、16話で”線”にしゃべらせたときですよ。アニメーションはただの記号で構成されている物だから、最初からウソの世界でしょう。虚構なんです。誰もドキュメンタリーとは思わない。

でもフィルムの中にドキュメンタリズムを入れてみたい――というのが僕なりのライブ感覚なんです。TVアニメで記号論を破壊する方法はめずらしいでしょうね。線画が出たときに、業界の一部の人間に手抜きと言われましたが、あれを手抜きと見る時点でもうダメです。あれを”表現”として狙っていることに気づかない、というより、観念がすでに存在していない。

もっとも最終回では、ことば遊びの域を出ません。方法論としては、他にもあるんじゃないかとは思いますけれど・・」

 

一部のコアはファンからは否定論も出た26話。もちろん本来のストーリーを描かなかったという点で、フラストレーションを感じたファンがいるのも事実だろう。パソコン通信などではストレートな”口撃”も多いと聞く。しかし一方で、この最終話が「エヴァ」の最高視聴率を記録し、普段アニメを見ない視聴者から”エヴァンゲリオンてすごいですね!”という声が届くのもまた事実である。

 

「パソ通やってる人間は頭が堅い人、多いです。自分の部屋で閉塞してやっているのに、全世界に広がっているイメージをもってしまう。でも、それって”情報”でしかないんですよ。検証する方法もない情報なのに、すべてをわかったような気になってしまう。その心地よさが落とし穴なんです。それに、情報に対する価値観までがマヒしてしまっていますね。

あと秘匿性ですね。たとえば僕の名前を出して”庵野なんか死んでしまえ”と言いますよね。僕が横にいたらそいつを殴るかもしれないわけです。こういうことを言ったらパソ通では反論が来るでしょうけど、それって”便所の落書き”でしょう。名前を書く必要がないんです。それが延々と自分の部屋で続いている。

システム的にはスゴイのに、いかんせん使っている人間がそれを使い切れていない。もちろんパソ通やっている人、全員がそうではありません。だけど、まともな人見つけるのにすごく苦労するので、僕は今パソ通にかまっている暇はない。ただ、少しは世間を知り、現実に帰れと言いたい。

たとえば25・26話がリテイクされるという話は、すでにパソ通にはガイナックスから流してある。これは正確な情報を流さないと、いいかげんな情報が一人歩きするからですが、出したら出したで”金儲け主義だ”というとんちんかんな文が来るんです。まるで経済論理がわかってないのと、そういうことを言うことが正義だと思い込んでいる自分の偽善に気づいていない。

どっちかというと「エヴァンゲリオン」にはその否定要素しかないように思えるのに(笑)。自分の発想がものすごく幼稚だと気づかないから、アニメファンがバカにされるんです。自分の部屋から出ないからですよ。安全なところにしかいない。

確かなものが何もないんですよ、アニメファンって自分の中に。だからアニメに救いを求めたりする。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という言葉じゃないけれど、町へ出ていろいろな人に接触しないと。

なぜ、僕にそれが言えるかというと、僕自身、何も自分の中にないことに気づいているからですよ。21年間ずっとアニメファンをやってきて、35歳になってようやく気づくんだから、僕もそうとうバカなんですけどね(笑)」

 

 

残念ながら誌面がつきた。聞きたいこと、語るべきことはまだまだある。NTでは今後も何回か庵野監督のことばを聞きたいと考えている。次号では別冊付録の形式で、再び監督の声を誌面に載せたいと思う。

もしあなたが監督と”対話”したいと思ったなら、NT宛にハガキか手紙でメッセージを送ってほしい。それは質問でもかまわないし、感想でも批判でもかまわない。誌面で”対話”する意識をもってさえいれば、監督はきっとそれに応えてくれるだろう(注)。

(注:この企画は、たしか実現しなかった)

 

 

 


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