エウレカセブン 京田監督のヱヴァンゲリヲン 新劇場版参加の影響について
新劇場版エヴァンゲリオン制作発表時、スタッフを見て驚いたことがひとつあった。
「打倒エヴァンゲリオン」を明言して制作されていた、「交響詩篇エウレカセブン」の京田監督が加わっていたことだ。
役割としては、画コンテの担当である。
それにしても、エウレカの京田監督が、なぜエヴァに参加?と思った。
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新劇場版に対する庵野監督の所信表明の中に、次の言葉がある。
「この10年、エヴァを超えたアニメはありませんでした。」
エヴァへのライバル意識をむき出しにしたアニメ、もしくはエヴァの影響を大きく受けたアニメは、宮崎駿監督の「もののけ姫」、富野監督の「ブレンパワード」をはじめとし、10年の間に多数あった。
そして、最後に打倒エヴァに名乗りを上げた挑戦者が、「交響詩篇エウレカセブン」であった。
庵野監督が、「この10年、エヴァを超えた作品はありませんでした」といったときも、念頭に浮かんだ最後の挑戦者が、エウレカセブンであっただろう。
さて、そのエウレカセブンの京田監督がエヴァに参加するのはどういう理由なのか?
庵野監督からみて、何かしら、エウレカのなかに、新劇場版エヴァに欲しい要素があって、わざわざスタッフに呼んだのだろうか?。
あったとすれば、どういう点だろうか?
私には、エウレカセブンとは、エヴァを真似していろいろ詰め込んだものの、コアがないために力を持てなかった作品というイメージだったからだ。
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ここで、エウレカに対する個人的な感想を少し書く。
私は、何度もエウレカセブンについての気合を入れた応援ホームページを作ろうかとも考えたが、悩んだ末にやめた。
(参考)私の、エウレカセブン放映開始時と終了時のブログ
エウレカセブンのビジネスモデルと感想・・放映開始時
エウレカセブンの感想・・放映終了時
なぜか?
エウレカセブンは売れ線要素をたくさん詰め込んだ作品だったと思う。
明らかにヒットさせることを狙っていたし、とくに、トラパー等の設定や、大空を翔る疾走感、Ray=Out等の設定は斬新だった。
また、エヴァがキリスト教系神秘主義のキーワードを散らばメタのに対し、エウレカは仏教系で勝負していた。
オタク的視点からすると、エヴァが永井豪系諸作品(マジン・サーガ、デビルマン等)を下敷きにしていたのに対し、エウレカはターンエーガンダムを意識していたのではないかと思う。
印象的な演出もいろいろあった。
ただし、ストーリーとしての骨格や、各キャラの思いに、何か深さが足りない気がした。
ひとことで言うならば、頭で考えて話を作っている気がした。
たとえば、こんな感じである。
・基本は少年と少女の出会いをベースとした、ハッピーエンドのいい話にしよう。
・各キャラには、それぞれコンプレックスを設定しよう。そしえ、エヴァみたく、心象風景シーンをいれよう。
・斬新な世界観を設定し、かっこいいロボットを導入し、美少女を登場させて・・
・エヴァのように、謎と予想外の展開をいれよう・・
などなど・・。
売れ線要素を多数入れているのはわかったが、これらを内奥で結びつける、コアが、私には最後まで見えなかった。
そのためか、シナリオによって面白かったりそうでなかったりしたし、かつ、それが脚本家にも依存していないようだった。
誰の責任とは単純には言えないが、最終的には、全ての責任としては監督にくるだろう。
その意味で言えば、監督のコアが見えなかったのである。
例えば、少年と少女を描いた作品として、天空の城ラピュタがある。
これは、単純に見てしまえば、いい話だが、その中には何重に渡って宮崎監督の苦しみや悩み、コンプレックスが盛り込まれ、それが一見誰にも気づかれないレベルに昇華されているからこそ、コアを持った名作になっているのだと思う。
(参考)天空の城ラピュタ論
エヴァもそうである。ごった煮のようだが、あらゆる面で監督の個性が刻印されている。
(参考)エヴァンゲリオンのオリジナルについて
そのような、コアがエウレカセブンでは見えなかった。
そのために、ひとつひとつの演出や設定が、場当たり的な感じを受けた。
ホランドと兄との葛藤も、後半になってから唐突に出てきた感じで消化不良であった。
本当に、スタッフの誰かの強烈な兄弟コンプレックスがコアになっているというよりは、「兄弟もの」という売れ線要素をひとつ追加した
かったように見えてしまった。
また、エウレカセブンの発想の起源は、子どもを連れた少女というイメージのようだが、自分の親を殺した少女になつく子ども達というの
は、私には、これも子どもがいない人の発想にしか思えなかった。これは事情が違うかもしれないが、体感よりも頭で考えた面白い設定を
優先させている一例である。
親がいないレントンの設定にも、宮崎監督や庵野監督のように、自分の少年時代からのさまざまな思いをぶつけたり、昇華したりしてると
いうよりは、「親がいなくても明るく頑張っている少年」というお決まりの設定が欲しいだけに見えた。
京田監督は、ホランドに思い入れしていたようである。
私は、同世代の人間として、ホランドの感覚は非常によくわかった。
コアになりそうだったのは、おそらく主人公レントンではなく、ホランドだった。
30代後半となり、第一線としては、世代交代の波にもまれる年齢。彼の焦燥感には、オリジナルで、コアなものが感じられた。
だが、兄との葛藤、タルホ含めた関係、レントンやエウレカへの視線、レイやチャールズとの関係、どれもが、仄めかしだけで終わってしまい、物語全体の核としての展開が不十分であった。いらつきだけが目立つキャラとなっていた。
少年少女ものというテーマが先にあったため、ホランドの焦燥感を詳しく説明するのを、意図的に抑え、結果として、焦燥感と仄めかしだけで、意味が不明になってしまったのだろうか?
もしかすると、一般に、本当に監督のコアなものが出る部分というのは、本人にとっては当たり前すぎ、十分に説明した気になって、意味が伝わりにくいのかもしれない。
エヴァにおける父子の感覚、宮崎アニメにおける母的な少女の存在、富野作品における登場人物の漂流感やいらつきなど。
私としては、少年少女の物語だからと遠慮せず、売れ線要素を継ぎ足すよりも、ホランドのストーリーを背景含めて展開し、もっと語らせ、ダイレクトに監督の個性を刻印しても良かったのではないかと思う。
自分のコアを全面に展開しなかったのは、遠慮なのか、職人気質なのか。
エウレカに限らず、京田監督のインタビューなどを見ていても思うのだが、「この作品の続編は?」と聞かれても、「会社に聞いてください」という回答が多い。
いろいろ事情はあるのだろうが、富野監督や宮崎監督や庵野監督が、一度だってそんな回答をしたことがあるだろうか?
彼らは、先にスタッフがいて、設定ができあがっていた作品ですら、自分の個性をこれ以上なく刻印してしまうのが通例ではなかったか?
(富野監督のイデオン、宮崎監督のルパン三世など:(参考)宮崎駿監督のルパン三世への愛と決別)
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話を、新劇場版エヴァに戻そう。
庵野監督が京田監督をスタッフに呼んだとすれば、どういう点を評価したのだろうかと考えた。
逆に、もうひとつの可能性として、京田監督の方から、新劇場版エヴァのスタッフに志願した可能性もあると考えた。
エヴァ越えを目指しながらエヴァを超えられなかったため、今度は逆にエヴァの制作陣として、エヴァ制作の秘密を探ろうという可能性である。
ところが、新劇場版ガイドブックを見て、驚いた。
京田監督によれば、参加の経緯はこうである。
「アニメーションプロデューサーの小笠原さんは「交響詩篇エウレカセブン」の制作デスクだったんで、そこから「画コンテをやらないか」と連絡があったのがきっかけです。そのころは、ちょっとアニメの仕事から距離をとりたい気持ちもあったので、どうしようかなぁと迷いつつ、話は聞いてみることにしました。」
インタビューアー:「エヴァ」というのは、メガヒットした特別な作品でもあります。その作品から声がかかるというのはどんな気分でしたか?
「そこについては特に感想はありません。画コンテを引き受ける引き受けないは別にして「話を聞いてみようかな」と思ったのは、「エヴァうんぬん」より庵野さんに興味があったからです。僕はそもそもアニメーターとしての庵野さんの大ファンなんですよ。マニアックな話になりますけど、「メガゾーン23」で庵野さんが原画を担当した、飛行メカ・フラッガとガーランドが戦うシーンはタイミングがもう絶品で、いまだに庵野さんの最高傑作だと信じてるので(笑)。」
つまり、エウレカがエヴァ越えを目指して失敗した経緯は関係ないということである。
庵野監督が、エウレカを評価して呼び込んだわけでもない。
京田監督が、強く希望したわけでもないようだ。
たまたま共通の関係者がおり、京田監督はアニメーターとしての庵野さんを好きだったから、参加したという。
しかし、本当だろうか?
子どもの頃からアニメの監督になるのが夢だった京田監督が、あえて、アニメから離れようとしたのは、生半可な理由ではないはずだ。
京田監督としては、エウレカが不発となり、エヴァに大敗した影響もあって、「アニメの仕事から距離をとりたい気持ちもあった」のではないか?
しかし、それでもあえてアニメに残ったのは、よりによって、目標としていたエヴァが再開され、しかもスタッフとして加わるチャンスがあったからではないか?
その動機は、ライバルであるエヴァが、どのようにして制作されているのか、自分の監督手法との違いを知りたいからということ以外に、あってはならないと思うし、実際そうだろう。
エヴァに大きく影響を与え、京田監督も最も好きなアニメだというイデオンを使って例えてみれば、イデの秘密を知りたさに、恥を忍んで 、これまで戦ってきた敵側に寝返ったギジェのようなものだろう(京田監督の場合は別に恥ではありませんが)。
以下、ギジェの言葉を引用。「イデ」、「イデオン」という単語は「エヴァ」に読み替えてください。
「私は、あまりにも失敗を重ねすぎた。しかし、巨人・・イデオンと闘えば闘うほど、私はイデのこと、イデオンのことが知りたいのだ。
そのために生き恥をさらそうが、かまわぬ。イデの何たるかを教えて欲しいのだ。」
「オレは、破廉恥な男かも知れん」
さて、エヴァ制作では、京田監督は、どういう役割を果たしているのか。
「監督修正で、僕の画コンテは本編にほとんど残っていませんでした。趣味が合わなかったのかもしれませんね」
つまり、新劇場版については、とくに見るべき役割は果たせなかったということだ。
だが、私としては、それはどちらでもいいと思う。
京田監督が書いた画コンテが、庵野監督に気に入られるかどうかは、大きな問題ではないという気がする。
ただ、ギジェがイデオンに乗りながら、イデの秘密を探り続けたように、京田監督には、エヴァの秘密を探って欲しい。
私が思うに、エヴァとエウレカセブンの違いは、監督の個性の刻印という一点にある。
そして、それこそ、かつては庵野監督も、宮崎駿監督や富野監督の諸作品に参加しながら、学習したものではないだろうか?
庵野監督が、宮崎監督を批評した言葉を使って言えば、次の言葉である。
『紅の豚』はもうダメです。あれが宮崎さんのプライベート・フィルムみたいですけれど、ダメでした。
僕の感覚だと、パンツを脱いでいないんですよ。なんか、膝までずらしている感じはあるんですが、あとは足からパンツを抜くかどうか。
パンツを捨てて裸で踊れば、いよいよ宮崎さんは引退を決意したかなと思います。
庵野さんは毎回パンツを脱がないと気がすまないでしょう。
「自分のリアリティなんて自分しかないんですよね。うけなきゃもう裸で踊るしかない。ストリップしかないと思います。
(参考)もののけ姫とエヴァンゲリオン
私の印象はともかく、庵野監督から見たエウレカセブンは、評価する点がいろいろあったのだろう。
庵野監督は、最初の打ち合わせで、京田監督に次のような話をしたという。
「まずは庵野さんから、今のアニメ界の現状や具体的な問題点を含めていろいろとありまして、それについてはうなづくところも多かったです。
で、そのうえで、「序」の脚本を見せてもらって、同時に「新劇場版」の全体の構想を知らされたんです。構想といってもすでに確定しているわけではなく、むしろ「こうしたい」というメモのようなものでした。
最終的に参加を決めたのは、そうした話を通じて、庵野さんがどんな覚悟で「新劇場版」に取り組むことを決めたのかよくわかった、と思ったからです。
庵野さんのアニメや「新劇場版」というものに対するその覚悟と姿勢はとても本気だと思ったので。」
アニメ界の問題を説明したうえで、京田監督をスタッフにしたというのは、やはり、そこには京田監督の今後の作品への期待があるからではないだろうか。
さて、かりに、今回の新劇場版シリーズにおいて、最後まで京田監督の画コンテが採用されずに終わったとしよう。
しかし、また京田監督がアニメの監督をやることになり、その時、「エヴァを越える」と宣言したとすれば、私は、大変興味をもって、期待して見続けるだろう。
エヴァのスタッフとして参加することで、何を見たのか?
そして、それをどう作品作りに反映するのか?
京田監督は、自分の個性を刻印するよりも、スタッフの力を引き出そうとするタイプなのかもしれない。
そうであれば、必ずしも、エヴァと同じ制作手法をとることもないのかもしれない。
だが、いずれにせよ、エウレカとは異なる方法論でないと、エヴァには勝てない。
その方法論を、京田監督には、新劇場版エヴァにスタッフとして参加するなかで、見出して欲しい。
そのなかで、アニメから一度はなれることが最適だと考えれば、それもいいだろうと思う。
いずれにせよ、エウレカでは果たせなかった、打倒エヴァを実行して欲しい。
それが、エウレカがエヴァを超えるのかどうか、一年見続けたファンとしての思いである。
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さて、私は、京田監督とは、ほぼ同世代の人間である。
そして、この年齢で、アニメ界からいったん離れようとした人間を、京田監督以外に、3人知っている。
宮崎駿監督(漫画)、富野監督(プラモデル)、庵野監督(実写)。
アニメを離れようとした理由は様々だろうが、宮崎監督や富野監督は一時仕事がこなくなったようだ。(京田監督の場合はそういうわけではないだろうが。)
そして、その後に、おそらく、その挫折をバネとして、一気にブレイクしていった点でも共通している。
エウレカは失敗だったのかもしれないが、同世代の人間として、がんばって欲しいものである。
エヴァ制作の秘密を見た上で、エヴァ超えを果たして欲しい。
それこそが、新劇場版参加における、京田監督の役割だろう。