ヱヴァンゲリヲン 新劇場版 のコアとは何か
ここでは、エヴァンゲリオン新劇場版の、出来るだけ本質的な部分に焦点をあて、考察したいと思います。
庵野監督の所信表明に従い、以下のように分析のスキームを設定します。
T.エヴァの本質【繰り返し】(所信表明のなかの、「エヴァ」は繰り返しの物語です。の段落より)
U.エンターテイメント要素:(所信表明のなかの、我々の仕事はサービス業でもあります。の段落より)
@劇場用映画としての面白さ
A世界観の再構築
では、それぞれ簡単に考察します。
T.物語としての本質
「エヴァは繰り返しの物語です。とはどういうことか。
「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に逢いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
(庵野総監督所信表明より)
<TV版における繰り返しの特質>
エヴァとは、言うまでもなく、逃げることと、前向きに立ち向かうことの、繰り返しの物語です。
・子供のころ父から逃げるが、呼ばれて第三新東京にやってくる(第1話)。
・嫌になって逃げるが、また戻ってきて戦う(第4話)。
・シトに取り込まれインナースペースに入るが、復帰する(16話)。
・友人を殺しそうになりエヴァを降りるが、また戦う(第19話)。
・エヴァに取り込まれるが、復帰する(20話)。
・カヲルを殺してエヴァを拒否するが、また搭乗させられる(25話)。
・ATフィールドのない世界を作るが、もとの世界に戻る(26話)。
・アスカの首を絞めるが、なでられて泣きじゃくる(26話)。
この構造は、端的に示すと、以下の構成をとるケースが中心です。
コンプレックス(捨てられる、裏切られる)を刺激される → 逃亡 → 母のイメージ(またはエヴァ)との出会い → 生きる決意
この、エヴァにとって、最大の特徴である、「逃げること」「前向きに立ち向かうこと」の繰り返し。
これが、庵野監督が所信表明で言っている、「わずかでも前に進もうとする意思の話です。」ということです。
(この点における私の考察は、エヴァンゲリオンというメッセージ参照)
ただし、頻繁に繰り返される逃亡劇と復帰劇は、その理由が分かりづらいケースもあり、少しでも前に進んでいるのかどうか視聴者に理解
しづらく、「リセット」とまで言われておりました。
庵野監督はこの批判に対し、人間簡単に変われるものじゃないという主旨のことを言っており、それはそれで正しい意見でもあるのですが
、特に25話、26話におけるそれは、一般的には単なる後退にしか見えないものでした。
<新劇場版におけるコアの変化>
かつてのTV版では、シンジのコンプレックスを核にしてシンジは逃げ続け、戻り続けました。
今回の新劇場版では、基本構造こそ同じものの、焦点が大きく変わっています。
それは、逃げては戻るという構成が、「父親に認められたい」という思いで統一されていたことです。
新劇場版では、シンジが逃げるシーンがTV版の同じ部分(1話〜6話)より増え、3回となっていました。
1.エヴァへの登場拒否
→これは概ねTV版と同じ。ただし、エヴァがシンジを守るシーンはなくなっていた?ようであり、エヴァとシンジの特殊な絆が
不明確にしてあった。
2.逃亡(変更部分)
→tvでは、シンジが戻るのに大きな意味を持ったのはミサトとのつながりにみえた。
映画では、その部分(シンジのネルフ脱退とミサトが駅まで追いかけるシーン)はカットされ、シンジはあくまでも父親に認められ
たいために戻ったとミサトが説明している。
3.ラミエルとの戦い(追加部分)
→TVでは、ミサトは直撃を受けたエヴァを即座に戻し、シンジは弱音をレイにはくものの、すぐ戦線復帰している。
映画では、シンジ救出を優先しようとするミサトと、冷静にそれを否定するゲンドウとの対比がわざわざ追加され、ミサトがエヴァを戻すのが遅れ、シンジの苦しみは長引き、結果としてシンジはヤシマ作戦参加を拒否する。
ミサトの説得により戦線に戻るものの、1射目を外した段階で、今度はゲンドウがシンジを外すことを決断。
ミサトが今度はゲンドウを説得する(自分の子供を信じてください!)
つまり、TVと異なり、新劇場版では、ゲンドウとシンジの関係に焦点が絞られた構成になっていました。
自分を認めてほしいシンジと、子供に素直に接することができない父親。
シンジの逃亡劇と復帰劇は、全てのエピソードで、むしろ論理的に、誰にでもわかりやすく構成されています。
TV版では、シンジの行動が意味不明(毎回リセット)に見え、視聴者によって激しく感情移入する人がいる一方、現実感がないと批判も
絶えなかったのですが・・
<TVと新劇場版の本質的な違い>
さて、新劇場版のこのわかりやすさは何に起因するのでしょうか?
かつてのエヴァは、シナリオとしての論理性よりも、庵野監督の気持ちのゆらぎを忠実に反映することを重視していました。
・「今の気分が忠実に反映されています」
・「オリジナルは自分しかない」
・「庵野監督がこんなに前向きかって話になりました」
それが、様々な先行作品のおいしい所をゴッタ煮的につめこんだエヴァンゲリオンという作品の、最大のオリジナリティ発揮ポイントだったのです。
その結果、どのキャラクターも最終的には庵野監督自身に収斂し、わかる人にはわかるが、タイプの違う人には理解できない様々なシーンが生まれました。
(私のエヴァのオリジナル論についてはエヴァンゲリオンのオリジナルについて参照)
今回の映画は、このような不安定感をなくし、気分の反映よりも「父と子」の葛藤を一貫して核とした、誰にでも納得できるわかりやすい 、見事な構成となっています。
ただし、それは、かつてのエヴァが持っていた方法論を捨てるものであり、かつ、一部に熱狂的なコアなファンを生んだ、わかる人にしか分からない不安定感をなくしたものかもしれません。
このような製作上の方法論の変更については、今回の映画の製作者達も以下のように指摘しています。
鶴巻「TV版のころ、庵野さんは「ストーリー上の嘘をつかない」ことを突き詰めたんだと、僕は思うんです。その結果、シンジはどんどん戦わなくなってしまった。やはり「シンジをロボットに乗せて、敵に勝った!アスカと大喜び」というストーリーは簡単だけど、実際はありえない。嘘になる。だから、そういうストーリーにしなかった。でも10年を経て、自分があって世界があり、世界があって自分があるという関係を描こうとしている。今回は客観的な世界が描かれるんじゃないかと僕は期待しているんだけど。」
貞本「シンジはもっと後ろ向きな部分が大きかったんですが、今回はわりと熱血になっている気もする。」
(ニュータイプ10月号より)
また、今回のように論理的な構成になったことで、少しづつシンジが前向きに前進していることがわかるようになっています。
これは、例えば、逃げだした後戻ったのは父親に認めたいからだとミサトが説明しているように、シンジの気持ちがはっきりしているため
です。
これこそ、所信表明で庵野監督が言っていた、少しづつでも前に進もうとする物語です、ということを、わかりやすく表現しようとしたということでしょう。
このことには、漫画版の貞本エヴァにおける、シンジの前向きな性格が多少反映されている面もあるでしょう。
鶴巻 「庵野さんは漫画版も参考にしていると思いますよ。漫画版はアニメの展開を見越したうえで作っているので、すごくまとまっていますから」
貞本「シンジはもっと後ろ向きな部分が大きかったんですが、今回はわりと熱血になっている気もする。」
(ニュータイプ10月号より)
シンジの性格の変化とあわせて、根本的な変化のひとつは、シンジの他者への視線や、目的意識です。
今回、早くもミサトが地下の巨人をみせ、皆が命がけで頑張っていることを説明し、シンジの行動を促します。
シンジは、周囲の目的意識と、自分自身の目的意識(父に認められたい)も重ね合わせ、自ら行動します。
TV版では、最後まで、シンジが自分が戦う意味を見出せなかったことを考えると、大きな変化です。
鶴巻「10年を経て、自分があって世界があり、世界があって自分があるという関係を描こうとしている。今回は客観的な世界が描かれるんじゃないかと僕は期待しているんだけど。」
「最終回の印象が強いから、シンジは内向的な人間だという印象があるけど、TV版でも第六話までは自分だけの世界じゃなくて、外の世界もちゃんと描いているんです。」
このようなシンジの性格の変化は、エヴァンゲリオンという作品の本質である、庵野監督と主人公のシンクロという観点からも理解することができます。
前回の映画版は、もともとTV版で完結と考え、かつ、力尽きていた庵野監督が、いやいや作ったものでした。
今回の劇場版は、庵野監督が自分から言い出して作ったものです。(by大月プロデューサー)
シンジの前向きなスタンスは、庵野監督自身が新劇場版に向け意欲を燃やしていることの反映ともいえるでしょう。
気分の忠実な反映というエヴァの方法論は、本質的なところでは生き残っているのかもしれません。
<シンジの変化のポイント>
さて、このような「序」におけるシンジの変化は、物語全編に対し、どのような意味を持つのでしょうか?
既に以下の3点で根本的な変化があったことがわかります。
1.エヴァの製作の方法論
2.作品テーマであるシンジの「繰り返し」のあり方
3.シンジから他者への視線
4.庵野監督のスタンス
言うまでもなく、この4点は大きく結びついています。
製作の方法論 | テーマ:シンジの繰り返し | シンジの他者への視線 | 庵野監督のスタンス | |
---|---|---|---|---|
前作 | 気分の忠実な表現 | 捨てられたコンプレックスからの不安 | 自分の気持ち中心 | いやいや製作、消極的 |
新劇場版 | 客観的なわかりやすさ | 父に認められること | 他者の目的を理解 | 自ら言い出して製作 |
特に、「THE END OF EVANGELION」の下記3度の「繰り返し」は、上記の4点の特徴が結びついてこそ、ありえた展開でした。
・エヴァ登場を拒否するが、また搭乗させられる(映画25話)。
・ATフィールドのない世界を作るが、もとの世界に戻る(映画26話)。
・アスカの首を絞めるが、なでられて泣きじゃくる(映画26話)。
新劇場版では、これらのシーンは無くなるか、根本的に異なるものになることは間違いないでしょう。
また、エヴァンゲリオンという作品に対する解釈としては、シンジの目的意識の不明確さに積極的な意義を見出していた、例えば私のシトの血はなぜ青いのか。そして、シンジはなぜ戦わなかったのか
のような解釈は排除されたと言えるでしょう。
そのことは、BLOOD TYPE BLUEという表現はなくなり、使途の血も赤になり、パターン青と、日本語表記になったこととも
関係しているような気もします。
<ビジネスモデルの変化との関係>
気分の反映よりも論理的なシナリオとなった結果、シンジの「繰り返し」も気分的なものから論理的なものになり、戦う目的も明確化された新劇場版エヴァンゲリオン。
謎の解釈については、あくまでエンターテイメントとして、いろいろ楽しませてくれる要素が次々と出ていますが、物語の本質的な部分については、誰にでもわかりやすく、楽しめるものになりそうです。
このことは、エヴァンゲリオンのビジネスモデルの変更自体とも関係しているのでしょう。
かつてのエヴァは、経済効果300億円といわれながらも、市場としてはごく一部のセグメントに依存していたと思います。
今回、大月プロデューサーも、庵野監督も、新たなターゲットとして中高生をあげています。
「本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。」
(庵野総監督所信表明より)
大月「具体的には、『エヴァ』のヒット以降、アニメ業界では作品の質じゃなくて、すべて売上の数字で判断されるようになってしまった。その結果、本来の顧客であるはずの中高生を置き去りにして、お金を落としてくれる30代のマニアへ向けた「萌え」アニメが深夜枠を中心に氾濫している。
これが現状です。でも今年、「涼宮ハルヒの憂鬱」っていう「学園萌え」の決定版が出ちゃったんで、もうDVDの売上的にはピーク、あとは下がるだけでしょうね。このままでは、アニメに未来はない。なぜかというと、今の中高生はアニメなんか馬鹿にしちゃって、見ていないからです。本来アニメは、子供にみてもらうものじゃないですか。」
(大月プロデューサーインタビューより)
以前のように、庵野監督と性格が近い人には異常に「わかる」が、そうでない人には非現実的に見えるキャラクターよりも、親子関係で緊張が生じやすい中高生からみて、誰にでも理解しやすいキャラクター造形となっています。
そうなると、「破」以降の展開も、最大の見所は、シンジが逃げては戻る繰り返しの物語が、映画版では父と息子の関係に焦点を絞ったことで、どのような変化をとげるのか。それこそが、映画版エヴァンゲリオン最大の見所といっていいでしょう。
U.エンターテイメント要素
最後に、我々の仕事はサービス業でもあります。
当然ながら、エヴァンゲリオンを知らない人たちが触れやすいよう、劇場用映画として面白さを凝縮し、世界観を再構築し、誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します。
(庵野総監督所信表明より)
@劇場用映画としての面白さ
画質・音質とも非常に向上しています。
映像そのものは、TVと同じ展開のところでも全て作り直したのは、昨年やったZガンダムのように、新旧2つの画質が混在することを避
けたためでしょう。
なお、以下、どれほど劇場用の画面を作るのに苦労していたのか、ニュータイプ誌(10月号)のインタビューから抜粋します。
鶴牧「みんなTV版の映像をきれいにして編集でつなげていくことで、TV版全26話と劇場版2本がわかるような3本の総編集をつくるつもりだったんだと思うんです。だけど、やっぱり絵がきれいになりきらなかったんですよね。TV版の16ミリの絵は現在のデジタル技術をもってしても、劇場版のクオリティには到底なりえなかった。そこが分岐点だったのかな。」
「劇場版にするためには、絵から作り直すしかなかった。どうせつくり直すならお話から・・ということだったんです。「序」だけを見ると、大きくつくり直しているとは気づかないかもしれないけど。」
貞本「CGの部分が新しくて、作画の部分はどちらかというとリテイク的な考え方ですね。」
鶴牧「(ヤシマ作戦)あのシーンは樋口さんのコンテの影響が大きいかもしれません。「日本沈没」の監督ですから(笑)」
「車両関係などの「硬いメカが固く動く」シーンは3DCGを使っています。庵野さんの絵づくりは意外なことに3DCGと相性がいいんです。もともと「王立宇宙軍 オネアミスの翼」で飛行機の固い動きをアニメーションで手描きで描いていた人ですから」
庵野さんが実写映画から「エヴァンゲリオン 新劇場版にもってきたいちばん大きい要素が「鉄道」ですよ(笑)。「式日」でもNゲージを撮影していましたし。鉄道を手描きで描くのが大変だし、3DCGで描きたいと思ったんでしょうね。」
「3DCGとしては特撮のミニチュアのように使いたいというアイデアがありました。目の前に3DCGの建物を並べて、奥にエヴァンゲリオンを立たせるように、レイアウトを含めてわざと特徴的に配置してあったり、車もミニカーのような軽さを出していたり・・」
「個人的には3DCGだけでなくデジタル撮影の効果も大きいと思っています。夜にエヴァンゲリオンが蛍光色に輝いているシーンはデジタル撮影のようさを象徴していたシーンですね。今までの光学撮影だとどうしてもできなかった表現が、デジタル撮影だとモニターを見ながらトライ&エラーできる。庵野さんも製作末期の一ヶ月は撮影監督の横にいました。」
確かに、圧倒的な画質+描きこみでしたが、私自身が映画館ならではの魅力というのを感じたのは、むしろ「音」でした。そのへんの話も聞きたいものです。
また、TV版とほぼ同じ部分でも、細かい演出のパワーアップははさまざまに散りばめられ、ダイナミックになっていました。
とくに、第三新東京市が、TVとは別物と言えるほど「迎撃要塞都市」の名に相応しくなっていた点や、ラミエルとの戦いなどは、映画版ならではの魅力でしょう。
A世界観の再構築
リリスとの契約、巨人、カヲルの早期登場、・・などなど、TV版を熟知している人にも興味深い多くの謎が仕掛けられています。
TV版の謎を整合性つけて再整理したというよりも、映画版用に、観客の関心をひっぱるように謎の展開を作り直したという感じが強いです。
TV版では中盤の目玉であった地下の巨人の存在、終盤の目玉であったカヲルの存在などが、早くも「序」から出てくるという急ピッチな展開。
今後、TV版とは大きく異なる展開になることがはっきりと示されているようなものなので、とても楽しみです。
また、TV版と異なり、ある程度最後まで世界観の謎も考えられたうえで、今回小出しにされている感じがするので、明確に「エンターテイメント要素」と定義されていることもあり、いろいろな仕掛けがありそうです。
3.最後に
新劇場版「序」はTVと非常に近い展開ですが、それでも、以下3点で大きく異なっていました。
・繰り返し
・劇場ならではの魅力
・世界観の再構成
新劇場版は、序を見ればわかるように、今後大きく展開を変えていきます。
鶴牧 劇場版にするためには、絵からつくりなおすしかなかった。どうせつくり直すならお話から・・・ということだったんです。
「序」だけを見ると、大きくつくり直しているとは気づかないかもしれないけど。
貞本 「新劇場版」全体の物語をチラッと聞いたのですが、その変化が楽しみです。ただのリビルドにはならないでしょう。
(ニュータイプ10月号より)
あくまでも庵野監督の気分を忠実に再現しようとしていた前回のエヴァンゲリオンと、全体構成からシンジの目的意識・コンプレックスまで論理的に表現された新劇場版。
この2つの製作方法論の背景には、前回の映画をいやいや製作した庵野監督と、今回、自ら進んで製作した庵の監督という「気分」の違いが重なります。
端的に表現すれば、旧作と新作のコアにおける根本的な違いは以下の表に集約されるでしょう。
前回の映画版 | 今回の新劇場版 | |
---|---|---|
庵野監督のスタンス | いやいや製作 | 自分から前向きに製作 |
製作の方法論 | 自分の気持ちを忠実に表現 | 客観的・論理的にわかりやすい表現 |
この、庵野監督の気分と、製作方法論の違いが、物語にどれほど異なる結果をもたらすのかが、新劇場版の最大の見所であり、コアであるはずです。
この違いに比べれば、謎の追加・変更など、観客の関心をひっぱるエンターテイメント要素にすぎません。
この論文では、あくまでもこのコアにこだわり、新劇場版の展開を見守っていきたいと思います。