本稿は、根拠のまったくない、単なる推測です。 推測の材料は、テレビ放映版、映画版、コミック版など、ガイナックスから出版されたものに基づいているつもりですが、ゲーム版などをすべてやり込んだわけではないので、ひょっとしたら一発でひっくり返ってしまうかもしれません。

あと、どこかの雑誌の記述に「もっと深く哲学的な意図があるにはあるが、それは墓場まで持っていく」といったような内容の監督自身の発言があり、それを想像した結果、以下の考えに至ったものではあります。

哲学的考察ができたとは思っていませんが。しかしその発言を掲載した雑誌が奥の方に行ってしまい、いま確認できないです。おそらくお持ちであろうと思いますし、失礼とは思いつつ要するにテキトーに書いたもの、忘れないように書き留めたメモ程度ですので、引用もかなりうろおぼえ。ご容赦ください。

「おたく」「おたくカルチャー」などについては文中未定義。重ね重ね、本当に申しわけありません。さらにメタフィクションというものについて詳しくないので、用語などがわかりませんでした。

 

 

庵野秀明が「選択しうる世界」の物語を創造した動機の考察

 

 

庵野秀明は、自他共に認めるいわゆる「おたく」である。おたくの心理を知るゆえの配慮と苦悩が「エヴァンゲリオン」作中には見て取れた。過去のアニメ作品からの引用も語られがちであるが、ここではおたくカルチャーの代表として「トミノヨシユキ」「機動戦士ガンダム」シリーズとの関連を見てみたい。

富野はもちろん「機動戦士ガンダム」の監督である。庵野はおたくなので当然「ガンダム」にも詳しく(MS-06のことを、モビルスーツ・ザクではなくザク・モビルスーツと呼んでいた。好きなんだなあとちょっと笑った)、それだけではなくたしか「逆襲のシャア」に参加しているはずで、ファンであると同時にスタッフでもあるという、おたくなら誰もがうらやむような境遇である。

当初富野が構想していたガンダムの物語世界=宇宙世紀は、一年戦争とともに終わるはずであったが(途中打ち切りだし)、バンダイから発売のプラモデルが好調だったために続編の「ゼータ」が制作されたという経緯がある。その後もシリーズは(創造者・富野の意志に反し)「ターンエー」まで20年も続くという、アニメ界のモンスター的存在になったのは、万人が知るとおりである(ターンエーはおそらくエヴァンゲリオンへの返辞であろう)。

おたくとは厄介なもので(念為・想像ですが)、自分の世界を他人と共有したく希望していると同時に、踏み込まれたくないわがままさを併せ持つ。富野を創造主とするガンダムの物語世界が富野の意志から逸脱し、勝手に続編などが製作される苦悩が、庵野には我が身のように感じられたに違いない。

庵野も創造主であり(逆シャア当時はどうか知りませんが)それだけに、ガンダムという作品世界が持つ自己発展性は気になっていたと思われる。富野がおたくかどうかは別として、のちに宇宙世紀すらも飛び越え勝手に増殖するガンダム世界に苦い思いを感じていただろうことは、富野自身の手で「ターンエー」に収斂させたことを見れば確かだろう。 おたくという人種が同人誌やコミケなどで喜んで発展させるのからなのか、すぐれた作品(マスに向けられたもの)は勝手に物語世界が発展する傾向がある。

庵野はおたくだから、もちろん喜んで「ヤマト」「ウルトラマン」などを発展させていたうちの一人だった。 庵野は自分がいちファンとしておたくカルチャーの消費者であり、同時に「ファーストガンダムへの愛で作られた正統な続編」(と私が勝手に思っています)であるところの「逆シャア」では創造の一端を受け持ち、さらに自分が監督する作品に於いては文字通り神になるという事実に対し、境界を超越する者の苦悩があったのではないか。

「逆シャア」は宇宙世紀世界を(ストーリー上)終結させる役割を持った作品だったが、ガンダムシリーズがさらに拡散しようというパワーを内在していたために(というか「逆シャア」がおもしろかったのが原因?)、「逆シャア」のみで終わることはできず、ガンダム世界が宇宙世紀の外へ膨らんでいってしまうのは皮肉な事実である。 ガンダムの創造主は富野のはずなのに、全然別の人間が、続編を作り続けている。

拡散の末端部分では、富野が創造主であると言えるのだろうか。新しいファンは、「W」からしか知らなかったりする。じゃあ「パーフェクトガンダム」は? しかしそれすらもサンライズオフィシャルなのだ。そんなガンダム世界を、外と内から眺めた庵野は、勝手に拡散する世界に、最後まで神として在り続ける手段を考えた。ゲーム化、コミック化、映画化、また実写版の企画も誰か考えたに違いない(オーディションに参加したという子の噂を聞いた)、そして自分のホームグラウンドである「コミケ」「アニパロ(古語)」、庵野自身は関係ないだろうが「やおい」など、ガイナックス印で自分が制作したアニメが、ガンダムと同じ道をたどるであろうことは、火を見るより明らかだ(「脱衣麻雀」も)。エヴァ当時、キングレコードが「20世紀中はエヴァで」食っていく宣言をしたような話も耳にした。

それだけに。 「エヴァンゲリオン」だけは「ナディア」の映画版のように悲惨な末路をたどらせたくない! おそらく、そんな動機だったろうと思う。 だから庵野は、エヴァンゲリオンをメタフィクションにした。 「終わる世界」で、庵野が作ったオリジナルのエヴァンゲリオン世界は終わる。世界は終わるがストーリーが途中なので非難を浴びることになった。だがシンジの内面世界を描き、そのとき世界がどうなっているか、客観的描写をしなかった理由があった。

テレビ版の弐拾伍話および最終話と、第弐拾四話までとは、違う世界の話なのだ。正確に言うと、弐拾伍話および最終話は、第壱話から第弐拾四話までを内包する、ひとつ上位の階層にある(このあたり庵野がガンダム世界の境界を越えたことと呼応する?)。弐拾伍話および最終話では、それまでの世界がすでになくなっているのだから(「終わる世界」と明示してあるのだから、終わっているのだ)シンジの心象風景しかあり得ない(もしくは劇場版の実写パートも、同じく上位階層に存在するはず)。

創造主である庵野がシンジを神にしたから(劇場版26話)、シンジは上の階層に上がることができた。そしてシンジは、自分が望む世界はどんなものだろうと思いあぐねる(テレビ版弐拾六話)。その選択肢には「学園編」もあった。「学園編」は第壱話から第弐拾四話までの「オリジナルのエヴァンゲリオン世界」のそばを流れるパラレルワールドとも言える。第壱話から第弐拾四話までの「オリジナルのエヴァンゲリオン世界」と「学園編」は、同じ階層の別世界である。そして、おたくが考え、同人誌にありそうなサイドストーリーのようでもある。弐拾伍話および最終話から見れば、等しくシンジが選択可能な世界のカタチとして等価である。

さらに言えば、コミケに並ぶエヴァ同人誌のすべて、サイドストーリーを好意的に作る(捏造する)ものから、エロパロやおい、ガイナックス印の脱衣麻雀も含め、シンジが選択可能だった世界のうちのひとつなのだ。庵野は(嫌だろうけど)創造主の「責任」としてエヴァンゲリオンから派生するすべての世界を許容し、その世界それぞれの神として存在することにした。さらに観客の心にある勝手なエヴァ解釈の中にまで、神として存在することになりはしないか。

「君ら観客は、こんな世界を選ぶのかい?」 「学園編」は、おたく(とくに悪いオタクども)に対するアイロニーであり、また渋々ながらも「アニパロ」「コミケ」「同人誌」を許容する宣言でもある。もしかしたらシンジが、そんな世界を願う可能性だってあったからだ。許容と赦しが同じものなのかわからないが、赦しを行うのは神である。これによって庵野はエヴァンゲリオン作品世界の神で在り続けることができるのだ。 だからこそ現実世界の庵野は、ブームによってカリスマ的存在になってしまったのかもしれない。 勝手な推測だが、これこそ庵野の言う「墓場まで持っていく真相」ではないか。

こう考えることにより「ラスト意味わかんないっス」「庵野死ね」などと大評判だったテレビ版のラスト2週と、わざわざ同じテーマの劇場版が作られたことにも納得がいく。Yasuakiさんがおっしゃるとおり両者は同じものであり、そこだけは変えることはできなかったのだ。 最終的にシンジはアスカという他者を希望した。苦痛とともに生きていくことを。劇場版の終末は、この上もないハッピーエンドだったと心の底から思う。というか、そう思わなければ気が狂いそうだ。 「ガンバスター」「王立宇宙軍」「ナディア」などに関連性を見いだせることが、この思いつきのヒントにもなった(実際、つながってる世界なんですよね?よく知りませんが)。

蛇足。富野にとっては「ターンエー」もそうだが大塚ギチの「フォー・ザ・バレル」が救済なのかもしれない。はたまた供養かもしれない。 東京ファンタスティック映画祭で「式日」の上映後、庵野秀明は観客からの質問に答えていた。質問者はなんだかエヴァンゲリオンとの関連に興味があったようで、苦笑いをしながら庵野は答えていた。どんな心境だったろう。ファンとして劇場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだった。文中敬称略

 


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