よく問題となる四つの謎

どこかのサイトで「エヴァは全体として創世記を元にストーリー構成されているが、補完計画だけは黙示録からで、そこに不明瞭さを感じる」というのを読んだことがあります。

全く「別の要素」を一つのストーリーに混ぜ合わせることはその実際において、ビーカーの中で幾種類かの液体を混ぜ合わせるのとは訳が違い、大変な困難を伴うのだろうと思います。

エヴァという作品は庵野監督という「人」が作ったものですから、神の作ったもののように完璧ではない。しかしそこにヒントがある。で、そういう不明瞭さ、違和感を感じさせてまで補完計画を盛り込んだのは、創世記と黙示録が「別の要素」ということではなく、もう一回り広げて見た、聖書に絡む謎解きを中心とするサイドと拮抗する、「心の問題」サイドがそれを必要としたためだと思うのです。

では補完計画とは何だったのか、それはシンジの「誰も僕のことを分かってくれない」という気持ちに対して、じゃあ隅々までとことん自分のことが相手に分かるように、自分の心が相手に丸見えだったらどうなるのか、やって見せてあげようではないか、というのが補完だと、そう考えます。

そもそも自分がマスターベーションの最中に誰をオカズにしているかなんて、絶対に自分にしか分かりっこありません。これほどプライベートなことがあるでしょうか。しかし自分の心が相手に丸見えなために、相手にそれが分かってしまうのが補完状態なのです。シンジでなくっても、そのオカズにした本人にあんな風になじられれば、たとえ逆上してもおかしくないではありませんか。だからシンジはアスカの首を絞めた。自分が一番知られたくない恥ずかしいことを一番知られたくない相手に知られ、その上嘲笑されたのですから、逆上したのはある意味当然です。しいていえば人にもよるでしょうが、逆上する人がいても何の不思議もありません。我々だって日常の人間関係において、これ以上言ったら相手を傷つけるな、あるいはひょっとして逆上させるかも知れないな、だからたとえ自分が心でそう思っても表現せずに自分の心にしまっておこう、などとするのは良くあることではありませんか。

ところがそれがすべて相手に見えてしまうのが補完状態なのです。つまり補完は失敗でした。シンジもそれを否定します。そして「補完って何か違う」とレイに告げながらシンジが見ていたものは、ミサトのペンダントです。ここで思い出すのはミサトの「ヤマアラシのジレンマ」です。つまり、誰も自分のことを分かってくれないとか、ひたすら誰かを傷つけるのが怖くて仕方ないシンジというのは、ヤマアラシ同士がとても距離を置いて離れた状態、それに対して補完状態は、近づきすぎて相手をとことん傷つける状態、どちらもダメなんだ、ミサトが言うように、近づきすぎず離れすぎず、その時々の状況に応じて常にちょうどいい距離を見つけるのが大人になることなんだと分かりかけてきたシンジ、そのシンジこそ、大人へと成長してきたシンジなんだと、このように捉えると、最終回の最後にふさわしい気がするのです。以上が私の考える「補完とは何か」と「何故シンジはアスカの首を絞めたのか」です。

次にレイです。レイについてはなかなか統一した見解が得られない感じがあります。それは元来、彼女が色々な役割を併せ持っているためであるからでしょうが、私があえて強調したい彼女の役割の一つは以下のようなものです。人という文字は人が支え合っているからこういう形状の文字なんだというのはよく言われることです。最近はあまり耳にしなくなりましたが、同じように、人間というのは人と人との間にあるから人間なんだ、というのも又、よく言われることです。

例えば自由という言葉は不自由な状態があるからこそ存在する言葉で、不自由が無ければ自由という言葉も意味を成しません。完全に自由なら自由と言う必要は無い。つまり不自由な状態が失くなってしまえば、自由ということも同時に失くなってしまう訳で、同じように、自分というのは、自分以外の人間や世界があって始めて存在しうるものです。

こうなると哲学になってきますし、実際イラストっぽい絵で表現されたTV版の最終回のこの辺の内容はほとんど哲学なのでしょうが、なるべく一般的な範疇において、そして最終的にはこのTV版ラストにおいて表現されていることを、「全体を通してのレイ」に視点を移して捉えたいのです。レイは最初全く自分というものがありませんでした。しかし最後は自分というものを持ち得たのです。だからこそゲンドウに反抗した。

ではどうしてレイは自分を持ち得たのか、それは回りの世界があったからです。シンジとの、「そういう時は笑えばいい」というコミュニュケーションその他を通して、除々に自分というものが形作られていく。つまり監督は、「自分というのは回りの世界によって造られるもの」というあのセリフをストーリーの中で形のあるものとして描きたかった、そのために最初は「自分がない」というパーソナリティを持ったキャラクターが必要だった、それが「レイとは何だったのか」の、私が大変重要と感じる彼女の役割です。同時に、「自分がない」という心の苦しみを持った人に対しての監督からのメッセンジャー的役割と、受け皿的な役割もあったと思う。(この受け皿的、ということは後で述べます)

 最後に「ラストの気持ち悪いの意味」ですが、これは「夢とは現実につながっているもの」というセリフを受けたものだと思います。つまりは空想に逃避をするな、逃避のための夢は本来の夢とは違うのだと、監督が催眠術を解く精神科医のごとく、パチンと指を鳴らしたのがあのセリフではないかと。

自分に馬乗りになって男の子がボロボロ泣いていれば「気持ち悪い」と感じるのが十四歳の女の子の自然な感じではないでしょうか。かつて犯罪者宮崎 努が「自分の手首の肉体的欠陥を嘲笑されたので殺した」とそのの動機を語っていたと思います。彼はその女の子に何を期待したのでしょう。男にとって都合のいい非現実的なパーソナリティを少女に持たせることは、アニメの世界では良くあることです。しかし実際のそこいら辺にいる本物の十四歳の女の子は、まだまだ心に子供らしい残酷さを残している。つまりは最後に、空想に逃避せず現実につながった夢を追いかけろ、と言いたかった故、現実の女の子が言ったごときセリフを最後に言わせたというのが私の考えです。

実際にはこれは声優さんのアドリブだったらしいですが、すると劇場版の冒頭での「五人の女性に感謝します」という監督のコメントは、ひょっとしたらそういうことも含めての言葉だったのかも知れない、などと考えるのです。

 

 

 

 


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