エヴァが作られていた当時を振り返ると、注目すべき一つの時代の流行を見ることができます。まずアメリカの流れを見ると、従来の一般的な常識や概念を打ち破ろうとした60年代後半〜70年代にかけてのフラワームーブメント、それが行き詰まった80年代、そしてその行き詰まりから脱出すべく、マーフィーの法則などに代表されるキリスト教が本来提唱していた「愛」というものや、「人の心」というもののあり方を見直すこと、それがちょうどエヴァが作られていた90年代以降のアメリカであり、例えばミスチルの歌にフロイト用語が出て来たりというように、日本でもそれに影響された様々な作品が生み出されつつあったという、一つにそんな流れを持った時代だったと思います。それを意識したかどうかは分かりませんが、従来形のSFアニメを基とするエヴァも、こういった要素をそこに盛り込んであることは今更言うまでもないことでしょう。

従来形のSFアニメと一口に言いましたが、その中で次にここで取り出したい要素とはつまり、悪循環的により強い刺激を求められ、それに応じ、その結果、時には自らをいっそう消耗品的な娯楽作品の方向へ向けてしまうことすらある甘いシロップの要素であり、それに対しこの「心の問題」という要素は、いわば苦い薬と紙一重で、もっと言い表すと、それは単なるヒューマンストーリーの枠をも超え、もっと明確に、直接的とも言える形で人々の心の問題を良い方向へ導こうとするかのようなスタイルであり、この二つを混ぜ合わせるということは云わば、別の方向性を持つものを一つにまとめ上げるということになります。ここで、西田幾多郎の哲学のあの有名な題目や、トレンデレンブルグの「運動の論理学」を引用した本荘可宗の著書などの言葉が頭をかすめます。エヴァにもいくつかの「人の造りしもの」である生命が出てきます。そしてこの作品自体も庵野監督という「人が造ったもの」です。先に挙げた賢者の言った真意と一致するとまでは言いませんが、「どれだけ大きくて、高度で、複雑な矛盾をはらみつつも、一つの作品として成り立たせ得るか」もしもそれを完璧に成しえれば、それは神の造りしもの、つまり「生命」という名の作品なのでは、などと考えるのです。そしてエヴァという作品全体に関しては、先に挙げたものや他の要素も含め、ある意味大きく矛盾する傾向を持つもの同士を、若干の製作側の苦労が見え隠れしつつも、その矛盾をそれほど感じさせず、かつおのおのが高いレベルを保ったまま同時に一つの作品中にまとめ上げているというこの点において、まずは特筆すべき素晴らしさを持っていると強く思うのです。

更には、この「心の問題」を大変高いレベルで取り込めたことが、全体を、従来のそれとはある意味全く別のものに変化させた、と言えるのではないでしょうか。この要素は明らかに全体を支配しています。なぜならこの作品は、使い捨て消耗品的な娯楽作品の枠を超えたからです。作品そのものも勿論ですが、その中で例えばキャラクターの一人一人が、随分と長い間心の中で生き続けている。単にいつまでも色々な謎が解けないからこの作品の息が長いのだと、それを理由の筆頭に考えるのには無理を感じるのです。アメリカ映画その他でやはり同じように、解けない謎を引きずる作りをした作品などありましたが、もう名前すら思い出せません。謎解きだけが魅力の作品ならとっくに息絶えているはずです。それがこの「心の問題」が大きく全体を支配していると思わせる理由の一つと成り得る、そう感じます。謎ということをもっと正確に言い表せば、宗教的側面においても心理学的側面においても、更には科学的側面においてすらも、それぞれの謎自体が最終的に「心の問題」につながっていくニュアンスがある故、この作品がいつまでも語られ続けているとも言えるのではないでしょうか。更には、クライマックス近くにおいてもこの「心の問題」サイドの比重が大変高いことを考えると、エヴァの持つものの中でメインと考えるべきものは、やはりこの辺りになるのかと思うのです。

この「心の問題」というのは奥が深く、流行であることを察知して、付け焼刃の知識だけでそれに乗ろうとしても、エヴァほど人々に受け入れられるものを作ることは出来ないでしょう。それが他の追従を許さなかった理由とも言えるでしょうし、つまりは庵野監督にしてもこの方面に大変な知識を持っていると思われますが、まずはなぜそれだけの知識を持つに至ったのか、それはやはり彼が主として自身について、長きに渡って大いに悩み苦しんだからではないでしょうか。その中で終局的には、決して単に知識だけを得たのではない。その過程と、さらにその「知識の先にあるもの」それこそがエヴァの真髄である、私にはそう感じられるのです。つまりはそうやって悩み苦しんでそれを越えてきた、そういう彼の生き様そのものがこの作品に反映されているからこそ、エヴァはこれだけ人の心を捉えているのだということです。

とはいえ、それはそれであって、実に様々な要素があるエヴァの中のどれを取り上げても、勿論まちがいとかそういうことではないでしょう。元々缶切りと栓抜きを一体化させて作った道具に関して「これは缶切りだ」「いや、これは栓抜きだ」と議論しても仕方ありません。あるいは缶切りの刃で紙を切って「これはペーパーナイフだ」とでもいう人にそれは本来でないと説明するのは中々大変なことです。しかしそういう別の使い方を模索することが悪いと決め付けることも出来ません。但しそういう中でエヴァを、ノストラダムスのようにはしたくない。何かたまたま当てはまるものを見つけると、まるで神を見たかの様な気持ちになる、そういうことがあります。勿論アサハラや自己啓発セミナーにもしたくありません。私の視点は懐疑的というか、精神医学や心理学的なスタンスも少しは併せ持っているかも知れませんが、そういう専門の方々との意見とも又違うかも知れません。どうしてこうなのか、というより、どうしてこう作ったのか、を切り口とする視点なのかも知れません。自分ではエヴァを一つの映画作品と捉えて、それに対する評論をベースにしたいと意識しているつもりです。で、よく問題となる次の四つを考えてみたいと思います。

「補完計画とは何だったのか」

「なぜシンジはアスカの首を絞めたのか」

「レイとは何だったのか」

「ラストの気持ち悪いの意味」


目次に戻る