1.仏教思想からのエヴァンゲリオン解釈

 

エヴァンゲリオンではいわゆるユダヤ、キリスト教(Judeo-Christian)からのものと

思われる要素がたくさん現れます。わたしの読んだ批評のなかでも「きわめてカルト

色の濃い世界」と書いてあったのが思い出されます。しかし、なんどか見直すうち、

仏教色の濃い話だなとの印象を強く受けました(特に劇場版2話ですが)。そこで仏

教思想のなかでエヴァンゲリオンを解釈してみようと試みたものです。成功している

かどうかは皆さんの判断に委ねることとして試してみます。最初にここでいう「仏

教」の解釈は、学生時代に読んだ津田真一博士の「反密教学」(末尾参照)に主によって

いることを断わっておきます。そして私は決して専門に学んだものではありませんの

で、それに依ることとが正しいかどうかは判断できないのですが、流布されている仏

教本のなかで文献解釈学的に最も優れたものと考えています。(いわゆるトンデモ本

でないことは確かです。)

 

はじめに疑問を述べていきましょう。

 

人類補完計画(ゼーレでも、碇のでもどちらでも)という理想は、わたしの知ってい

る限りユダヤ、キリスト教世界の文脈からは出てきません(ちなみにYasuakiさんも

ゼーレの思想の根拠について不明と考えているようです)。

また、s2機関を取り込んだ初号機を「神」と呼んでいますが、

 

神をつくってはいかん。

われわれに具象化された神は不要なんだよ。

 

ユダヤ、キリスト教のなかで「神」といえば絶対者であり万能(omnipotent)である

わけで人の形を捨てた永遠の命を「神」と呼ぶことはないでしょう。

 

補完計画の目指すところは、

 

心の、魂の補完が始まる

全てを虚無に還す

人々の補完が始まった。

 

違う虚無へ還るわけではない。

全てを始まりへ戻すに過ぎない。

この世界に失われている、母へと還るだけだ。

 

そして、また、

等しき死と祈りをもって、人々を真の姿に。

それは魂の安らぎでもある。

 

ですが、すべてを無に帰す、あるいは母へと還る、それが魂の安らぎであるというの

ですが、きわめて内向きともいえる解決方法です。

 

そしてシンジです。何度も現実から逃げ出しては決心して戻ってくる、一見進歩のな

いともいえる彼の行動。Air、End of Evangelionでの彼は酷評されているようです。

これをどう考えればいいのでしょうか

 

 

 

 

2.仏教について。

 

仏教史はその展開から小乗(上座部)、大乗、金剛乗(密教、タントラ仏教、ラマ

教)と、大きく3つに分かれ、それぞれ、南アジア、日本、チベットに主に残ってい

ます。したがって、その順序に釈迦の唱えたところと違っていくわけですが、それで

も仏教である理由は、その思想の中心に釈迦の「正等覚」の体験が置かれているから

です。なお、仏教は発祥のインドでは12世紀のイスラムの侵攻によって消えてしま

い、痕跡が残っているに過ぎないようです。

 

ここではそれらの仏教の思想の展開の順序に、補完計画、シンジの行動、ゲンドウと

ゼーレの思想を解釈していきます。そして最後にエヴァンゲリオンに表われた庵野監

督自身の思想について考察します。

 

ここで注意して欲しいのは、司馬遼太郎氏も述べていますが、浄土教(極楽、地獄の

概念と救済)を含めた日本仏教(大乗の日本的展開)は、釈迦の唱えた仏教とはまっ

たく違ったものです。したがって、いわゆる一般にいわれている仏教の印象とはかな

り違ったものであることに留意してください。

 

 

3.釈迦の悟りと補完計画。

 

一般に仏教といえば解脱、悟りといわれますが、その根拠は釈迦がたどり着いた「正

等覚」と呼ばれる「特殊なる最聖知見」からくるものです。それについて小乗である

仏典を解釈するとこうなります。引用します。

 

彼は瞑想に入り、「形なき純粋生命体」と表現する「根源なる法」としての明との神

秘的融合を果たし、そこに於いて前代未聞の真理を、まさに超越論的な真理の命題を

獲得して正等覚を成じた。

「比丘等よ、よく聴け、われ既に不死を証得せり」。(マハーヴァッガ「律臓」)

 

この「根源なる法」(サンスクリットでは女性単数)との神秘的融合により得られた

ものが、いわゆる悟り「諸法」(男性複数)が顕現したというつぎの命題です。

 

「一切諸行の寂止、一切の依の棄捨、渇愛の滅尽、離、滅、涅槃なることわり」

 

これらは、まとめると「無明の滅尽」といわれます。「無明」が動くとき「渇愛」を

起こすといわれ、その滅尽は「全仏教を通じての根本問題である」といわれます。引

用します。

 

無明には「不知」という一面と同時に、他の一面、存在論的側面が、厳然としてある。

そして、無明の真に畏るべきは、その存在論的局面にあるのである。無明は人間に

とっては、根源的生命力としての渇愛としてある。その渇愛は「愛欲」として発現し、不

断に「生」と「死」とに駆って、かくて人間を永遠に輪廻せしむるものである。

 

解釈しますと、自分が「無命」の中にいると分かった時、知らなかったという意味で

の「無明」がなくなるのですが、「無明」自体は根源的な生命力である以上、人間で

あるかぎりなくならないわけです。

司馬遼太郎氏はこう言っています。

 

解脱の前に、煩悩がある、煩悩がなければ解脱もない。そもそも煩悩というのは生命

そのもののことではないか。(「この国のかたち」)

 

この世の苦(恐れ)は渇愛(煩悩)により引き起こされ、その滅尽は「輪廻」から離

れることを意味します。その意味で不死(涅槃)でもあるわけですが、同時に個体生

命にとっては死(人間でなくなること)を意味し、「無、虚無」に還るといわれま

す。

 

また大乗仏教(華厳経)では、ここでいう「諸法」を「釈迦自身の過去の無数の生、

そして一切衆生の輪廻の生の総体」が現われたことを指すとしています。

 

明、あるいは明知は、悟りの母体とも呼ばれ、「母」に例えられます。大乗では「般

若波羅密(prajna-paramita)」(智恵)、そして大乗の完成である華厳経ではもっと

はっきりと「母胎(胎蔵)」と表現されます。さらに下って、タントラ仏教では、明

妃と名付ける若い女性(12ー16歳)と性的にヨーガすることをもって、この明と

の融合をsymbolisticに再現します。

 

つまり、仏教でいうところの「悟り」は、「形なき純粋生命体」との融合により、人

間である以上逃れなれないところの「渇愛」を捨て、(人間でなくなるという意味

で)

死をもって「無」に帰ると同時に「母」へ還ることであります。そうすると「一切衆

生の輪廻の生の総体」が現われ、「仏」(あるいは「神」でしょうか)になるわけで

す。

 

どうでしょうか。じつに補完計画と似ていると思いませんか。さらに、人間でなくな

りますが同時に「不死」となるいう面を強調するならば、これはユイの考えとも似て

きます。

 

補完はどう進行していったのでしょうか。

まず、シンジに変化があらわれます。

 

自我境界が弱体化していきます。

パイロットの反応がゼロに近づいていきます。

 

自我は「個」としての人間を作りあげているものです。その反応が弱体化していると

いうのは物体により近くなっていることを示していると考えられます。そして「反

応」、何を指しているのか具体的には述べていませんが、上の言葉を考えるなら生命

反応といってよいかと思います。つまり、シンジは「人間」でなくなったわけです。

ついでにいうと、ここでの過程はテレビ版の最終話の自我についての問答にきれいに

対応しています。

 

そして人々はレイの形をしたLilith(「母」です)に触れること(融合すること)で

LCLに変わっていきます。

 

ここでレイの台詞を考えてみます。

 

世界が悲しみに満ち満ちていく

空しさが、人々を包み込んでいく

孤独がヒトの心を埋めていくのね

 

これらのセリフは「欠けた心の補完」という言葉とは裏腹に、まったく違う事態が進

行していることを示しています。空しさがなくなるのではなく包み込んでいく、孤独

が癒されのではなく、ヒトの心を埋めていく。これらは、上にあげた「一切諸行の寂

止、一切の依の棄捨、渇愛の滅尽、離、滅」といった仏教的意味により近いものと考

えられます。

 

また、LCLの中で彼はレイと融合しますが、これは悟りの母体との融合を象徴的に表

すタントラ仏教のセクシュアルな表現と良く対応します。

 

 

 

4.大乗(華厳経)とシンジ

 

釈迦はその弟子たちに「出家」をして「無明」をなくすための梵行(ヨーガ(瞑想)

の修行)につくようにと説きます(小乗仏教、「出家主義」)。そうすることによっ

てこの一生のあいだに解脱ができる(実際は死ぬ前後ですが)といいます。しかし

ながら、社会の中で生きていく大多数の普通の人々にはこれは無理というもので、そ

こで考え出されたものが大乗仏教(「在家主義」)なわけです。これは、華厳経そし

て大日経において完成させられたものですが、ヨーガの代わりに利他行(他人のため

にすることをもって行とする)を主としています。

 

華厳経では大乗が可能であるという根拠を、釈迦が説いたところの方法である「出家

主義」にではなく、釈迦自身の解脱までの道筋に置きます。釈迦はその過去において

(輪廻を脱する前に)「愚悪なる生」を送ったのですが、その生すらも「正等覚」を

得るために必要であったと考えるわけです。引用します。

 

それと同様に、われらのこの現在の愚悪なる生も、われらが正等覚、仏、一切知者と

なること、という目標を設定するなら、われらによって生きなければならない筈であ

る、というのである。

 

華厳経ではさらに「慈悲」という原理が生まれました。これは、釈迦が自分一人だけ

解脱している状態からもどって、他の人々にも教え(「方便」、巧みなる教えと訳さ

れます)を与えた事を指しています。そして、その原理のもとに「方便」が大乗の意

味で「利他行」として解釈され、出家によるヨーガ(瞑想)の行にとって代わりま

す。

この「慈悲」に基づく「方便」と「明」(「根源の法」、「般若波羅密」「智恵」)

の融合を「菩提心」と呼び大乗仏教のキーワードとなっています。つまり、これは釈

迦が明と融合したことを新たな意味で解釈、表現したものです。

 

華厳経では、人は自分が「無明」であることを理解し、行を始めるならば、華厳世

界、

「普賢法界(普賢菩薩の行のマンダラ;Samantabhadracarya-mandala)」とよばれる

「荘厳」が現われるとしています。これは「諸法の顕現」に対応しますが、しかし、

それは、本質的に「空(実体のないもの)」であり、不断の行によって維持されるも

のであるとされます。この華厳世界のなかには、釈迦の「解脱」の境地(明との融

合)も最終到達点として含まれます。

 

釈迦の宗教が語る所の解脱の構造をもっていますが、同時に方法論としては、まっ

たく離れているといっていいでしょう。

華厳経では、「善財童子」というキャラクターを使って、この過程を示します。原文

を少し短くしながら引用します。

 

善財童子は第一の善知識文殊師利に勧発されてその求法の遍歴を開始する。文殊師利

は彼に十種大心を説く。大心(たゆまざる心)とは、正等覚の理想に至るまで持続す

る永続的な行である。善財はこの旅に於いて最終到達点を教えておらず、一人の善知

識の許に到るや、その人から善知識を教えらる、という仕方によって、いわば盲目的

に一切衆上との間にあるべき連関を一つ一つ実証しつつ、ついに最終的に第五十三番

め(無限という意味で使われています)の善知識、弥勒菩薩の居城に到達する。これ

はまさに、釈尊が永い苦悩と苦行の末、ついに悟りの母体(garbha,蔵)に合入し、

そこに「諸法が顕現した」事態に対応する。

 

善財は城の中に入り、一切菩薩たちが働き宇宙をを動かしているいるという「荘厳」

に恍惚とするのですが、弥勒はいいます。

 

「起て、善男子よ。(これらの「荘厳」は)菩薩の智恵によって加持せられたもの

(に過ぎず)、かくの如くに自性として実在ならざるは幻、夢、影像に、たとうべき

ものである。」

 

そして、善財童子は最初の文珠師利のもとにもどされ再び歩き始める(行)わけです

が、その時、その第一歩においてその荘厳が幻の如く現われます。

 

つまり華厳経をふくめ大乗仏教の核心は、この世をよく生きることが行になることで

ある考えられます。それが「荘厳」(それ自体は幻ですが)を維持しているというわ

けです。

 

 

さて、碇シンジについて、彼の言葉を追ってみます。

 

ネルフに来てから他者との関わりあいのなかで、自分が分かってきたことをこう言い

ます。

 

いろいろあったんだ、ここに来て。

来る前は先生のところにいたんだ。穏やかでなにもない日々だった。

只、そこにいるだけの

でもそれでもよかったんだ。ぼくには何もすることがなかったから

 

そしてAirでは、その自己認識がこう変化します。

 

僕はエヴァに乗るしかないと思ってた。でもそんなのごまかしだ。なにもわかってな

い僕にはエヴァに乗る価値もない。ぼくにはひとのためにできることなんて、なにも

ないんだ。

アスカにひどいことしたんだ。カヲル君も殺してしまっんだ。

やさしさなんてかけらもない。ずるくて臆病なだけだ。ぼくにはヒトを傷つけること

しかできないんだ。だからなにもしない方がいい!

 

彼がここまで絶望的になるのは、裏返せば、かれはヒトのためにしようとしたかった

のにもかかわらず、できなかったことを示しています。

 

しかしシンジはもう一度エヴァに乗ることになり、サードインパクトを引き起こし、

補完の過程のなかで、「生(愛欲)」と「死」を自分の中にまざまざと見ます。そし

て、

 

パイロットの反応がゼロに近づいていきます。

 

これは人間でなくなっていきつつあることを示しています。

 

補完が完成した時、彼はLCLの中でレイと融合しています。

その世界は他人の恐怖がない世界ですが、シンジはもとの恐怖の世界に戻ることを決

意します。

 

あそこではイヤなことしかなった気がする。

だからきっと、逃げ出しても良かったんだ。でも逃げたところにはいいことはなかっ

た。だって僕がいないもの。誰もいないのと同じだもの。

 

でも、僕のこころの中にいる君たちは、何。

 

希望なのよ。

ヒトは分かり会えるかも知れない、ということの。

 

好きだという言葉と共にね。

 

だけどそれはみせかけなんだ。

自分勝手な思い込みなんだ。

祈りみたいなものなんだ。

ずっと続くはずないんだ。

いつかは裏切られるんだ。

僕を見捨てるんだ。

でも僕はもう一度会いたいと思った。

その時の気持ちは本当だと、思うから。

 

しあわせがどこにあるのか、まだわからない。 ここにいて

産まれてきてどうだったのかはこれからも考えつづける。

だけど、それも当り前のことに何度も気付くだけなんだ。自分が自分でいるために

 

そしてシンジは、母とわかれ、もとの世界に戻ります。そして、「生」と「死」に象

徴される、彼の他人との関わりあいの旅がもう一度始まります。

 

お分かりになったでしょうか。シンジの旅は華厳経の世界によく重なります。

ネルフに来てエヴァに乗るということで、彼の旅は始まります。他人を知り自分を知

る旅ですが、それは「盲目的に一切衆上との間にあるべき連関を一つ一つ実証しつ

つ」

ある旅でもあるわけです。そして、その果てに補完の過程の中で、自分の「苦」とそ

の原因である「無明」「渇愛」(「生」と「死」です)の存在をまざまざと理解しま

す。、そして「自身の過去の無数の生、そして一切衆生の輪廻の生の総体」が、かれ

の前に現われ、人間でなくなったのちに「正等覚」の象徴としてLCLの中で彼はレイ

と融合します。(前にも述べたように、これは悟りの母体との融合を象徴的に表すタ

ントラ仏教のセクシュアルな表現と良く似ています。そしてこれは善財童子が弥勒の

居城に到ったことに重なります。)そこは、恐怖もない代わりに他人そして自分もい

ない「無」であるわけです。しかし、彼は、ゲンドウやゼーレ、そしておそらく他の

ほとんどすべての人と違い、そこの世界で得られる「人が分かりあえるという希望」

を「実在ならざるは幻、夢、影像」とします。そして「母」から別れ、再び自分を知

り他人を知るという「無明」の中の旅に出るわけです。それは、自分を最後まで拒否

したアスカの首を絞めることで象徴されます。

 

しかし、筆者の考え(あるいは希望)としては、彼のその旅は彼が始めたときの旅と

違い、善財童子が再び歩き始めたように「幻」とはいえ「希望」をもった旅となると

思います。

 

さて、エヴァンゲリオンのテレビ放送第一回目にシンジがネルフに来たとき、そし

て、End of Evangelionで、彼がもう一度現世にもどり新たな旅を始めようとするとき、

その両方においてレイが幻のようにあらわれます。

これについて解釈してみましょう。

前にも書きましたが華厳経では、人は行を始めるならば華厳世界、「普賢法界」とよ

ばれる幻覚としての「荘厳」があらわれるとされます。その「荘厳」は「明」も含ん

だものです。さらに、これも前に書きましたが、「明」は「母胎」「母」にたとえら

れます。つまり大ざっぱにいえば、華厳経では行を始めたとき、幻としての「母」が

あらわれると考えられます。

これはレイがLilithという「母」を象徴していることを考えると、ちょっと不気味な

ほど良く対応します。

 

蛇足ですが小乗、大乗という「教え」の中に出てくる「乗」は「乗り物」の意味であ

り、英語ではvehicleと訳されています。したがって、小乗(英語ではIndividual Ve

hicle)は一部の人、大乗は大勢の人(一切衆生、Universal Vehicle)を(悟りへ

と)運ぶ「乗り物」という意味があります。エヴァに「乗る」ことはシンジにとってそう

いう意味でもあったような気もします。(「小乗」であったのが、「大乗」になって

しまいましたが。)

 

 

5.ゲンドウそしてゼーレの思想。

 

次に、補完計画を推進するゼーレそして碇ゲンドウの思想について仏教の展開のなか

で最後に現われたタントラ仏教をもとに考えてみます。

碇ゲンドウは、自分の息子を捨て、赤木親子と性的関係をもち自分の計画ために奉仕

させたにも関わらず、必要がなくなったら容赦なく捨てます。一般常識からすればと

んでもない男です。かたや、ゼーレは自分たちの目的のためには、うそと作略とを巡

らし、大量死も辞さないという「気違いの集団」といってもよいわけです。しかしこ

れらは最終目的「補完計画」の遂行という理由で正当化されると考えれば、考えとし

ては成り立ちます。

 

大乗仏教は「在家」のために展開したと書きましたが、しかし、これは「三劫成仏」

とも呼ばれるように、気の遠くなるような長い時間の行を積まならければ、解脱(成

仏)できないと説かれています。そこでまた、考え出されたのが、「純粋密教」であ

るところの金剛頂経から始まるタントラ仏教で、この大乗仏教で説かれるところの気

の遠くなる程の「行」を、密教の説くシンボリズムで代替させ、「即身」で(つま

り、このままの身で即座に)成仏できるものと説きます。

 

ちょっと詳しくいうと、大乗仏教のなかで現われた「方便」を父、「般若」を母とす

るとする考えを、密経(タントラ仏教)の原理であるsymbolismによって、行者の精

液と明妃(あるいは、ダーキーニ、ヨーギーニと呼ばれる女性たち)の愛液に置き換

え、そしてそれらの融合、大乗でいう「菩堤心」を性的融合状態におけるそれらの混

合に置き換えます。つまり、釈迦の「悟り」の構造をタントリズムによる方法でなぞ

るわけです(正確にいうと華厳そして大日経から生まれたマンダラという諸尊の総体

としての「法身」との融合)。

 

しかし、これは津田博士のいうところでは結局は成功せず、結局、サンヴァラ系(チ

ベットのラマ教で重要とされます)をもって一生、行(梵行)を積むという釈迦の仏

教にもどって来るとされます(五体投地をしながら巡礼するチベット人の姿をテレビ

などでみたことがあると思いますが)。

 

タントラ仏教はなぜ成功しなかったのでしょうか。津田博士は、「生(レーベン)の

被規定性の根拠」の欠如という言葉で説明しています。 要するに、個人がそのまま

で何の修行(行を積む)こともなしに、つまり、どういう人間であってもそのまま密

教のシンボリズムを使って仏になれるということは、この教えは行者の生き方(他人

との、そして社会との)を決定するものでなくなったわけです。実際、「秘密集会タ

ントラ」から「ヘーヴァジュラタントラ」にいたる過程では、逆説的ともいえる極端

な反社会的行動が推奨されます。引用します。

 

衆上にして殺生を作し、妄語(うそをつくことです)をよろこび、他人の財物に愛著

し、常に愛欲の行を喜ぶものたち、糞尿を(聖なる)飲食とするものたち、

かれらは、実に成就法を行ずる者たるに適う。

成就を求める者にして、(自らの)母と(自らの)娘を愛欲するであろう者は、

広大の悉地に、大乗の最上の法性に到達するであろう。

(なぜなら、彼は、)遍在なる仏陀の母を愛欲しつつあるのであるから、(その愛欲

の行によって)汚されず、無分別にして(かかる行を行ずる)思慮あるその人には、

仏陀たることが成就される。

(秘密集会タントラ)

 

タントリズムについて述べますと、これは当時のインドに起こった「科学」(物事の

仕組みを考える体系)で主に人間の体に興味をおきます。(cakra「チャクラ(輪)」

という言葉をどこかで聞いた事があるかと思います。タントリズムでは「菩堤心」の

向上(どれだけ「悟りに近いか」)ということをこのチャクラの上昇によって示しま

す。)

 

つまり、タントラ仏教の目指すところは、「科学」の力を使い大乗の説くところの

「利他行」を行わずに、即身のうちに解脱する(前にも述べましたが、「形なき純粋

生命体」との融合により、人間である以上逃れなれないところの「煩悩」あるいは

「渇愛」を捨て、「無」に帰る)ところにあるわけです。その為には、他人の死、あ

るいは自己と社会のつながり等を一切考慮しなくてもよいという立場を取ります。

 

これは、補完計画をめざすために、他人の不幸を返りみることのないゲンドウの非

情ともいえる態度、あるいは「気違いの集団」ともいわれるゼーレの思想性によく似

ていると思われます。

ちなみに、金剛(vajra)乗(タントラ仏教の教え)を英語では「Apocalyptic

Vehicle」

と呼びます。(前にも記したようにVehicleはその訳語の通りに乗り物ですが、Apoca

lyptic Vehicleというと印象としてエヴァ(シリーズ)のような感じがします。

 

忌むべき存在のエヴァ。

 

ですが、「福音」という名の「解脱」をめざしたものであるのかも知れません。)

 

 

6.最後に、エヴァンゲリオンであらわれる人間性から庵野監督自身の思想について

考察してみます。

 

大日経(最後の大乗仏典、一部密経的要素が入っています)ではその最終目的(「究

境」といいます)を、釈迦の説く小乗が「不死」「涅槃」であるのに対し、「方便」

(繰り返しますが、他人を救おうという心です)であるとしています。

引用します。

 

つまり、その世界内の個々の人間がそれぞれ適切に救済されることが、われわれの理

想世界を存続せしめる目的となるのです。人間は救われねばならない。それは、神の

ためでもなく、仏のためでもない。仏教のためでもない。ただ救われる当人のために

のみ、救われねばならないのです。

今、この自分の直接目の前にいる人が救われるなら、理想も正義もいらない、という

思想ですね。近視眼的思想。

 

Yasuakiさんも分析していますが、エヴァンゲリオンの話はまったくといっていいほ

ど共同体への意識を欠いています。初めてみた人達にとっても予想外であり混乱のも

とにもなっていますが、この話は始めからこの世界を救うという、いわゆる世間的な

大義であるロボットアニメの大前提を崩したものだったわけです。

そして主人公であるシンジやその他の人々の行動は、エヴァに乗ることという意味も

含めて常に個人的な理由から起こっています。これに対して、ある種の批判があると

yasuakiさんが書かれていますが、「それぞれ適切に救済される」ことはおそらく難

しいでしょうが、大日経からすればその意味もわかってきます。そして、この大日経

の考えに対して、津田博士はこう述べています。

 

そして、この思想は、私は現代に意味をもち得ると思います。もしかしたら、人類が

到達した究極の思想のひとつかもしれない。華厳の理想は、仮構です。この思想は仮

構のまた仮構で、もはや世界の根源的在り方に根拠を下ろしていない。だから、すべ

ての超越的根拠にもとずく思想(釈迦の世界、キリスト経の世界など圧倒的な真理の

思想)に対し、「方便を究境になす」は、その絶対的無根拠の故に、敢然と立ち向か

いうる資格を有すると、私は思います。

 

これは庵野監督が何回もみたという岡本喜八監督の「沖縄戦」(「正義」の原理に基

づいた戦いへの批判)から彼が学んだものであったと考えられます。

 

 

7.最後に。

私はここで、エヴァンゲリオンは仏教思想が土台になっている、といっているわけで

ないことを最後に記しておきます。おそらく違うでしょう。しかし、仏教思想は千五

百年以上におよぶその展開のなかで非常に広範囲の思想を生みだしましたので、どん

な物語であれ仏教思想の濃い日本の土壌で生まれたものならば、それに対応するもの

があってもおかしくないと考えてこの考察を進めてみたわけです。また、エヴァンゲ

リオン(特にシンジについてですが)が反社会的、否定的な受けとめ方をされるなか

で、こんな解釈の仕方もあるというためにこれを書いたことを記しておきます。

 

P.S.

最近知りましたが、オーム真理教の機関誌は「ヴァジラヤーナ サッチャ」というそ

うですが、この「ヴァジラヤーナ」は金剛乗(Apocalyptic Vehicle)のことです。

(サッチャはなんのことか知りません)。

 

 

Reference.

「反密教学」津田真一。リプロポート発行。東京。1987. 334p.

津田真一 1938生。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒、Ph.D.(A.N.U.)、文学

博士(東京大学)。真言宗僧。

先日調べたら、絶版になっていました。惜しいですね。サンスクリット、チベット、

パーリ語と特殊な哲学用語、そしてドイツ語のルビのオンパレードですので、一般受

けするとは思いませんでしたが。彼は、続仏教用語解説(中村元 編)、そして姉妹

編である仏教経典解説(中村元 編)にも密教関係の所で書いていますが、その「即

身成仏」の解釈に対して、だいぶ伝統的な僧から批判があったようです。

 

 

 


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