・最初に

 このサイトの膨大な論考集は、エヴァンゲリオンの諸問題を改めて考察する素晴らしい契機となりました。Yasuakiさんの論考は、神話的にも、作中人物の心理についても、大変優れたものです。シンジの心理分析、庵野氏が構造を直接的に用いている作品「ブルー・クリスマス」の考察、「大日本帝国とエヴァンゲリオン」など、着眼点も多彩です。
 また、Y.Iさんの論考も、作品世界の詳細な分析に基いており、大変参考になります。

 しかし私自身考察を進めるうち、御両人の論考とは全く異なるものが浮かび上がってきました。それは宗教思想、特に人類補完計画に関する部分です。
 御両人は人類補完計画を、ある種の宗教思想の救済物語を直接的に用いていると仮定して論を進めています。それは謎本の著者を含め、この問題を考察した全てのヒトに言えることでもあります。
 これは、キリスト教的な事物「ロンギヌスの槍」「キリストの磔刑」「贖罪」や、仏教的な言辞「無へと還りたい」などに幻惑されたせいであろうと推測しますが、それでは大きな疑問が生じます。最も大きな疑問は、「全ての人々が望むと望まざるとに関わらず強制される『救済』とは一体何なのか」という事です。
 以下の私の論考は主として、この問題についての答えを提示したものです。


 論考1 ユイの思想は仏教的か?

 この問題を論ずる上で強調しておくべきは、あらゆるものの実在を否定するのが仏教であるという事である。仏教思想では、「我思うゆえに我あり」をさえ否定する。それは「迷妄に過ぎない」のである。実在論の否定、それが仏教の極意であり蘊奥である。

……人間には、「われ存在す」という自覚のあることが認められていたが、それは<われ>が実在する事を証明するものではなくて、迷妄に過ぎないと考えた。諸々の煩悩が起こるのは、「われ存在す」という思いが根底に存在するからというのであった。
……だから仏教によると、「われが存在する」という自覚は断ぜられるべきものなのである。それは、我執のもとであるからである。(中村元「インド思想の諸問題」)

 「何かが実在すると思う事は妄想に過ぎない」と認識すれば、解脱して涅槃に到る。これが仏教の救済思想である。
 しかし、ユイと冬月はこのような会話をしている。

「ヒトが神に似せてエヴァを造る。これが真の目的かね」
「はい。ヒトはこの星でしか生きられません。でも、エヴァは無限に生きられます。その中に宿る人の心と共に」
「例え、五十億年経ってこの地球も月も、太陽さえ無くしても、残りますわ。たった一人でも生きていけたら。……とても寂しいけど、生きていけるなら」
「ヒトの生きた証は、永遠に残るか……」(第26話「まごころを、君に」)

 仏教においては、「人の生きた証」などを求める事は「我執」に他ならない。我執は「煩悩」の根源であり、涅槃に到る事を妨げるものである。「無限に生きる」「その中に宿る人の心」という考え方も、仏教とは相容れない。仏教の涅槃は全くの「空」であり、我々の言うような生や死といった「妄想」を全て振り捨てた状態である。そして仏教は「人の心」の(ありとあらゆるものの)実在を否定している。結論としては、ユイの思想は本質的に仏教のものではない。


 論考2 人類補完計画とは何か?

 この最大の問題は、グノーシス主義との関連で考察せねばならない。即ち、ATフィールドとは何か? ATフィールドが消え、人と人との境界が無い「補完された世界」が、孤独で恐ろしげなものとして描かれているのは何故か? その答えはグノーシス主義神話の中にある。少々長くなるが、必要な部分を解説する。


 ……全てに先在する全き存在、<原父>或いは<深淵>などと呼ばれる至高のアイオーン(神的存在)から、次々にアイオーン達が流出し、十五対三十のアイオーンによって神的世界プレーローマ(充満)が形成させる。
 流出したアイオーンの中で最後に生まれたソフィア(智恵)は、父を知ろうとして無謀な試みに挑む。

この情念は<父>の探求であった。なぜなら彼女は彼の偉大さを把握しようとしたのだから。しかし彼女はこれを達成できなかった。それは不可能な試みだった。そのためにソフィアは大いなる苦悶に陥った。ソフィアは欲望にかられて<深淵>の奥へ奥へと進んだが、その<深淵>の深さのために、もし<万有>を固め、そしてこれを言葉に表せない<偉大なるもの>から隔てているある力に出会わなかったなら、最後にはその甘美さに呑み込まれ、全的存在のなかに溶解してしまったことであろう。この力は<境界>(ホロス)と呼ばれる。(ハンス・ヨナス著「グノーシスの宗教」)

 ソフィアは<境界>によって「押し留められ、固くされ、自分自身に連れ戻された」が、彼女の狂気の産物、無謀な意図とそれによって生み出された情念(パトス)は、プレーローマの外で、「形なき存在」としてそれ自体で存続する。
 「形なき存在」はソフィアから分離された事で実体化し霊的存在となるが、これは「流産した胎児」であり、「脆弱なる、女性的な果実」である。これはやがて人格的存在となり、「下なるソフィア」と呼ばれる。
 プレーローマでは、(下なる)ソフィアを救う為に新たにクリストスが流出される。クリストスは「形も無く姿も無い流産した胎児」であるソフィアを「存在において形成」し、第一の形を与える。
 これによってソフィアは意識を持ち、プレーローマに回帰する事を願うが果たせず、「ありとあらゆる苦難の餌食」となる。彼女は「虚無と暗黒の中を彷徨」し、「果てしなき探求、悲嘆、苦悩、後悔」を経験する。
 そしてソフィアの伴侶として新たに生み出されたイエスが、プレーローマの外にいるソフィアを「知識において形成」し、救済する。このときイエスは、ソフィアの情念(プレーローマの時と同じく、ソフィアの情念は現実を構成し、それ自体で存在し続ける)を放置せず、固めて独立の実体とする。こうして物質が成立する。

(なお、この神話から、グノーシス主義は全的存在の中に溶解する事を求めるわけではない事が判る。この点、「全的存在」との完全な合一を求める新プラトン主義とは異なる。各々が自己を保持したままで光輝の充満するプレーローマへ入る事が、グノーシス主義救済思想の目的である。これを心理学(特にユング心理学)との関連で考察すると大変興味深い)


 エヴァンゲリオンに話を戻すと、シンジは「ATフィールドを失った、自分の形を失った世界」で、混乱し、渇望し、苦悩する。これは<深淵>の中で溶解しそうになったソフィアが経験した「大いなる苦悶」、プレーローマの外で下なるソフィアが知識において形成される以前の「果てしなき探求、悲嘆、苦悩、後悔」と共通する。
 ソフィアが<境界>によって、下なるソフィアが「形成」によって自らを取り戻すように、シンジは「心の壁」ATフィールドによって自らを取り戻す。

 「人類補完計画」が発動し全てのヒトビトの境界が失われた世界は、計画の当事者達の意図はどうあれ、グノーシス主義的、カバラ的、新プラトン主義的、仏教的な救済では全くない。グノーシス主義については前述した通りである。カバラにおいては、修行者は宇宙と人間の一切の秘密に通じ、ケテルからマルクトに到る生命の樹の各位階を自在に往来する事、神に近づきその目前に仕える事が目的である。全的存在との合一を目的とする新プラトン主義においては、合一は欠けるところの無い至福であり、「孤独がヒトの心を埋めていく」などはとんでもない話である。仏教においては、涅槃に到れば人は空となり、全ての情動、人間的苦悩から解放されるとされている。

 そして最も重要な点だが、いずれの救済の場合にも、世界の人々全てが望むと望まざるとに関わらず同時に強制的に「救済」されるなどという事は絶対に有り得ない。救済には各人の自覚と意志と努力が必須である。仏教に到っては何億、何兆年もの修行が必要である。中には一瞬で悟りを開く者もいるが、それは極めて優秀な人物に限られる。

 結論としては、「人類補完計画」とは通常の意味での「救済」ではなく、

・グノーシス主義神話が語るところの「プレーローマにおける<境界>」を消滅させ、人々を「全的存在のなかに溶解」させる事(霊魂的な次元)
・同じくグノーシス主義神話が語るところの「物質世界における「形成」」を解消し、人々を「形成」以前の「脆弱なる、女性的な果実」に回帰させる事(物質的な次元)

 とイコールである。これが救済たり得るかは大きな疑問である。


 
論考3 シンジは最後にいかなるエトスを選択したのか?

 シンジが最後に補完された世界から出て元の世界に戻る事は、日本人的な問題意識とバランス感覚の所産であると考えられる。神と全ての人間が融合すれば全ての問題が解決するという思想に対し、作者は懐疑を示したのであろう。その根底には日本人的な宗教思想が存在する(ここで言う宗教はマックス・ヴェーバーの定義による。即ち宗教=エトス、行動様式である)。
 彼が戻った世界では、依然として他人との争いが絶えない。しかしシンジは、神と全ての人間が融合した世界ではなく、人間関係によって構成される世界を選んだのである。これは山本七平氏が提唱した「日本教」の思想である。日本教においては、世界は正に人間関係によって構成される。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。(「日本人とユダヤ人」)

 シンジは補完された世界は元の世界よりも悪いと感じた、つまり「人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかった」ので、戻ってきたわけである。方法論はともかく、作中では神と人間全ての合一が果たされたわけだが、シンジはこの「救済」から決別した。作者の庵野氏は、このような合一は救済たり得ないと考えたのであろう。

 魂の救済という問題を描くにあたり様々な宗教の救済思想を考察したであろう作者は、結局それら全てを捨て、シンジに極々日本的な日本教のエトスを選択させた。日本人の限界であるとも言えるが、私としてはやはりこれは「日本人的な問題意識とバランス感覚の所産」として、前向きに解釈したい所である。




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