イデオンとエヴァンゲリオン

 

 

ガンダムなどで有名な富野監督が、エヴァンゲリオン及び庵野監督に対して、かなり強く批判していたのは有名です。両監督の作品を比較分析することで、両者の指向性の違いについて検証します。

ここでは、富野監督の作品の中でも、(異論はあるでしょうが)最高傑作であるイデオンをとりあげます。富野監督の代表作とすると、ガンダムをあげる人が多いでしょう。確かに、誰でも楽しめるエンターテイメント性や、後のアニメに与えた影響においては比較にならないものがあります。しかしながら、作品単体としての、凄味や、インパクトの強さという意味ではイデオンをあげる人も多いのではないでしょうか。

もっとも、ガンダムが誰でも楽しめる作品であるのに対して、イデオンには嫌悪感を持つ人が多数存在することも確かです。

 

第一部では、両者が、ほぼ同じ構造を持つことを確認します。

 

 

第1部 類似点

<物語の前史――発掘>

エヴァでは、まず南極における謎の巨人アダムの発掘が行われる。その成果として、のちにエヴァが製造されることになる。なお、アダムは当初(脚本時まで)第2始祖民族もしくは第二先住民族が残した遺産とされていた。

 

イデオンでは、第六文明人の遺産の中から、母艦であるソロシップと、ロボットであるイデオンが発掘される。

 

<物語の開始――二つの遭遇>

エヴァンゲリオンとイデオンは、どちらにおいても、主人公(シンジとコスモ)は、二つの謎の存在に出会うところから始まる。

エヴァンゲリオンにおいては、襲いかかるシトであり、それを迎え撃つためのエヴァンゲリオンである。

イデオンにおいては、攻撃を仕掛けてきたバッフクラン軍であり、たまたま発掘されたイデオン(及びソロシップ)である。

 

<敵について>

エヴァンゲリオンにおいては、第4シトを倒したことにより,敵の解析が進められる。

リツコ「人の遺伝子と99.8%まで同じよ」

イデオンにおいては、捕虜となったカララを調べることにより、自分達もバッフクランも、肉体的には全く同じであることがわかる。

シェリル 「カララは私達と全く同じだったわ」

 

 

 

<操作方法について>

エヴァンゲリオンを動かすには、搭乗者とエヴァとの間でシンクロを示すことが必要である。つまり、技能以上に精神面(シンクロ率)が重要なのである。

イデオンも、パワーを引き出そうとすると精神的なものが必要となる。特に、物語の展開に従って,イデの力は子供の純粋な防衛本能に反応しやすいことがわかってくる。

(赤ん坊であるパウパールーの泣き声に呼応して)「イデのゲージが光りました」

シェリル「コスモとカーシャの脳波測定の結果ではね。2人が危険を感じた時にイデオンのゲージのエネルギーが上がるように見えるんだけど」

シェリル「イデオンのパワーアップと乗っている人の脳波結果ね、一致するのよ。」

 

 

<暴走と恐怖あるいは悪魔の叫び>

エヴァは時に暴走する。そして、人間に制御不能となった時こそ、潜在的な力を十分に発揮し、敵を圧倒する。

「暴走です。」

そして、その姿は、敵にも味方にも恐怖を与える。

アスカ「私達、こんなのに乗ってんの」

自衛隊 「まさに、悪魔か」

 

時には、生物を思わせる咆哮をあげることさえある。

 

イデオンは、時に防衛本能により強大なパワーを発揮する。あまりの強力さに、主人公たちは自分達のやっていること(自分達の防衛)の正当性さえ疑うこととなる。

シェリル「イデの力、良き力の現れなんていうけれど、この破壊力は悪魔の力よ。あまりにも大きすぎる」

 

そして、時にはやはり、咆哮をあげる。

 

最終的に搭乗員達は、制御できないマシンを使用することを拒否し、母艦であるソロシップともども、イデオンを破棄することにする。

 

マーシャル「悪魔に魅入られた船なら、捨てる気にもなるな」

 

しかしながら、これは、イデの意思により実現しない。

 

 

<二つの敵対種族のこころの交流>

エヴァ24話において、最後のシト、渚カヲルが現れる。彼は、シンジとの間に精神的な交流をもち、シンジは、他のヒト以上にわかりあえる気がする。

シンジ「どうして、カヲル君にこんなこと話すんだろう」

 

そして、敵対する種族という枠を超えた感情が産まれる。

カヲル「ありがとう。君に会えてうれしかったよ。」

 

イデオンにおいては、捕虜となったカララと、ベスとの間に恋愛感情がうまれる。戦いをやめさせようとしたカララは、実の姉およびバッフクラン軍から辱めをうけ、自分には帰る星がなくなったことに気づく。

 

カララ「バッフクランにはもう戻れません。」

ベス「カララ、私達のような異星人でいいのか?」

 

一方、バッフクランから寝返ったギジェと、それをかくまったシェリルとの間にも、こころの交流がはじまる。

 

 

<戦いの理由>

エヴァにおいては初めは防衛戦争かと思われていたものの、やがてゲンドウ及びゼーレによる人類補完計画のためのステップであることがあきらかになってくる。

一方、担当レベルの者たちにとっては、人類補完計画の内容は知らされていない。彼らは、世界のためというわけでもなく、主に自分の内面的な要請に基づいてシトと戦っている。例えば、ミサトにとっては、父の仇討であり、シンジにとっては、父に認められたいからであり、アスカにとっては、自分の評価をあげるためである。

 

イデオンにおいては、当初は誤解やイデの力の争奪から始まった戦争ではあるが、やがて、カララとその姉との、つまり姉妹間の感情的ないざこざが大きな要因となる。特に、姉の恋人がイデオンによって殺されたにも関わらず、妹のカララは恋人ベスとの間に身ごもったことが、姉にとっては絶対許せない問題となる。

一方、そもそも地球人とバッフクランが戦うように仕向けたのは、イデの意思によるものであることが後々明らかになる。

 

つまり、エヴァにおいてもイデオンにおいても、戦いの理由は2重化されており、上位レベルは謎となっており(イデの意思、人類補完計画)、下位レベルでは内面的な肉親コンプレックス(ハルルのカララへの思い、ミサトやシンジの父への思いなど)に基づいている。

 

 

<人類同士の戦い>

エヴァにおいては、シトがいなくなったあとは、ゼーレとネルフとにおける、ヒト同士の戦いへと突入する。

冬月「結局、ヒトの敵はヒトか」

 

イデオンにおいては、ソロシップがバッフクランの攻撃をさけて地球人側の援助を受けようとするが、拒まれた上に逆に攻撃もされる。また、最後にはバッフクランと地球人が協力して攻撃してくることもある。

 

シェリル「人間同士よ、お互いに助け合う義務があるわ」

ベス「我々人類は、それほどまでにやさしくはないぜ」

カララ「異星人より、身内の方が恐いものです。」

 

 

<出来そこない>

エヴァにおいては、人類は欠陥をもっているとされ、そのために補完計画が要請される。

「出来そこないの人類を、互いに補完してまとめあう、それが人類補完計画」

「人間、この不完全な生き物」

 

イデオンにおいては、どうしようもないお互いのエゴから生まれる戦いの中で、人類は出来そこないであるという認識に至る。

コスモ「俺達、出来そこないの生物の、その憎しみのこころを根絶やしにするために・・イデは・・」

ドバ「我らを戦わせたのか・・」

 

 

<意思>

最初はただの兵器と思われたエヴァシリーズだが、実はヒトの意思が埋め込まれていることがわかる。

リツコ「ただのコピーではないわ。エヴァにはヒトの意思が埋め込まれているもの」

そして、シンジやアスカは、時に対話のようなものを行う。20話、25話など。

 

イデオンにおいては、ベスは病の中で、意思の集合体イデと対話を行う。また、コスモもカララに輸血するさい、イデとの対話を行う(接触編)。

 

<群体が宿る場としてのマシン>

エヴァにおいて最大の謎である人類補完計画とは、個人を群体化する計画であった。

そして、エヴァの役割とは、ヒトの意思の集合体が宿るためのよりしろになることであった。

イデオンにおいて最大の謎である、イデとは第六文明人の意思の集合体であることがわかる。そして、イデオン及びソロシップは、第六文明人の意思の集合体が封じ込められている場であった。

 

 

<悪魔と神>

エヴァは、悪魔にも神にもなりうる両義的な存在である。

「人類を救う救世主となるか、悪魔となるか、すべては碇の息子に委ねられたな」

 

イデオンのイデも、良き力の発現と、悪しき力の発現の可能性がある。

「私は信じます。イデには良き発現があるということを」

 

 

<救世主>

エヴァにおいて、シンジは初号機もろとも、量産エヴァにより復活した生命の木に磔となる。これは、ゼーレによって贖罪の儀式とみなされる。この、キリストと同じ構図が意味するのは、エヴァ初号機が贖罪の生贄であり、ある意味救世主であることである。

冬月「人類を救う救世主となるか、悪魔となるか、すべては碇の息子に委ねられたな」

 

イデオンにおいては、二つの敵対する種族であるベスとカララの子は、メシア(救世主)と名づけられる。

 

<戦いの終局>

エヴァにおいては、戦略自衛隊がネルフに進入し、殺戮を行う。この過程の中で、サードインパクトが起きる。

 

イデオンにおいては、ソロシップにバッフクランが進入し、やはり殺戮を行う。この過程の中で、イデの発動が起きる。

 

<世界の破滅>

サードインパクトが発生し、ヒトはこれまでの進化を止め、リリスの卵へと帰っていく。

キール「始まりは終わりに等しい。よい。全てはこれでよい。」

 

イデが発動し、全てが消滅していく。

 

<救世主による、新たなる生命の歴史へ>

シンジは、最終的に人類の存続を願う。この内面的な葛藤は実写も交えて行われる。2種族の友好の希望の証である、カヲルとレイに導かれて、裸で海に復活する。

最後に、シンジは浜辺でアスカが横にねているのに気づく。シンジはアスカの首を絞めるが、なでられて、泣きじゃくる。

なお、TV版26話では、最後に「全ての子供達(チルドレン)に、おめでとう」で終わる。

 

イデオンでは、登場人物達(霊魂?)は裸で宇宙をさまよう。コスモはねたきりであり、なかなか起きない。カーシャやキッチ・キッチンがキスなどをして起こす。

2種族の友好の希望の証であるメシアに導かれて、また、ある惑星の海の中にはいっていく。そこで海の実写となっていく。

なお、メシア誕生のシーンでは、「ハッピバースデイ、ディア・チルドレン」の合唱が響く。

 

 

<まとめ>

要するに、イデオンとエヴァンゲリオンは、おおまかなストーリーをこうまとめられます。

 

人類は、太古より眠っていた物体を発掘し、それを利用して兵器とします。

主人公は、その兵器に乗りこみ、遅いかかる謎の敵と戦いますが、やがて、その兵器には心があり、それに呼応して動くことがわかります。そして、時に、咆哮をあげながら暴走し、圧倒的な力をみせつけます。また、これにより、制御しきれない兵器として恐怖の念を起こさせます。

一方、謎の敵とみなされていたもの達が、実は自分達とほとんどかわらない生命体であることがわかり、一部では心の交流が生まれます。

やがて、この戦いが、実は単なる種族抗争ではなく、人類の有り方を決めるため、別の意思によって導かれていることがわかります。問題の兵器も、人類の群体化を目的として作られたものであることが判明します。そして、出来そこないの生物である人類の、様々なエゴのぶつかりあいのなか、戦いは終局へと向かいます。

最後は敵に進入され、生身の人間同士の銃撃戦となっていきます。その中で、サードインパクトなり、イデの発動なりが起き、世界は終焉を迎えます。

しかしながら、両種族の融合である存在が、救世主としての役割を果たし、人類の生命としての歴史は再び始まります。

 

 

 

 

第二部 差異

実際にエヴァとイデオンを見比べてみると、違う部分が目立ちます。例えば、主人公を取り巻く人間環境などです。また、1話1話の演出は全く異なります。これは、当然といえば当然でしょう。かたや、ほぼ現代の日本を舞台にしており、かたや西暦2300年の宇宙移民を舞台にした物語です。

むしろ、ここまで舞台設定が異なるにも関わらず、第一部でみましたように、物語の構造は同じであることに注意すべきでしょう。

よって、個々の演出の違いやストーリー展開の差異についてはここでは考慮しません。エヴァとイデオンがほぼ同じ構造を持つ物語である以上、本質的な意味での2作品の違いは、同じようなストーリーや演出を考察することでこそ、明確化されるはずです。

 

<出来そこない>

例えば、「出来そこない」というセリフを考えてみましょう。これは、どちらでも、使用されるセリフです。

イデオンでは、人類が出来そこないであるということをどのように表現しているでしょうか。

それは、地球人とバッフクランの、エゴや防衛本能剥き出しの戦い、地球人同士の仲間割れ、何よりも、姉ハルルによる妹カララの射殺を頂点とする、人間同士の無理解、全てが間違っていることに気づきながらも戦いをやめられなかった、ドバやソロシップのクルーの姿を描くことで表現されます。

 

つまり、人間のエゴや愛憎を徹底的に描ききることで、人類の限界や不完全さを、視聴者が納得いくまで表現しているのです。

コスモが、「俺達、できそこないの生物の・・」と絶叫するとき、その言葉をとがめだてする気は、我々には起きようがないでしょう。

 

それに比較して、エヴァンゲリオンではどうでしょうか。オープニングに生命の木が登場することに象徴されるように、キリスト教の伝説にのっとり、知恵の実を食べた、できそこないの人間という位置付けがなされます。

「臆病さゆえに、知恵を発達させた人類」

そして、具体的な欠陥として表現されるのは、一貫して、人間の精神的な問題です。

「人間、この不完全な動物。人は、一人では生きることはできない。」

人間が、一人では生きてはいけないこと、しかしながら、他人との接触は恐怖でもあることを、「ATフィールド」「人類補完計画(欠けたこころの補完)」「ヤマアラシのジレンマ」「鳴らない電話」など、様々な用語を使いながら描いていきます。

そして、物語は生命の木に近づく人類という、贖罪の観点から、不完全な人類の物語は進行します。

つまり、「自我の発達」をキリスト教における知恵の実を食べた人類になぞらえ、結果としてヒトとヒトの関わりを「絶対恐怖領域」として描き、そこからの解放として、自我の発生以前である母胎回帰(人類補完計画)を目指す、というのがエヴァンゲリオンなのです。このような観点から、自我を持った人類は、「出来そこない」と呼ばれます。

 

結論を言うと、イデオンは、泥臭くリアリティーを持った人間の醜さを描きつづけることで、人類の欠陥を表現したのに対し、エヴァンゲリオンでは宗教的な伝説と、精神分析を組み合わせることで表現しているのです。

 

<美女の死>

こんどは、美人の死という観点で考えてみましょう。

どちらにおいても、物語の最終段階で、主要人物は次々と死んでいきます。

リツコは、ゲンドウに撃たれますが、その直前、ゲンドウの語る言葉を見て「うそつき・・」と微笑みます。そして、撃たれた勢いでLCLに落ちますが、銃弾の傷以外は、特に顔は傷ついていません。

ミサトは、シンジをかばって重傷を負いますが、自分の死を予感しながらも、最後までシンジを励ますことを忘れません。そして、シンジを送り出したあとは、「カジ君、これでよかったのよね・・」とつぶやきます。その直後に爆風に覆われ、何も見えなくなります。

 

つまり、精神的に言えば、どちらも死ぬ直前には、ある種納得しているわけです。そして、顔も、ほぼ元のままです。また、死体は、そのへんにころがったまま放置されることもなく、一応消滅します。

傷つく過程が一番凄惨なアスカの場合でも、ぼろぼろになるのはあくまでもエヴァ2号機だけです。アスカ自身は目を手で覆っているだけで、顔や身体そのものは傷ついているわけではありません(少なくとも明示はされていません)。

 

それに対して、イデオンでは、カララは実の姉ハルルに顔を3発うたれます。ハルルは、美しい妹の顔を壊したいかのように、顔のみに発砲するのです。そして、カララの死体には白い布がかぶせられますが、コスモは、見ないようとめられるにも関わらず、布をあげて顔を確認し、つぶやきます。

カーシャ「だめ、見ちゃ」

コスモ「なぜだ?」

カーシャ「顔だけ狙われて、めちゃくちゃなのよ。」

コスモ「(かまわず布をとる)きれいだった人が・・こんなに。」

カララは、撃たれる直前まで、自分に死の運命が待ち構えているとは思ってもいませんでした。イデの力をあてにしていたのかもしれませんが、赤ん坊を産むために、自分は絶対に死ぬわけにはいかない、と考えておりました。

カーシャは、やはりソロシップ内で敵の進行を食い止めている途中、突然の爆風を浴びます。そして、顔を覆うシールド部分に、びっしりとヒビがはいり、そのまま倒れます。私は、アニメの中で、このシーンほど、生きていた人間が一瞬でモノになってしまったという感じを覚えたことはありません。

キッチ・キッチンは、爆風で首が吹っ飛びます。

 

つまり、イデオンにおける美人キャラというのは、例外なく、顔を破壊されて、これ以上なく醜く死にます。そして、誰をとっても、自分が死ぬかもしれないということを全く予想もしないうちに、突如生命の終わりをむかえ、後は、ただモノとして、ころがっているのです。

 

この、エヴァンゲリオンとイデオンの表現の違いは、実は美人キャラの死だけではなく、全てに一貫して見られます。

例えば、バッフクランの戦闘機の操縦士が死ぬ時の描写。戦闘機を飛ばしていた操縦士が撃たれると、次の瞬間には両手をさげ、血を流し、死亡した様子を、確認するかのように写したあとで、戦闘機は爆発します。

また、コスモの母親的役割を果たしたカミューラ・ランバンの最後の様子。車の下敷きになり、大量出血をし、コスモが無理にでも助けようと足を引っ張ると、絶叫とともに息絶えます。下半身がとれてしまったようでもありますが、さすがにその描写はありません。

物語の冒頭で博士が死ぬ時も、上半身が岩でつぶされ、足だけが痙攣しております(接触編)。

 

エヴァにおいても死の描写シーンが存在しますが、劇場版でのネルフ職員だけであり、シトの襲来によって第三新東京の住民が多数死んでいるはずであるにも関わらず、それらは全く描かれていません。富野作品にとって、非戦闘員の死は、戦争であれば当然なのですが、庵野作品にとっては、メインキャラ以外の部外者(いわゆる民間人)の生死にはあまり関心はないのでしょう。

そして、エヴァのメインキャラでは、醜い不慮の死亡を遂げる人物は一人もおりません。先ほどあげたミサトにしろリツコにしろ、最後はあきらめる余裕がありますし、カジも同様です。死の直前に、自分の死を見つめる余裕を持ってから死にます。それは、ゲンドウも同じです。もう少し正確に言うと、エヴァキャラは、死ぬ前に必ず一言かっこよくしゃべってから死ぬのです。しかも、誰一人として、泣き言はいいません。

 

このような、エヴァとイデオンの違いが、最大限に発揮されるのは、人類の滅亡を描くシーンでしょう。

イデオンにおいては、次々とメンバーが死んだあげく、最後はイデオン本体も持ちこたえられなくなります。その時、搭乗員達の肉体も限界を超え、絶叫の中、腕が身体からはなれて吹っ飛ぶ様子まで描かれていきます。

 

それに対し、エヴァにおいては、人々の前に女子高生姿のレイが現れ、シャボン玉がはじけるような表現となっております。

一言でいうと、イデオンは、ヒトの死を残酷に、不意にモノとなる過程として描いているのですが、エヴァンゲリオンでは、作中人物は精神的にも視覚的にも、役を演じきった役者が舞台から退出するように、死ぬというよりは消滅していくのです。そのため、最初から役を持ってないキャラ(第三新東京の住人)の死は描かれることはありませんし、役を持っているキャラは、死ぬ前にしゃべる機会が必ず与えられるます。

 

このような演出の結果として、エヴァでは、視聴者があまり傷つかないようになっています。「本当のことはみんなを傷つけるから」という26話のセリフを思い浮かべさせられます。イデオンの方がリアルといえばリアルです。もっとも、富野監督の最近のインタビューでは、今ならもっと視聴者が癒されるような死に方をさせると言っていたのが印象的です。

 

<暴走>

マシンが異様なパワーを発揮するとき、何がもとになっているのでしょうか。

エヴァでは、シンジの危機にさいして、エヴァに融合したユイが目覚めるようです。

つまり、母性本能がもとになっています。これは、操縦者本人が生きることを目指している場合もありますが(2号機のアスカ)、あきらめている場合もあります(16話のシンジ)。

イデオンにおいては、イデの力は、純粋な防衛本能に触発されるようです。

つまり、エヴァにおけるパワーは、本人とは無関係に助けてくれる、他力本願的な母性本能であり、イデの力は、あくまでも本人の防衛本能に依存します。

 

 

<まとめ>

以上、3点ほど簡単ですが見てみました。

シーン             イデオン            エヴァ

出来そこないの人類   人々のエゴのぶつかりあい   宗教的伝説と精神分析

死           ヒトが突如モノに       物語からの退場

暴走の理由       自衛本能           母性本能

 

このような、同じことを描くさいのスタンスの違いの中にこそ、エヴァとイデオンの最も本質的な違いがあるはずです。

上記3点をみただけで、同じ物語枠を採用しながらも、この2作品は根本的なところで異なる作品であることが明らかでしょう。

他にもいくらでも両作品の違いを数えられるでしょうが、とりあえずこのくらいにしておきます。

作家性というものがある作品であれば、このような数点における傾向性の違いは、作品全てを覆っている違いでもあるでしょう。また、それらの違いはどれもリンクしているはずです。そして、それらは全て、作家そのものを特質を指し示しているはずです。

 

 

第三部 富野監督と庵野監督

第一部では、おおまかにはエヴァとイデオンは同じストーリー構造であることを確認しました。第二部では、この2作は、同じようなシーンであってもあまりにも演出が異なることを確認しました。

 

ここまで来ると、より詳細な分析をするには、監督達自身の内面を問わなくてはなりません。

まず、富野監督は、エヴァをかなり強く批判しました。

その要点をまとめると

 

 

 

さて、エヴァンゲリオンにおけるキャラ描写の特徴とは何でしょうか。

よく話題になったのが、全てのメインキャラにコンプレックスを明確に設定した点でしょう。これは、精神分析的に言えば、当然のことです。

 

父の仇討がしたいミサトや、父に認められたいからエヴァに乗るシンジ、ユイに会えないのがさびしいゲンドウなど。間違っても、人類を守るために戦う、という使命感や、仕事だからやる、という義務感だけで動くわけではありません。

 

 

もっとも、富野キャラも、コンプレックスは人物行動の強力な動機となっています。例えば、ハルルの妹カララに対する憎しみなど。もちろん、エヴァ程多くのキャラのコンプレックスが明示されているわけではありませんが。(イデオン以外では、例えばZガンダムの主人公カミーユが、名前が女性的だということに強くコンプレックスを持ち、女性と間違えられただけで相手を殴りつけるシーンが印象的です。頭も顔もいいのに、カミーユはコンプレックスが多いキャラでした。)

 

 

こうしてみると、コンプレックスの重視という点が両者の決定的な相違ではないと思えます。むしろ、両監督の違いは、コンプレックスの有り方、発現の仕方に明瞭に現れている気がします。

 

例えば、主人公シンジの造型を考えてみましょう。

「言われたとおりに何でもやる。それがあの子の処世術なのよ」

 

 

富野監督は、大人に反抗しないのは10代ではない、若さではない、ということをZガンダム放映時に言っていました。これは多くの富野作品に共通する少年の造型でもあります。

 

シャア「(カミーユに衝動的に殴りつけられて)これが、若さというものか・・」

 

富野監督の物語の多くは、たまたま戦争に巻き込まれた少年達が、ダメな大人たちとの軋轢の中、活躍していく姿を描いています。少年達は、大人達の身勝手さに憤りながら、強く自己主張していくのです。

 

主人公の少年像ひとつとっただけでも、決定的な相違が感じられます。

 

 

さて、エヴァのキャラの特質とは何でしょうか。

ストーリー開始時には、別個の性格を持っていたのが、最後にはみな同じような性格に集約されていきました。

 

<内罰性>

シンジ「僕なんか死んじゃえばいいんだ。」

アスカ「あたしなんか死んでしまえばいいのよ。」

リツコ「いえ、いっそのこと殺してくれるとうれしい。」

レイ「あたしには何もない」

<自信の無さ>

シンジ「僕に価値が欲しいんだ」

   「みんな、僕のことが嫌いなんじゃないのかな?」

アスカ「自分で自分を誉めてあげたいのよ」

ミサト「イージーに自分に価値があると思えるから」

ゲンドウ「自分が人に愛されるなんて信じられない」

 

 

これは、まさに監督の性格でしょう。

エヴァという作品は、監督自身の内面をぶつけたところに個性があった反面、登場人物の性格も、一歩奥にはいると相似したものになってしまいました。

 

庵野監督「全てのキャラが、僕の性格の一部をもっています。」

 

しかし、別に、これは、現実感がないキャラなのではなく、現実に存在する(例えば庵野監督自身)性格のひとつなのです。

このような人物造形を、現実感がないと考える人は、単に、性格が違うタイプだということだけです。

実際、エヴァを見た視聴者の声が、かなり明確に分かれたことも、これを裏付けています。

キャラに現実感がないと批判した人と、見ていて自分のことのようにつらくなったという人と。いままでのアニメで、エヴァほど、一部の人が心からシンクロしたキャラが登場した物語もなかったでしょう。

つまり、登場人物の造形が、庵野監督個人の性格に近すぎたため、似たような性格の人は極端に同一化できるし、そうでない人には現実感が与えられなかったのです。

 

 

ここでまた、富野監督の登場人物たちを考えてみましょう。

イデオンでは、内罰的なキャラなど一人もおりません。それでは、あのエゴの衝突の中では文字通り生きていけないでしょう。全員が、生き残ることを目指しております。むしろ、滅亡へと至る道は、全員が生き残りを目指しすぎていることにあります。

死ぬときは、一言を言う間も与えられず死ぬか、無念の言葉をつぶやくかです。

 

アバデデ「な、なぜ、こんなバカな死に方を・・」

ダミド「死んでたまるかー」

モエラ「こんなことで、俺達の運命を変えられてたまるか」・・接触編

ハタリ「ばかな、俺はまだ、何もやっちゃいないんだぞ」

ベス「俺達は、やることが全て遅かったのかもしれない。」

コスモ「(カーシャの死を聞き)俺は、こんな甲斐のない人生など認めん」

コスモ「(直撃を受け)死ぬかよー」

 

何かというと「死にたい」とつぶやきがちなエヴァキャラとのギャップは非常に大きなものがあります。

 

 

結局のところ、富野監督のエヴァキャラ批判は、キャラ造型のリアルさや、出来の問題ではなく、人間のタイプとして、好きか嫌いかというところに落ち着くのではないでしょうか。

  

話をイデオンに戻しましょう。

 第二部でも書きましたが、イデオンではエヴァよりもかなりリアルに死が表現されているとは思います。

しかし、本当に、リアルなのか、もう少し検証してみましょう。

例えば、顔を破壊されるのは、全て女性です。

一方、男性キャラは、一兵卒まで含めてあれだけ多数死ぬにも関わらず、誰一人として顔だけが見るに耐えぬほどになったという人はいません。

 

また、ソロシップの中でアーシュラの首が吹っ飛ぶシーンで、アニメーターの方は、「戦争なんだから子供だけ無傷というのはおかしい」と言っていました。

全くそのとおりです。しかしながら、首が飛ぶのがキッチンやアーシュラなど少女のみというのも、これまた不自然ではないでしょうか。

 

こういう点を考慮すると、必ずしもイデオンの死の表現がリアルだとは言いきれないでしょう。

イデオンの異様なまでの残酷な表現は、あくまでも、人類のエゴによる衝突と滅亡、それによるイデの発動を描くうえでは、大変効果があると思います。しかし、それは、あくまでも泥沼化した戦争のエゴによる終末を描く目的の上で、美人の顔は破壊され、かわいい子供は首が飛ぶ、というように構成されているわけです。

 

つまり、リアルな戦争を表現しているのではなく、人類のエゴのもたらす悲劇を強調するために使われているわけです。

 

もし、本当にリアルさだけを求めたのなら、男性キャラにも、顔だけ破壊されるキャラがいていいはずです。

 

つまり、イデオンの方がリアルというわけではなく、作品のテーマを追求するうえで必要とされた演出ということです。

 

 

ここまでの話をまとめましょう。

富野監督は、エヴァを現実感のないキャラの集まりとして批判しました。

しかし、イデオンも必ずしもリアリズムに徹しているわけではなく、あくまでも作品のテーマを表現する上でのリアルさです。

また、現実感がないとされたエヴァキャラですが、彼らのような性格の人物は多数存在している以上、そのような批判はできません(例えば庵野監督自身)。

一方、富野監督の作品の視聴者に、エヴァほど登場人物に感情移入したという声は聞かれません。その点では、逆にエヴァの方が、(例え限られた対象であっても)リアルな造型に成功しているとさえ、言えるのかもしれません。

結局のところ、この観点における両作品の違いは、人間としてのタイプの違いということに落ち着くような気がします。

 

さて、ここで両監督の資質の違いについてもう少し見てみましょう。

庵野監督は、自分を枝葉末節の人間と言っております。つまり、明確なコンセプトやテーマの上に話を構築するのではなく、ひとつひとつの演出をセンスよく積み上げていくタイプです。

人類補完計画の内容も、十分に考えられたものではなかったといいます。

ラストもぎりぎりまで2転3転したことは記憶に新しいでしょう。

 

しかしながら、ストーリーをどんどん盛り上げていく構成や、各カットのつなぎの面白さは特筆ものです。また、1話1話、今回はこの映画のイメージで、というように作っていたそうですが、その結果として、毎回違った雰囲気が出ており、いろいろな趣味の人が、その人なりに好きな回ができるというようになっていました。

 

一方、富野監督は、コンセプトについて語る人です。

テレビ放映3ヶ月前に、すでに「イデの発現についてのメモ」というものを書いております。また、放映前には、ラストの全滅及び輪廻的な展開も、おおまかには決まっていました(後に、変更も検討されたようですが)。

 

性格のみならず、作家としてのタイプも全く異なるわけです。

 

 

さらに、エヴァとイデオンを比較する上では、アニメの置かれている立場の変化も忘れてはなりません。

富野監督がイデオンに参加する前に、おもちゃ会社との協議のうえ、イデオンのロボットデザインは決定していました。そして、当初は幼稚園バスと、タンクローリーと、自衛隊の戦車が合体してロボットになるというイメージでイデオンの造型はなされました。

富野監督はイデオンのデザインに口出しできる立場になく、ここまでひどいデザインでは、いっそのこと大風呂敷を広げたストーリーにするしかない、と考えて、第六文明人の遺産という設定に変更したのです。

つまり、おもちゃ化が最優先の検討事項であったわけです。その状況の中で、クリエイターとしてストーリーを作っていったわけです。

 

それに比較し、エヴァンゲリオンのデザインは、あくまでクリエイター主導で行われました。

庵野監督「おもちゃ会社にデザインを口出しされるくらいなら、いっそのこと製作自体をやめようと決めてました」

 

また、庵野監督はアニメ世代であり、アニメは面白いものだということを素直に出発点にしています。

そしてエヴァの製作は、閉塞感のあるアニメ界に対しての挑戦であり、アニメは本来もっと力があるはずだという問題提起でもありました(ニュータイプ誌インタビュー)。

 

それに対し、富野監督がガンダムやイデオンを作成した時代は、アニメの市場やステイタスも低く、他業界からは低い評価しか得られていないという状況でした。

イデオンを作成した動機は、(富野監督の表現によれば)ガンダムという作品が惨敗したあと、アニメでも「物語」が描けるんだということをアピールするということも動機になっています。そして、映画関係者に対して、アニメでここまでやれるんだ、と主張することで、自分にも(実写)映画製作のチャンスを期待するという意味もありました。

 

エヴァが、あくまでも元アニメファンがアニメファンに対して作成したものであり、スタッフの人も、アニメファンにこそ見て欲しいと言っているのに対して、イデオンの作成は、アニメを過小評価する部外者に対してのアピールという意味もあったのです(その後も、富野監督に実写の機会が無いのに比し、庵野監督があっさりと実写を撮れる状況ができたのは、皮肉な感じもしますが、時代の違いも大きいでしょう)。

 

ガンダムの安彦良和氏が、富野監督のエヴァ批判に共感していたインタビューで、エヴァの、前衛的手法を話題作りに活用するやり方(テレビ25、26話など)に対して、プロではないと批判していました。このあたりも、世代的な差異があるような感じがします。少なくともガンダムやイデオンの当時は、あのような演出(例えば脚本や絵コンテをそのまま写すような)は、アニメがばかにされるネタとなりうるという点で、クリエイター自身が自分で許せなかったのではないでしょうか。例えそれが十分な水準に達した映像技法であったとしても。

逆に言うと、ガンダムやイデオンなどの成功があったからこそ、様々な表現が屈託なく行えるくらい、アニメというものの市場が大きくなってきたという面もあるでしょう。

 

さて、エヴァ本の中には、富野監督のエヴァ批判について、クリエイターとしての嫉妬ではないか、と書いているものもあります。

 

しかしながら、そんな単純なものではなく、両監督の人間性の違いから、才能の資質の違い、アニメ製作を巡る環境の変化まで、様々なものを感じるべきではないでしょうか。

 

 

 

 

第四部 オリジナリティー

部でみましたように、エヴァとイデオンは、おおまかに言えば同じ構造の物語です。

しかしながら、二部、三部で見ましたように、本質的なところで異なってもおります。

この相似性及び差異は、どこからきているのでしょうか。

 

オリジナリティーということについて少し考えます。

 

庵野監督

「強力なエネルギーをもったオリジナルアニメが、なかなか出てきませんね。しょせんはオリジナルの薄いTV世代の悲しさといわれないよう、がんばりたいのですが。」(ニュータイプのインタビュー。エヴァ製作開始時のもの)

 

オリジナルの薄いTV世代といわれないよう、考えられた方法論が以下のものでした。

 

「僕みたいにアニメやマンガしか見ていないと、そこから思いついたものをパッとやった時には、思いついたものはただ自分の中で忘れていたもので、必ず何か元ネタがあるんですよ。それでハッと気がついて、あっ、あれだったのかってわかって、ちょっと嫌な気がする。」

「人間は無からものをつくれない。」

「僕らは、結局コラージュしかできないと思うんですよ。それは、仕方がない。オリジナルが存在するとしたら、僕の人生しかない。僕の人生は僕しか持っていない、それがオリジナルだから、フィルムに持っていくことが僕が作れるオリジナリティなんです。それ以外はすべて模造といっても否定はできない。」

「僕の持っている人生観や考え方以外に確実なオリジナルは存在しない。それを突っ込んでしまえばただのコピーでしかないと言えるんですよ、胸を張ってね。そこの部分なんですよね。コピーをする時に自分の魂をこめる。まあ、それは人の魂が入っている、ただのコピーではない。いままでのマンガや特撮もの、アニメをコピーした「エヴァンゲリオン」はそこのメタファーみたいなところはありますけれど、いちおう、基本的には置き換えで作ってますんでね。」(スキゾ・エヴァンゲリオンより)

 

 

おそらく、これこそが、エヴァンゲリオン製作における最大の特徴であるように思えます。

物語構造はイデオンと同じですが、登場人物の造型の違い、コンプレックスの違いは、見事に庵野監督そのものの人間が出ています。

 

「シンジ君は、いまの僕です。」

「登場人物は、全て僕自身の分身です。」

副監督「(映画版のシンジについて)本当は、もっとカタルシスのある展開も考えていたんですが、庵野監督がこんなことするかよって言って、ああいう展開になりました。映画の冒頭でのやる気のないシンジは、映画製作当初の、庵野監督を現しています。」

 

だからこそ、先ほども見ましたように、あれだけ多彩なキャラクターが、深層心理的には同じ不安を抱えているという現象が起きたわけです。理想的なキャラクターではなく、内罰的な感情と、自分の価値に自信が持てないという不安を抱えた現実的なキャラクターとして。

その結果、今までになく、同タイプの人には自分のことのようにシンクロできる、リアルなキャラクター造型がなされました。

 

そして、エヴァの人物造型の全ては、「自分には価値がないという不安」に集約されるわけです。

だからこそ、テレビ版のラストは、自分の見方を変えれば世界も変わるということであり、

「みんな、僕のこと本当に嫌いじゃないのかなー」

「自分の価値は自分で認めるしかないのよ」

「僕はここにいていいんだ」

という一連のセリフだったわけです。

 

マシンが暴走するさい、エヴァにおいては母性本能がキーとなります。

これも、自分の価値を絶対的に認め、許容してくれる存在であるとともに、自我の発生以前の世界(胎児の世界)に誘う存在でもあるという点で、エヴァの「自分には価値がないという不安」をフォローしているわけです。

主人公の年齢が、14歳であるのも、社会に出るかどうかの境界線という点で、やはり「自分には価値がないという不安」と重なるわけです。

 

このあたりが、まさに自己防衛本能が動因であり、赤ん坊がもっとも重要であるイデオンの世界観との差異を端的に構成しています。

 

「出来そこないの人類」というものがイデオンにおいてはエゴのぶつかり合いの結果として表現されるべきものであったのに、エヴァでは前提であったというのもここから来ています。

これは、監督自身の不安感から直接来ているわけです。タイプの違う人にとっては、何故人類に問題があるのか理解できないところでしょう。

 

「人間、この不完全な動物」

「人は一人では生きていけない」

 

ゲンドウ「恐かったんだ」

    「人と人の間にある見えないものが」

 

人類補完計画が心の補完を目指しているのも、結局は「自分には価値がないという不安」から逃れるための計画です。

 

つまり、エヴァにおいては、全ての要素は監督の内面的欲求である、さびしさや不安につながっているわけです。

 

同じ物語でありながら、エヴァにおいては人類が「出来そこない」である説明は精神的なものだけであり、一言で済ませられているのに対して、イデオンにおいては全ストーリーかけて表現しているのも、逆に、なぜ第六文明人が群体化したかの説明がイデオンにおいては存在せず、エヴァにおいては饒舌に語られるのかも、ここからきています。

監督の内面やコンプレックスの違いが、そのまま物語の焦点の違いとなっているのです。

 

 

このように、監督の内面的な部分を作品に全面的に刻印した点が、エヴァにおけるオリジナル達成のための理論でありました。そして、そのような方法論で作成されたこと自体が、エヴァンゲリオンの最大のオリジナリティでもあったわけです。

 

 

 

<最後に> イデオンとエヴァンゲリオン

両作品は、キャラの設定からストーリーの運び方、演出に至るまで、大きく異なっています。そして、監督の批判騒ぎまでありました。

 

しかしながら、イデオンとエヴァンゲリオンの基本構造は、同一です。

ただし、両監督の資質の違いのため、全く異なる作品となりました。それは、大きく言うと、両監督の性格の違いがそのまま出ているわけで、どちらも、批判されるいわれはありません。

 

この2作品の類似は、名前が共にギリシア語から来ているところからはじまり、実写の導入、テレビでの未完結、2部構成での映画公開まで、双子のように似ております。

 

我々視聴者としては、二人のアニメ史に残る監督が、全く同じ物語を自分の個性で誠実に作った結果、いかに異なる作品になったかを、その差異を楽しみながら、味わうしかないでしょう。同じ題材で、両監督に競作のように全力で作品を作ってもらうという贅沢が許されるのですから。

この2作品は、間違い無く両監督の個性の最良の部分が出ています。そして、日本のロボットアニメの到達点もこの2作品が示しています。

 

 

 

 


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