新世紀エヴァンゲリオンに見るフィリップ・K・ディック的手法

 

 yasuakiさんのご指摘により、『新世紀エヴァンゲリオン』が

「謎を散りばめ、手を広げ、話を膨らませすぎたがゆえに収拾がつかなくなった」
「基本的コンセプトを放棄して迷走」してしまった作品ではなく、

基本的には一貫した構想・テーマによって結末まで語られたものであり、

登場人物たちの行動は矛盾なく理解することができることが明らかになった。

しかし、物語の基本的要素であったはずの疑似科学的側面が後景に退き

物語のリアリティが急速に失われていくのも、また事実であると考える。

 これは従来、「構想の破綻」として説明されてきたが、yasuakiさんの議論を

踏まえるならば、庵野監督は場当たり的にエピソードを積み重ねていったのではなく、

細部まで計算していたことになる。そんな庵野監督が、「構想の破綻」などという

大失敗をしたとも考えられない。

 となると、物語のリアリティ喪失も、多分に意図的なものと考えることができるのではないだろうか。その際に参考になるのがフィリップ・K・ディックの方法論である。

 

 

T フィリップ・K・ディックに対する評価

 

 フィリップ・K・ディックは1960年代から80年代にかけて活躍したSF作家であるが、その作品は論理的・哲学的であり、SFというより観念小説に近い。ディックはSF界に留まらず、各界から賞賛を受けた異色の作家で、その作品は古びるどころかディックの死後も評価は高まる一方である。また、作品に奇妙な超現実的迫力を与えるその手法と、従来のSFの枠組みを超越したその深い思索性は、後進のSF作家に大きく影響を与え、後のサイバーパンクの形成に大きく寄与した。

 以下、ディックに対する評価を列記する。

 

 「フィリップ・K・ディックの描く未来世界は、我々自身の歪んだ鏡像だ。その歪みがそれをSFにし、そのイメージが急所をえぐりだす」――デーモン・ナイト

 

「ディックの作品には・・・もうかなり以前からSFというジャンルにほとんど姿を消し

た一つのスリルがある――つまり、あの奇怪で、怪しい真実の一端を、作者の創りあげた

超現実の中で捉えよう、組み伏せようとするスリルがあるのだ」――ジュディス・メリル


「ディックが書いているのは、小説ではなく、コミック・ストリップのコンテなのだ。彼

の書いているのは風俗小説ではなく観念小説なのだ。自分のアイデアを表現するためには

どんな荒唐無稽なナンセンスを利用することも辞さないのだ――それが読者の興味を引き

つけ、アイデアの積荷自体が無事目的地に到達できるかぎりは」――ジュディス・メリル

 

「ゆたかなスペキュレーションと、白昼夢を描いて背筋の寒くなるほどのシンボル操作能

力とを、あわせもつ作家」――アンソニー・バウチャー

 

「ディックがみごとに描いてみせる種類の世界に、わたしは住みたくない・・・・・・

もっと大勢の人々がディックの作品を読めば、わたしがああいう世界に住まなくてすむ可

能性が、それだけ強くなるのではなかろうか・・・・・・」――ジョン・ブラナー

 

(ディック作品の)主人公たちは、しばしば犠牲者であり、囚人であり、だれかに操られた男女である。彼らが、自分たちの見出した世界から、いくらかでも悪を減らすことができるかどうかは疑わしい。だが、できないとは限らない。彼らは努力する。たいていの場合、彼らは九回裏、引き分けのランナーを塁におき、ツー・アウト、ツー・スリーでバッター・ボックスに立つ。しかも、ゲームはいつ雨で中止になるかもしれない。だが、雨とはなんだろう? 球場とはなんだろう?

 ディックの主人公たちが動きまわる世界は、予告なしに取り消しや修正の起こりうる世

界である。現実は政治家の約束のようにあてにならない・・・・・・(中略)・・・・・・

しかし、苦闘はつづく。なんに対して? 最終的には、権力、悪霊、王座、圧制に対して

である。しかも、これらの力の所有者もまた、しばしば犠牲者であり、囚人であり、操ら

れた男女なのだ」――ロジャー・ゼラズニイ

 

「ディックはSFをエレガントで苛酷な心理ゲームに変えた。そこでは、伝統的な倫理や

伝統的な形而上学に疑いがさしはさまれる。そこではどんな行為も、果たしてそれが"実際

"起こったのか、果たしてそれが善なのか悪なのかを言いあてるのはむずかしい。ディッ

クがわれわれに理解させようとするのは、こういうことだ。どんな出来事も、それが夢で

あれ、"現実"であれ、そこに関わりあうものに苦悩をもたらす――そして、苦悩のあると

ころには、同情がなくてはならない」――ロバート・スコールズ


「よく言われるように、ディックが用いるSF的舞台設定、あるいはSF的大道具、小道

具は、とび抜けて目新しかったり、難解であったりすることもありません。いや、それど

ころか、ディックは平気で、通俗的とも言える設定や、玩具的なSFのアイデアを用いよ

うとします。ところが、それらありふれた素材も、ひとたびディックの手にかかると、な

ぜか極めてシンボリックなオブジェと化し、いつしか全体を、錯綜した悪夢そのままの宇

宙につくりかえてしまうのです。そして、まぎれもない<虚構>が、かえって<現実>と

<認識>の問題を鋭く、重く問い返してくることになるのです」――川又千秋

 

 

 さて、これらのディックへの評価は、他の誰かの作品にも当てはまらないだろうか?

そう、庵野監督の『新世紀エヴァンゲリオン』である。エヴァもディック作品同様、SFの殻を被った観念的・思索的な作品である。ディック作品における超常現象に対する空想科学的説明はいかにもこじつけめいて、最終的には人間の認識論へと帰結するのだが、エヴァもまた、ロボットだと思っていたエヴァンゲリオンが実は生命体だったり、バリアーだと思っていたATフィールドが「心の壁」だという話になったりと、SF的要素はどうでも良くなってしまう。どちらもSFは道具立てにすぎず、生きとし生ける者の心の問題に帰着する。抒情性のない乾いた描写から、逆説的に人間の情が浮かび上がってくる。

そのことを実証すべく、次章ではディックのSF作品の基本的な諸特徴を細かく見ていきたい。

 

 

U ディック作品のテクニック分析

@ありふれた道具立て、作り物めいた異様な世界観

 

  ディックはタイムスリップ、アンドロイド、異星人、予知能力、怪しげな宗教結社など使い古されたSFのアイデアを平気で物語の素材に用いる。SF特有の大道具小道具を徹底的に使い倒すその手法は、「SFというジャンルのセルフ・パロディ」とも評される。『ユービック』などは、ヴァン・ヴォクトの『スラン』の意識的なパロディとも言われる。

 それだけにディックの描く灰色の未来世界は、全く荒唐無稽で、いくら想像とはいえ、あまりにも〈あり得ない〉〈もっともらしくない〉印象を受ける。元ネタがありきたりすぎる上に、ディック独特の飛躍が加わるため、設定された舞台はどこか嘘っぽく、その上、グロテスクである。「コミック・ストリップのコンテ」(書き割り)とさえ言われる所以である。


A登場人物が病的

 

 ディック作品には、鬱病・分裂病・偏執病・統合失調症・神経症・自閉症など、精神を病んでいる人々が良く出てくる。また、他人に心を開かない人物も多い。ドラッグの依存症患者も常連だ。そして『暗闇のスキャナー』のような現実にモデルがいる作品を別として、作中人物はどれもこれも同じようなタイプの人間で個性がない。

 

B物語の鍵を握るキャラクターは人間そっくりだが人間ではないことが多い

 

ディック作品には、アンドロイド(と言っても機械仕掛けではなく有機生命体)や遺伝子操作によって人工的に生み出された人間が物語の鍵を握ることが多い。彼らは、外見上は普通の人間と同じため、見分けがつかず、物語の進行する過程で「人間でない」ことが発覚する。『ブレードランナー』の原作となった『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』などはその典型。

 

C物語の展開がナンセンス

 

 物語の論理的整合性を無視した、勝手気ままで強引な展開。謎を合理的に解決して話をまとめることを拒否するかのような、突き放した結末。お世辞にもプロットが巧みとは言えず、作品に一種の近寄りがたさを生み出している。あまりに目まぐるしい展開についていけず、イメージの洪水に呑まれて理解不能になる読者も少なくない。

 

 

D現実崩壊感覚と主人公のアイデンティティ・クライシス

 

 Cと密接に関連するが、二転、三転する展開の中で、当初の設定が無意味になり、物語の基本的枠組が崩壊する。物語世界の実態が、主人公が、そして読者が信じていたものと全く様相を異にすることが明らかになる。現実と悪夢が交錯し、両者の境界線が徐々に曖昧になっていく。確かな手応えがあったはずの「現実」が音を立てて崩れていく。このめくるめく白昼夢に覆われた感覚、眩暈にも似た強烈な現実崩壊の感覚を俗に「ディック感覚」と言う。全ての〈常識〉〈約束事〉は無効化し、物語世界は悪夢に包まれる。主人公は自分の拠って立つ精神的基盤、すなわちレゾンデートルを失い、深刻なアイデンティティ・クライシスに陥る。


 これらの諸要素は、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に通じるだろう。

@については、エヴァのパロディ、リミックス性は、早い段階から指摘されている。

Aの登場人物の病的性格と無個性は、既にyasuakiさんの論じるところである。

Bの人工的に作られた人ならざる人とは、もちろん綾波レイ、渚カヲルのことである。

Cの突飛な展開も、諸方面から手厳しい酷評を蒙っている。

Dは、yasuakiさんが明らかにしている。碇シンジら登場人物の多くが、そして視聴者の全員が信じて疑わなかった、「使徒は人類の敵である」という構図そのものが土壇場で覆され、カヲルを殺してしまったシンジは、何も信じられなくなり、アイデンティティ・クライシス、自我の崩壊に陥る。

このように、エヴァの手法は、ディックの方法論にかなり重なる。ここで重要となる

のは、ディックがどのような意図に基づき、上記の手法を採用したかということである。それが分かれば、庵野監督が一見不可解な@〜Dの手法を用いた理由も明らかになるであろう。

 

 

 

V ディック作品のテーマ分析

 

@現実の不条理性、怪物性

 

 先ほど「フィリップ・K・ディックの描く未来世界は、我々自身の歪んだ鏡像だ。その歪みがそれをSFにし、そのイメージが急所をえぐりだす」という言葉を紹介したが、ディックがあえてグロテスクでナンセンスな未来世界を描くのは、まさしく現代世界の諸問題を、現実の不条理性・怪物性を表現するためなのである。

 ディックの描く世界は、一見すると我々の住んでいる現実と全く似ていないが、その実、現実そのものなのだ。我々が気づいていないだけで、本当の現実社会は、グロテスクでナンセンス、そして嘘くさい。

ディックは現実の混沌と狂気を悪趣味なまでに誇張しただけで、非現実的世界を描いているわけではない。むしろ誇張したことによって、絶望的な圧迫感を私たちに与え続ける現実世界の真の姿をより明確に示しているのである。

ディックの作品世界への戸惑いと恐怖は、そのまま私たちの現実社会への違和感に繋がる。

 


A登場人物は作者の分身

 

 手法Aに見える精神を病んだ登場人物たちは、鬱病に苦しみ妄想に悩んだディックの分身である(よって、みんな似たような性格になり没個性的になる)。そのためかディックの登場人物への眼差しは温かい。彼らは〈異常〉だから精神を病んでいるのではなく、むしろ人間らしいがゆえに、非人間的な社会の圧迫の中で、心を傷つけられていったのである。自分に嘘をつけない彼らは、まともぶった連中より、親切で優しく、なんぼか真っ当な人間なのだ。

 

B人間とは何か

 

  人間のようでいて人間ならざる者たち、つまり手法Bのことだが、これは人間性を深く問うためのガジェットである。

多くの論者が言及していることだが、ディック作品に出てくる「アンドロイド」とは、機械的な行動パターンに侵された人間、内面的に疎外された人間の隠喩である。他人との接触を恐れ、内に閉じこもり、機械的・非人間的な生活を送っている人間の象徴である。

そんなディックの意図を端的に示したのが、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。ここでは外面では見分けのつかない人間とアンドロイドとの識別に感情移入度テストが用いられている。アンドロイドは一般に他者の喜びや痛みに共感することできず、それゆえに残虐であり、自分の生存のためには仲間も平気で裏切る。しかし感情移入度テストでは判別できないアンドロイドも出てきてしまう。

人間だと思ったらアンドロイドで、アンドロイドだと思ったら人間。そんな経験を続けるうちに、「人類社会の敵」として何の躊躇いもなく逃亡アンドロイドを殺戮してきた主人公リックは、次第に標的アンドロイドに同情し始め、重大な疑問に直面する。自分たち人間と彼らアンドロイドはどこが違うのか?

 人間よりも人間らしいアンドロイドがいる。一方でアンドロイドのように無慈悲な人間もいる。アンドロイドであるというだけで、「社会への脅威」として虐殺することは果たして正しいことなのか? 自分の仕事は、この社会は何か間違っていないか? リックはアンドロイド狩りに疑念を持ち始め、あまつさえ自分に協力するアンドロイドを愛してしまうのだ。そんな葛藤の中、リックは……

ここに至っては、神の創造物として自然に生まれてきたか、人工物として造られたかは、本質的な問題ではなくなる。感情移入できれば人間、できなければアンドロイド。逆に言えば、人間して生まれてきたとしても、感情移入能力がない者は真の意味で「人間」とは言えないということである。真の対立軸は人間/アンドロイドではなく、

人間性(親切=善)/アンドロイド性(冷酷=悪)なのだ。

人間は他人を傷つける。しかし愛することもできる。


C・D現実の不確実性・相対性

 

 ディック作品には「本物/贋物」のテーマが頻繁に現れる。別に意味もなく読者を惑わせているわけではなく、ディック一流の仕掛けだ。先ほど述べた「人間/アンドロイド」もそうだが、登場人物のみならず世界そのものが「ホンモノ」なのか「ニセモノ」なのかを我々読者は考えることになる。それはとりもなおさず、現実世界を問い直す行為である。

第2次世界大戦で日本とドイツが勝利した世界を描く『高い城の男』はその典型である。アメリカ美術工芸品のイミテーション、人種・経歴を偽る登場人物たち、「アメリカが勝った」という偽の歴史を書く『蝗』、そして枢軸側が勝つ虚構の世界……

ディックは作り物めいた、イカサマまみれの世界を描き、その中に<本物>と<贋物>を巧みに配置する。そうすることでディックは本物と贋物の境界線を曖昧なものにし、最終的にはその区別を無意味にしてしまう。絶対だと思っていた我々の現実世界が音をたてて崩れていく感覚――それは『ディック感覚』と呼ばれる。ディックは「真実」や「現実」の脆さを我々に突きつけてくるのだ。そして我々はあることに気づく。ディックの作り出す、リアリティの欠如したまぎれもない<虚構>の中に、まさしく我々の住む<現実>の怪物性が描かれていることに。

現実世界が悪夢の様相を呈した時、主人公はここが本当に現実なのか、それとも妄想(幻覚)なのかと思い悩むことになる。何が真実で、何がウソなのか? 我々は何を信じればいいのか? そもそもホントとかウソってあるのだろうか? これが夢じゃなくて現実だと、どうやったら証明できるというのだろうか?

 

これらの諸要素もまた、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に通じるだろう。

@…特にエヴァ後半のグロテスクな世界は、ディック的な悪夢世界と言えよう。

A…yasuakiさんが既に指摘している。庵野監督自身、認めている。

B…心を閉ざした綾波レイは、ディック的なアンドロイドに通じる。

  そして「使徒」であるカヲルが、シンジの最大の理解者になるという転倒も発生。

  「人間(ホンモノ)/アンドロイド(ニセモノ)」の境界線同様、

  「ヒト」と「シト」の境界線も、また曖昧なものであった。

  カヲルに好意を持ち、そして殺してしまったシンジは、自分のこれまでの殺戮行為に深い疑問を抱き、悩み苦しむ。

C・D…『新世紀エヴァンゲリオン』の世界そのものが、シンジの妄想なのではないか、

    という推測もなされるほど、エヴァの世界は脆く、頼りない。

 

 それでは最後に、これらのテーマに対し、ディックはどのような答えを提示しているのかを考察する。それは庵野監督の「答え」と重なり合うはずである。


W ディック作品の主張分析

 ディックの主張は主に2つある。

 

◎それでも現実を生きよう。

  

     絶望的な状況下で喘ぐ主人公たち。脆く不確定な現実。そして現実は全ての人間を弄

ぶ。しかしディックは現実を揺さぶり、我々の認識を転換させるだけに留まらない。圧倒的に不条理な現実を前にして、それでも逃避することなく勝ち目のほとんどない戦いを挑むことに、人生、そして人間の価値があると説いているのだ。

   この世界がインチキだったとしても、何かの生に喜び、何かの死に悲しむことはできる。不確かな現実の中で、絶望的な努力をする人間の姿。そこにディックは一縷の希望を見出している。

 再び引用。

(ディック作品の)主人公たちは、しばしば犠牲者であり、囚人であり、だれかに操られた

男女である。彼らが、自分たちの見出した世界から、いくらかでも悪を減らすことができる

かどうかは疑わしい。だが、できないとは限らない。彼らは努力する。たいていの場合、彼

らは九回裏、引き分けのランナーを塁におき、ツー・アウト、ツー・スリーでバッター・ボ

ックスに立つ。しかも、ゲームはいつ雨で中止になるかもしれない。だが、雨とはなんだろ

う? 球場とはなんだろう?

   ディックの主人公たちが動きまわる世界は、予告なしに取り消しや修正の起こりうる世

界である。現実は政治家の約束のようにあてにならない・・・・・・(中略)・・・・・・

しかし、苦闘はつづく。なんに対して? 最終的には、権力、悪霊、王座、圧制に対して

である。しかも、これらの力の所有者もまた、しばしば犠牲者であり、囚人であり、操ら

れた男女なのだ」


◎人間にとって最も大切なものは、他者への思いやりである。

    

    自分がいる(と思っている)この世界は現実なのか夢なのか、そんなことは関係

ない。認識論的に言って、我々人間には分かりっこないのだから。大切なのは、

自分が周りの世界から欲し、求め、得ようとする代わりに、周りの世界に何かを与

えようとしたかということだ。

仮に今自分がいるこの世界が現実だったとしても、他者への同情と共感がなければ、他者を思いやることができなければ、その生は無意味だ。生きているのではなく生かされているにすぎない。他者性無き世界は存在しないに等しい。

逆に、たとえここが夢の世界だとしても、あなたがその世界に主体的に働きかけているのなら、あなたは生きている。生きようとしている。

誰かに裏切られることもあるだろう。傷つくこともあるだろう。しかし、それでも人を愛したい。その思いこそが、我々の存立基盤なのだから。

     精神的・感情的な意味での他者との連帯こそが我々を絶望から救う唯一の手段だ。

  

 

     この2点は、まさに『新世紀エヴァンゲリオン』の主張でもある。

   現実は苛酷である。共感ボックスやマーサー教の精神融合が結局のところ、人々

  の孤独を埋めることができないように、人類補完計画もまた、人々の心を救済する

ことはできない。

庵野監督は映画版において、エヴァという「オタクのユートピア」に夢中になる

ファンを諷刺するシーンを入れ、ファン=オタクに冷や水を浴びせかけるように「厳しい現実に帰れ」と説いた。ディック作品においてドラッグに耽溺する者たちが最後には地獄を見るように、エヴァという麻薬にハマって抜け出せないオタクにも悪夢が待っているのである。

 また映画版の終盤では、神となったシンジは「他人のいないユートピア」より

も、「傷つけ、傷つけられるけれども、他人のいる世界=現実」を選択した。

 

 そして映画は、アスカのシンジへの「思いやり」という形で、幕を閉じる。Yasuaki

さんが解釈した通り、この難解なラストシーンは、シンジを哀れに思ったアスカが、

シンジの頬を撫で、そのとたん、シンジもその意味がわかり、泣き伏すというもの

である。そこにあるのは思いやりであり、同情であり、共感であり、愛である。

やがてシンジも「思いやり」の大切さに気づくだろう。その時、シンジは「僕は、

ここにいてもいいんだ!」と理解するはずだ。それは1つの希望である。

まごころを君に。


 少し話が脱線するが、『電波男』の本田透は庵野監督について、エヴァのファン

を見捨てたと批判している。本田によれば、庵野は現実世界(三次元世界)を虚構世

(仮想世界=二次元世界)の上位に置く保守的な一元論者にすぎず、結局は「恋愛

資本主義」という現代社会の常識から抜け出すことができなかったという。

しかし、既述のように庵野監督の考えを捉え直してみると、本田の批判が実に皮

相なものであることが理解される。現実と観念が整然と区別できるなどと庵野監督は楽観しているわけではない。そうではなくて、どんな世界にいようとも、人間には思いやりと愛が必要であることが言いたかったのである。

 オタクの「萌え」は一方的な欲望であり、思いやりではない。「萌え」で満たさ

れた世界は、所詮は快適な牢獄でしかなく、外に開かれることはない。変化と発展

の可能性のない、自閉された空間なのである。庵野監督はオタクたちのそうした心

のあり様を批判したのである。

 

再び引用。

「ディックはSFをエレガントで苛酷な心理ゲームに変えた。そこでは、伝統的な倫理や

伝統的な形而上学に疑いがさしはさまれる。そこではどんな行為も、果たしてそれが"実際に"起こったのか、果たしてそれが善なのか悪なのかを言いあてるのはむずかしい。ディックがわれわれに理解させようとするのは、こういうことだ。どんな出来事も、それが夢であれ、"現実"であれ、そこに関わりあうものに苦悩をもたらす――そして、苦悩のあるところには、同情がなくてはならない」

 

 

X おわりに

 

以下、長々と考察してきたが、一見不可解で場当たり的な『新世紀エヴァンゲリオン』の舞台設定と物語展開が、その主張を効果的に表現するために周到に計算されたものであることが明らかにできたのではないかと思う。大方の批判を仰ぎたい。

 

「あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永遠に変わらない」

(フィリップ・K・ディック)

    


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