ここでは、エヴァの中において、旧約聖書において語られている
・ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われたこと。
・ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をすること。
・知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれること。
以上、3つの設定がそのまま生きていることを確認します。
なお、その他の点(アダム関係、ATフィールド)については別論するためここではふれません。また、聖書の内容が全てエヴァに反映されているとか、現実のキリスト教やユダヤ教が反映されているとかいいたいのではありません。あくまでも、上記のような旧約の、人間と神との関係を示す3つの基本設定が、エヴァの中でもそのまま生きていることを確認したいのです。
<科学が罪であり、人類は楽園を追われたということ>
まずは、エヴァにおいて科学がどのように位置づけられているか拾ってみると、
1話ミサト「やっぱ、クーラーは人類の至宝。まさに科学の勝利ね」
11話マヤ「さすがは科学の町。科学万能の時代ですね」
青葉「古くさいセリフ」
20話ミサト「人ひとり救えないで何が科学よ」
というように、科学の力、文明の勝利をしつこく喧伝する一方、その無力についても語られています。ミサトやマヤが科学について語る時は、あくまでも科学が実用の役に立つかどうかなのが問題となるのに対し、ゲンドウや冬月は、常に人間の罪とからめて語ります。
12話ゲンドウ「(セカンドインパクト後の南極を見て)だが、原罪の汚れなき、浄化された世界だ」
12話ゲンドウ「科学は人の力だよ」
冬月「その傲慢が15年前の悲劇、セカンドインパクトを引き起こしたのだ」
17話ゲンドウ「かつて楽園を追い出され、死と隣合わせの地上という世界に逃げるしかなかった人類。その最も弱い生物が、弱さゆえに手にいれた知恵で作り出した、人類の楽園だよ」
ゲンドウの言う原罪とは、人間が知恵の実を食べ、科学を手に入れたことです。つまり、楽園を追い出された人類は、その知恵(科学)に頼って発展してきたのです。
<生命の木に近づこうとすると、神の使い(使徒)が現れて邪魔をするということ>
科学の発展は罪であり、人間が科学により生命の神秘(生命の木)に挑むとき(人間が神になろうとするとき)、神から罰を与えられることになるでしょう。
科学の力が、停電という事態によって突如無力となる12話にて、シンジは思います。
12話シンジ「ねえ、使徒ってなんなのかな?」
アスカ「何よ、こんな時に」
シンジ「使徒、神の使い。天使の名を持つ、僕らの敵・・・なんで戦うんだろ」
アスカ「あんたバカ?ワケわかんない連中が攻めて来てんのよ。降りかかる火の粉は取り除くのが、あったりまえじゃない。」
そして12話ラスト
シンジ「電気、人工の光がないと、星がこんなにきれいだなんて、皮肉なものだね」
アスカ「でも、明かりがないと、人が住んでる感じがしないわ」
レイ「人は闇を恐れ、火を使い、闇を削って生きてきたわ」
アスカ「てっつがくぅ」
シンジ「だから人間って特別な生き物なのかな?だから使徒は攻めてくるのかな」
アスカ「あんたバカ?そんなのわかるわけないじゃん」
なんと、この時点で、シンジは科学の発展の傲慢(知恵の実)が、使徒が人間を攻撃する理由であることに、偶然にも気づいていたのです。レイが、めずらしく感傷的にも聞こえる言葉を語った真意も同じでしょう。それに対し、この重要問題にあまりにも無自覚なアスカが、25話において科学(火)を人間にもたらしたプロメテウスと同じ罰を与えられたのは偶然ではありません。
使徒は人間が生命の木に近づくのを阻むために現れます。逆に言うと、人間が科学の力により使徒を全て倒せば、生命の木へ到達できるのです。
(注)なお、使徒についてのミサト発言はまた別論します。
23話ゼーレ「ついに第16の使徒までを倒した」
ゼーレ「これでゼーレの死海文書に記述されている使徒は、あとひとつ。」
ゼーレ「約束の時は近い」
このことは、オープニングの冒頭において、生命の木を守るケルビムの絵につづき、生命の木(セフィロトの木)が現れることでも表されています。
<知恵の実と生命の実を手に入れれば、ヒトは神になるということ>
全ての使徒を倒し、12体のエヴァ(これについては別論)が完成したときが、約束の日となり、生命の木が現れます。これに到達すれば、知恵の実と生命の実がそろい、ヒトは神となります。
26話冬月「使徒の持つ生命の実とヒトの持つ知恵の実。その両方を手に入れたエヴァ初号機は神に等しき存在となった。」
以上のように、旧約聖書における
・ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われたこと。
・ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をすること。
・知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれること。
という3つの流れは、エヴァンゲリオンにおいてもほぼそのまま用いられていることがわかります。
<参考>
1.ヒトは知恵の実(科学)を手にいれたが、それは罪であり、人類は楽園を追われたこと。
2.ヒトが生命の木に近づく前に、神の使い(使徒)が現れて邪魔をすること。
3.知恵の実と生命の実を合わせれば神と同等になれること。
この3点の、旧約聖書における対応部分を一応示しておきます。
1は、創世記第3章における、
「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となる」と蛇が言っている木の実を食べてしまい、神の怒りをかう場面。
2は、創世記第3章末尾における、
「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎の剣とをおいて、命の木の道を守らせた。」という記述。
3は、同じく創世記第3章末尾手前の、
主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知る者となった。彼は手を伸べ、生命の木からもとって食べ、永久に生きるかもしれない」という記述。
以上3点です。