Zガンダム公開に向けて

 

ガンダムの映画公開まであと一ヶ月となった。
ここでは、簡単に、Zガンダム公開に向けて、思いつくことを書いてみる。

1.ガンダムブームからZガンダムへ
ガンダムブームの頃、続きを見たいという気持ちは多少はあったと思う。
それは、例えば、「シャアはあの後、生き延びたのだろうか?」という気持ちであったりした。
しかし、一方では、もうこれ以上、ガンダムが作られることはありえないことも理解していた。
なぜなら、ニュータイプが人類の相互理解につながる以上、戦いはなくなる方向
になるが、それは、ロボットアニメ産業という世界では表現できない世界だからだ。
当初は、ガンダムの続編は、当然、作られないという話になっていたと思う。

その後、ダンバイン、ザブングルなど富野監督はいろいろ作り続けたが、自分は、むしろリアルロボット路線の継承である高橋監督のダグラム、ボトムズといった作品にはまっていった。

しかしながら、ガンダムの続編は作られた。
しかも名前は「Zガンダム」。
ガンダムの最終作であることを明確にした名称だった。

この時、私は、まさに期待と不安の入り混じった気持ちで放映開始を待った。
もっとも、ガンダムブームはすでにとうに終わっており、世間一般の目は冷め切っていたと思う。
ガンダムブームにいくらはまっていた人でも、Zガンダム放映時に注目していた人は、限られていたのではないか。
いや、ある意味、ガンダムが本当に好きだった人ほど、続編が作られたことに対して、うさんくさい目を向けていたのかもしれない。
それまでに、大量の在庫がはけず、ガンダムのプラモ関連の会社が倒産したことも話題になっていたからだ。

実は、私も、途中から次第に見なくなっていた。
理由は・・別に商業主義がどうとか、ご都合主義がどうということでは無かった。
・結局、ニュータイプの出現は世界を何も変えなかったことが確認できたこと。
もちろん、そうでなくては、ロボット戦争アニメを作りようがないため、Zガンダム放送決定時に予期していたことではあった。
・強化人間の出現も、ニュータイプが単なる兵器の枠を超えないことを印象付けた。
ニュータイプとの違いは、精神的な不安定さや、人造による悲劇性以外には汲み取れなかった。
そして、強化人間という設定自体、すでに他のロボットアニメなどで出ていたため、目新しさがないどころか、「結局ニュータイプの続編が強化人間で他のアニメの後追いか・・」というアイデア面での限界を感じた。
・1年戦争の時と比較すると、小競り合いであった。
・富野監督特有の、残酷なシーンが、冒頭から出ていた。ガンダムでも、私は特攻シーンが見ていて嫌だったのだが、Zでは、カミーユの母の死に方などがとくに嫌であった。
・カミーユがオーラのようなもの力を発揮するシーンなど、ガンダムというより、エスパーもの路線を感じさせた。
とくに、映像表現が、当時ブームになっていた北斗の拳のオーラのような気もした。もっとも、同じものは、当時の他のロボットもの、レイズナーなど見ていても戦闘シーン(人間の)でも感じたが。
また、富野監督は、もともとエスパー系(本人の表現ではオカルト)的な力に関心が強い人だったので、ある意味、ガンダムの成功で、続編では自由に作れたということかもしれない。
・話全般に閉塞感があった。


そして、「Z」で終わりだと当然思っていたところが、「ZZ」と続くとわかった時には、ほとんどパロディとしか思えなかった。
「ZZ」もとりあえず見始めたが、大きな路線変更による明るいキャラといい、「ZZ」という名称といい、「アニメじゃない」という連呼といい、つくづく、ガンダムは第一作だけで、その後の作品とは別枠で考えるべきだなーと思った。

「逆襲のシャア」の頃には映画に見に行きもしなかった。


2.Zの見なおし
さて、ガンダム(というかロボットアニメ)自体から離れていたが、数年後、たまたま、再放送で
Zガンダムを1話だけ見る機会があった。
その話は、以前リアルタイムで見ていたか話かどうかは覚えていなかった。
しかし、その時みた感じだと、本当に高品質な作品だと感じられたのがショックだった。
自分は、アニメやゲームを見る眼力には自信があったのだが、以前、Zガンダムをまともに見続けられなかったのは、
そして、今になって興奮したのは、一体、何だったのか。

もしかして、ガンダムへの思い入れが強すぎて、以前は、Zガンダムを素直に見れない面があったのかもしれない、と思った。


もっとも、もう一度Zガンダムを見直そうとまでは思わなかった。いつの日か、もっともっと、自分の頭から
ガンダムのイメージが忘れ去られた時に、見てみたいと思った。

3.エヴァンゲリオン以降
次にロボットアニメを見始めたのは、エヴァンゲリオンのブームであった。
この時に、関連作品のひとつとして、イデオンを全話見返してみたのだが、子供の頃にはわかっていなかった、
奥の深さと凄みが感じられた。

そして、後に富野監督の他作品も見直すことにした。
「ザンボット3」は、一体これで何がいいたいのだろうかという展開が散々続いた後、最後まで見て、すべてが布石だったことに気づきショックを受けた。
「逆襲のシャア」も盛り上げ方などはいいと思ったし、小説版「逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」にいたっては涙が出た。

イデオンにしろ、ベルトーチカ・チルドレンにしろ、子供が見たり、読んだりするものではなく、子供を持つ年になって初めて感動できるように作られている作品だと、今でも思う。

ここにおいて、自分の中で、富野監督の復権がはじまった。

エンターテイメント作品としては、「機動戦士ガンダム」に比較できるものはないが、他の面で、「機動戦士ガンダム」より優れているものはいくつもある、と今では思っている。
むしろ、「機動戦士ガンダム」は、単なる、とてもよくできたエンターテイメント作品に過ぎないとすら思うようになった。

もうひとつ、気づいたことは、手塚治虫作品との関係である。虫プロ出身であること以上に、富野監督は、手塚作品の、ある面での後継者であるという気もしてきた。(これについても、詳細は別途まとめたい。)

ガンダムについていえば、私の中では「機動戦士ガンダム」は、それ1作ですべての作品である。
「ファースト・ガンダム」という、シリーズを前提とした言葉は、使いたくないほどである。
ガンダムは、後にも先にも「機動戦士ガンダム」だけだ。

ただし、その後の富野監督のガンダム諸作品を無視するわけではない。
むしろ、シリーズとしての流れは軽く記憶しておくぐらいにして、「機動戦士ガンダム」同様に、
できるだけ単体作品として、見る方が、おそらく、良さがわかるのではないだろうか。

もっとも、富野監督独特の、あの残酷な、かつ、不要なキャラの殺し方など富野作品にも嫌な面も今でもある。
ただし、一方では、ロボットアニメという場において、視聴者に厭戦気分を起こさせる作品作りを行っているということ自体は、一概に否定しまえばいいというものでもないと思う。このへんも作品の良し悪し次第で評価も変わるところだろう。(ザンボット3やイデオンでは、それが必須な面もあった)


さて、富野監督も、変わりつつあるようだ。自律神経失調障害で倒れ、復帰後、イデオンについてさえ、癒しの要素を今なら入れると言ってみたりしている。
(もっともイデオンについては、私は不要なキャラ殺しがあるとは思わない)


以上のような状況の中、富野監督が、「Zガンダム」を再映画化するという。
しかも、「機動戦士ガンダム」同様の3部作。
そして、再作成の部分も多いという。
なんと、「家族連れでも楽しめる」とまでアピールしているらしい・・

年齢的にも、ネームバリュー的にも、富野監督が3部作でガンダムを作るなどということはこれが最後だろう。
そして、テーマも、本来、それが最終作であるはずだった「Zガンダム」。

こう聞けば、とる選択肢は1つしかない。
Zガンダムについて、複雑な思いはあるものの、富野監督の優れた資質が十分に発揮される、アニメ史に残る傑作が生まれることを期待するしか。

そして、そのために、ガンダムを中心とした富野作品を再度見直すホームページを作ろうと思った。
よって、このページでは、無理にガンダム世界の全作品を含めた年表を作るぐらいなら、むしろ、
ガンダムを中心にしながらも、富野監督の諸作品における作品相互の関係に注目することになるだろう。
ガンダム作品全体で「ガンダムシリーズ」と一括するよりは、そのほうが遥かに意味があることだという思いは変わらない。

例えば、富野監督と、他の監督とのガンダムシリーズの違いを論じるより、むしろ、富野監督のガンダム作品群と、高橋監督や、庵野監督の作品群と比較することになるかもしれない。
そして、たぶん、最も徹底的な比較を行うべきだと思うのは、実は、宮崎駿監督の諸作品である。また、先ほども言ったが、手塚作品の後継者であり、ライバルであった側面にも注目したい。

こういうわけで、この「ガンダム」ページは、他の「ガンダム」ページとは、若干違う雰囲気をかもし出すかもしれない。
最終的には、「機動戦士ガンダム」や「Zガンダム」と真に比較するべきものは、現在まで続くガンダムシリーズではなく、他の富野作品であり、宮崎作品であり、手塚作品であり、ヤマトでありエヴァであるというようなところまで整理していけたらと思っている。

さて、それはともかく、あと一ヶ月で、映画「Zガンダム」は公開される。
3部作が終わったとき、このページを作って良かった、富野監督はやはりすごかった、と言えることを期待して・・

 


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