*以下は、2006年3月4日にブログに書いたものです。
明日で、いよいよZガンダムの映画も完結です。
しかし、その前に、自分がこれまで20年間、TV版のZガンダムで考えていたことを吐き出してしまおうと思います(おおげさか・・)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
端的に言って、Zガンダムは、誰と誰が、もしくはどの組織とどの組織が何のために戦う物語なのでしょうか。
昔、Zガンダムのボードゲームで面白いものがあり、カードを見ないと、自分の目的がわからないのです。当然、相手のカードは見えないため、相手が何をしたいのかもわかりません。お互い、相手の狙いは何なのかよくわからないまままに、戦うことになります。
Zガンダムにおける組織の特徴(目的や役割が不明)をよく表現したルールでした。
普通にテレビを見ていると、エゥーゴ、ティターンズの区別はまだわかりやすいのですが、ネオ・ジオンやらシロッコやら、(普通の)地球連邦やらカラバやら・・と見ていくとかなり錯綜してきて、「この組織は何をしたいんだっけ?」という気持ちになります。
そして、「これほど多数の組織を登場させて、作者は何を表現したいんだろう・・?」と考えさせられます。
例えば、何故、シロッコが最大の敵なのか?ジェリドはカミーユのライバルなのか?
アニメ雑誌など読むと、それぞれの組織の位置づけなどは一応のっていて、それらしい理由もかかれています。
それを読むと、てっきり、それぞれの組織には異なる目的があり、戦う理由が明確にあるかのような錯覚を覚えます。
「ティターンズは、もとは地球圏の安寧を守るため、ジオン残党狩りのために作られた連邦内のエリート組織で、宇宙生活者全てを圧するようになり〜」というようなアニメ的な説明でも、Zガンダムを初めて見た頃の、中学時代の私なら、面白いと思ったかもしれませんが・・
しかし、TV版を丹念に見ていくと、「??」というシーンがいろいろあります。
一番キーになるのは、シロッコがジャミトフの真意を説明するシーンで、それを聞いたジェリドやマウアーは、「それじゃエゥーゴと同じじゃないか??」と言います。
私は、これがZガンダム理解の最大のキーになる真実のひとつだと考えます。
つまり、各組織には、実は、戦う理由はあまりない、ということです。
カミーユが、シロッコをあれほど憎む理由もないはずなのです。
エゥーゴとティターンズが何故戦うのか、シロッコとティターンズの関係はどうなっているのか?など、あまり真面目に考える意味はないと思います。
では、あれほど多数の組織が壊滅するまで戦うことを通して、作者は何を表現したかったのでしょうか?
まず、各組織の目的は忘れ、Zガンダムの企画書を読み直すと・・(このへんが、大人になってしまった私ですね・・)
「組織と個人の軋轢を見上げる少年を通して人の意識の膠着性を見る」ことが演出上のテーマとされています。
つまり、各組織は何故戦うのか、ティターンズとエゥーゴはなぜ戦うのかというレベルで考えては、作品理解のポイントがずれてしまうのです。組織間の闘争劇ではなく、「組織と個人の軋轢」や「人の意識の膠着性」がポイントなのです。
企画書のテーマ設定にしたがい、あくまでも、個人と組織の関係で全てとらえなおすと・・
人間関係が2つの軸で整理できるような気がします。
組織と個人との関係および、時間軸の2つです。
@組織における個人の感情・・テーマ1:組織と個人の軋轢の問題
「怒りを爆発させることが事態を突破する鍵になるかもしれない」というシャアの言葉そのものです。
つまり、怒りを見境なく爆発させる主人公カミーユ。
彼の特徴は、後先考えずに組織に対する怒りを暴発させることです。
その対極に位置するのが、自分より弱そうな相手にのみ殴りかかり、一方では生真面目に自分を抑えながら、どれほど騙され、バカにされながらもステップアップを図り続けるジェリド。彼は、最後はティターンズのトップのジャミトフのおつきにまでなります。
この「組織と個人」という観点で見てこそ、ジェリドがカミーユのライバルである真相がわかります。エゥーゴとティターンズや、モビルスーツの操縦スキル、ニュータイプへの覚醒度などが問題なのではなく、組織に対する個人のスタンスこそが、二人をライバルたらしめているものなのです。(詳細はジェリドというバカが何故世界を導けるのかを参照。)
また、組織の中で、自分を隠し続けるシャア。
彼も、カミーユから、「そんな大人、修正してやる!!」と殴られることになります。
とにかく、組織において、個人的な感情を抑制することはカミーユの激情の標的になります。
A時間軸(過去にしばられる人々)・・テーマ2:人の意識の膠着性の問題
Zガンダムでは、過去にしばられる人々が多数登場します。
1年戦争後鬱屈しているアムロ。(TV版での鬱屈度は相当でした)。同じく、シャア。
彼らが1年戦争のような活躍を見せることはありません。
そもそも、Zガンダムのテーマのひとつは、1年戦争からの7年という時の重みでした。
しかし、なんといっても代表はフォウ・ムラサメでしょう。
彼女は、記憶そのものを奪われることによって、過去を知りたいがために、完全に組織の言いなりになるしかないのです。
同じく、ニセの記憶を作られるロザミア。
シャアに捨てられた(?)記憶を振り払うように戦うハマーン・カーン。
つまり、Zガンダムというのは、組織や過去のしがらみのなかで、どこまで自分の感情を発露させ、突破できるかというのがポイントなわけです。
それこそ、テーマ曲であった「Z刻(とき)を超えて」というタイトルのままです。
<シロッコ>
さて、問題のシロッコです。
彼は、なぜZガンダムにおいて、最強で最後の敵なのでしょうか?
それは、上の2軸から見ればわかります。
@組織における個人の感情・・テーマ1:組織と個人の軋轢の問題
・彼は、カミーユのように怒りを爆発させるわけでも、シャアのように感情を隠すわけでも、ジェリドのように歯を食いしばって努力するわけでもありません。
組織を完全にバカにし、顔をたたかれても、笑っています。
彼にとって、組織は、ただ演技する場所でしかありません。
そもそも、彼にとって、怒りを表現することは、戦場であっても、下品なことなのです。
彼は、感情を出さないことにこそ、人間の品性を見ます。
A時間軸(過去にしばられる人々)・・テーマ2:人の意識の膠着性の問題
シロッコは、過去を見ません。
彼に関心があるのは、未来だけです。
過去に囚われている人々は、感情を吐き出す人同様、彼にとっては、汚いものです。
そして、レコアのように、「辱め」を受けた過去につらい思いを抱く女性は、シャアのように過去に引きずられ感情を抑制する男から離れ、シロッコの元に走るのです。
こうしてみると、シロッコが、Zガンダムにおいて最大で最後の敵な理由は明白でしょう。
カミーユに代表される、組織において感情を発露させることで事態を突破するという作品テーマから、最も対極にいるのです。
そして、シャアやアムロ、フォウやロザミア、レコア、ハマーンのような、過去の思い出に苦しみ、そこから逃れようと努力する人々とも最も対極にいます。
だからこそ、シロッコこそが、この作品の最強で最後の敵だったのでしょう。
さて、こういった観点でみると、実は、エゥーゴだのティターンズだの、ネオ・ジオンだのという組織構成は、どうでもいいことがわかります。
あくまで、個人と組織の関わり、各個人における過去と未来の関わりこそが、Zガンダムにとってのテーマだったわけです。
富野監督自身、エゥーゴとティターンズが戦う理由なんて、どうでも良かったのだと思います。だからこそ、上述のように、「エゥーゴもティターンズも同じ」というセリフがポロッと出てしまったのでしょう。
<最後に>
Zガンダム=TV版だった時代も、今日が最後です。
映画版では、これまで書いてきた点は、きれいに、ほぼ全て取り除かれています。
シロッコの説明も、レコアの辱めも、カミーユの暴発も、アムロの鬱屈も、シャアのセリフも・・
それは、映画のテーマが、TVとは異なるところに変更された帰結です。
富野監督は言います。
「もし、テレビそのままのまとめ方だったら、かつてのファンには、自分の中・高校時代の気分をのぞくだけになって好きになれなかったでしょうね。
カミーユのあの鬱屈する、ビビッドな少年の「気持ちはわかるよね」では、20年という時間とキャリアを経たファンには気持ちがいいとは思えません。
だから、そんな人が自分の子供に見せてもいいようなものを作ってみせようと思ったんです。」(スカパー2月号インタビューより)
中学時代にZガンダムを見、今回の映画は子供を連れて行こうとしている、まさに私をターゲット(?)にしたような映画化であり、テーマ設定の変更であることがわかります。
Zガンダムの最終回を見てから20年。
その、20年間という刻(とき)を超えて、組織の中で(怒りを爆発させることなく)キャリアを経たファンを気持ちよくさせてくれる映画ラストとは、どのようなものでしょうか?
それは、テレビ版とは異なる、どのようなテーマが表現されているのでしょうか?
いよいよ、明日公開です。
(うっ・・書き終えて気付いて見ると0時過ぎている・・いよいよ今日公開だ)