Zガンダム論

 



第一章 サイコガンダムとZガンダムは何が違うのか

「起動戦士ガンダム」においては、ガンダムはただ1機種であった。
Zガンダムにおいては、ガンダムMk-Uという後継機をはさんで、サイコガンダムとZガンダムが出現する。

ここで、まず、ガンダムとガンダムMk-Uは何が違うのかを考えよう。
ガンダムの特徴は何だったか。
ジオン軍は一言でこういっていた。

「白いモビルスーツ」

白い色こそ、ホワイトベースとともに、ガンダムのイメージを明確にしていた。もちろん、これは、視聴者に対して、わかりやすく「正義」を象徴していたとも言える。

ところが、ガンダムMk-Uの色は、言うまでもなく黒い。
そして、このことこそ、Zガンダム開始当初に最も注意し、驚かなくてはならない要素であったことは、第一回の題名が「黒いガンダム」であることからもわかる。

なぜ、ガンダムMk-Uは黒いのか?
もちろん、初代ガンダムの白さが、主役機と正義の目印であったように、ここでは、これが主役機ではないことと、正義とは言えないことを視聴者にイメージさせようという意味もあるだろう。

しかし、物語でより直接的に言えば、これは、「ティターンズ」の色だからである。ティターンズは、制服も黒である。
そして、ティターンズという名前はギリシア神話における神々をあらわしている。言うまでもなく、地の底に投げ落とされた、古い神々のことである。
つまり、ティターンズが、意味しているのは、古さと大地であり、だからこそ、色は黒い。
重力に魂を引かれた人々を示すのに、これ以上のイメージはあるだろうか?
そう考えると、ガンダムMk-Uの色が黒いことは、とても、重要な意味を持つ。それは、重力に引かれること、ニュータイプを拒絶することを意味するからである。(もちろん、エゥーゴに行ってから白くなる)

ここまで考えると、Zガンダムとサイコガンダムの違いがようやく見えてい来る。
Zガンダムは白いが、サイコガンダムは黒い。
そして、Zガンダムは、すばやく変形して飛行形態をとり、一瞬でまたモビルスーツ形態に戻る。つまり、軽さとスピードのイメージがある。
それに対して、サイコガンダムは、変形もするし飛びもするが、あきらかに鈍重なイメージを与える。その巨大さと重さ、そして黒さとの組合わせは、ガンダムMK2よりも、あきらかに、重力のイメージである。

この問題は、パイロットを見るといっそうはっきりする。
カミーユは、激情を爆発させながら、親元を離れ、コロニーを離れ、宇宙へと上った。そして、自由にZガンダムを動かす。

シャアが自分について語ったコメント通りである。
「個人的な感情を吐き出すことが、事態を突破する上で、一番重要なことではないのかと感じたのだ」(クワトロ・バジーナ)

一方、サイコガンダムのパイロット、フォウ・ムラサメは、強化人間として縛られており、動きがとれない。しかも、記憶を奪われており、自己のアイデンティティすら持てずにいる。
フォウも激情を爆発させるが、彼女の怒りや悲しみは、カミーユのように事態を突破することにつながらず、サイコガンダムのパワーを爆発させること、そして敵を倒すことに固定化されてしまう。

「フォウ、宇宙へ行こう。エゥーゴの技術なら君の記憶を取り戻せるよ!」(カミーユ)
「研究所で治せなかったことを宇宙で治せるものか!」(フォウ)

もう一人のサイコガンダムのパイロットであるロザミアも、やはり記憶を操作されている。

「見つけた!お兄ちゃん!!」(ロザミア)

こう考えると、Zガンダムとサイコガンダムの違いが見えてくる。
Zガンダムは、白く、軽く、高速に変形し、パイロットに行動させる。
サイコガンダムは、黒く、重く、パイロットの記憶を操作して過去にしばりつけ、パイロットの感情を利用して単なる兵器の一貫に組み込んでしまう。

つまり、サイコガンダムは、黒さと重さ、巨大さを通して、地球にこだわること、過去の記憶にこだわること、抑圧されて動きがとれないことを示しているのである。

(また、私見だが、サイコガンダムという名称には、精神でサイコミュを動かすと言うPsychoの他に、漢字で言う「最古」の意味もあるのではないだろうか?
なぜなら、ティターンズが最古の神々である点、サイコガンダムは日本のムラサメ研究所で作られた点が理由である。)


つまり、サイコガンダムにおいては、以下のイメージが連鎖しているのだ。

ティターンズ=黒=魂を重力に引かれた人々=大地=過去=記憶=古さ

これらのイメージが、サイコガンダムとそのパイロットを支配する。

サイコガンダムは、人を解放せず、魂を押さえつけるマシンなのである。

それでは、変形し、飛翔する白いモビルスーツ、Zガンダムはどういうマシンなのであろうか。

Zガンダムの特質を考えるには、シロッコとの戦いは外せないだろう。

「俺の体をみんなに貸すぞ!!」(カミーユ)

カミーユは、死者も含め、様々な思念と同調する。

「Zガンダムは、人の意思を吸い込んで、自分の力にできるのよ。」(エマ)

Zガンダムは、思念と共感し、開放するマシンなのである。

ここにおいて、Zガンダムとサイコガンダムはその対比をより鮮明にする。

エゥーゴ=白=宇宙に出る人々=宇宙=未来=新しさ=ニュータイプ
ティターンズ=黒=魂を重力に引かれた人々=大地=過去=記憶=古さ=オールドタイプ(強化人間)

このように見れば、なぜ、同じガンダムという名前がつくマシンが、相次いで
2系統登場したのかわかるだろう。

そして、なぜサイコガンダムは黒く巨大なのか、なぜフォウ・ムラサメは強化人間であってニュータイプでないかもわかるだろう。

つまり、全ては、同じ「ガンダム」という名称をつけることで、その正反対の特質を明確にするためなのである。


このことを別な角度から考えてみよう。サイコガンダムとZガンダムは何が違うのか?
アナハイムの技術者やムラサメ研究所の技術者なら、様々な説明を思いつくだろうが、ここは、富野監督のいくつかの言葉を拾ってみよう(富野語録より)。

・サイコガンダムについて
「理論を守ろうとするとあんなもん出したくなくなるんでしょうけど、ロボットアニメっていうのはああいう絵が一番似合うんじゃないかなって思っています」

・モビルスーツとモビルアーマーの違いについて
「今度の変形がでてきてもうわからなくなりました。」

・Zガンダムの変形の意味について
「物理的にはありませんが、映像的にはあります。飛行型の方が早そうに見えるから変形させています。」


「機動戦士ガンダム」においては、インタビューで驚くほど丁寧に技術考証の話をしていた富野監督が、サイコガンダムやZガンダムにおいては、一貫して、現実感より絵としてのイメージを
問題にしているのがわかる。
もう、前作のように、モビルスーツ、モビルアーマーという区分にも意味はない。
宇宙で変形して飛行形態をとることの現実的な意味もない。
あくまでも、モビルスーツが表現しているイメージが重要なのである。黒と白、重さと軽さ、抑圧と飛翔・・

そして、これは、「Zガンダム」が「機動戦士ガンダム」から決定的に離れた瞬間でもある。

そもそも、「機動戦士ガンダム」というのは、それまでのロボット物と異なり、リアルな戦争ものを描いたところに特徴があった。
何よりも、ガンダムというのは、誰でものれる単なる兵器にすぎなかったのである。

ガンダムMk-Uもそうであった。その意味で、ガンダムの正しい後継だった。

ところがZガンダムとサイコガンダムは違う。
乗る人を選ぶし、機能を全開させることは、個人の自我の崩壊をもたらす。
そして何よりも、アナハイム社が設計し、装備した機能をはるかに超えたパワーを、パイロット次第で発現することが可能なのだ。

「私の知らない武器が内蔵されているのか!」(シロッコ)
「わかるまい!戦争を遊びにしているシロッコには、俺の身体を通して出る力が!」(カミーユ)

シロッコの攻撃を、死者の思念も含めた精神エネルギーで全て跳ね返す時、これは、もう、モビルスーツによる戦争の世界ではない。「機動戦士ガンダム」とは全く別の世界である。

では、ガンダムという兵器を、サイコガンダムとZガンダムという対立するイメージに分化し、「機動戦士ガンダム」の世界観を壊した時、「Zガンダム」の世界はどうなったのだろうか。

モビルスーツの世界だけで言えば、先ほども言ったように以下の対比を明確にした。

<思念を開放するイメージとしてのZガンダム>
エエゥーゴ=白=宇宙に出る人々=飛行による軽さ=宇宙=未来=新しさ=ニュータイプ

<抑圧し、縛り付けるイメージとしてのサイコガンダム>
ティターンズ=黒=魂を重力に引かれた人々=大地=過去=記憶=古さ=オールドタイプ(強化人間)


しかし、この対比は、何を語ろうとしているのだろうか?

逆に言えば、あれだけ支持のあった前作の世界観を破壊したうえで、それでも、表現すべきこと、表現したかったこととは何だろうか。

それは、序論でも述べたように、おそらく「刻」がテーマになっているのだろう。
(さらに言えば、今度上映される映画の副題が「星を継ぐ者」になっている点から見て、映画はテレビとは異なるテーマ設定をしているのだろう。)

いずれにせよ、この点を考察するために、今度は、マシンではなく、人間に焦点をあてよう。

(以下、第二章に続く)

 


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