ボトムズ論



1.ボトムズの特徴(TV版)
装甲騎兵ボトムズは、ロボットアニメという枠組みに、新たに3つの世界を導入した。

・究極のリアルロボット
・価値観の創造
・純愛


この3つの世界は、互いに結びついて、「装甲騎兵ボトムズ」という世界観を形作っている。

以下に論じる内容を簡単に言えば、ボトムズの世界とはこういうことである。

@ロボットに価値のない世界を描くことで、焦点を人間にあてた。

A正義のない戦争状態の世界を描くことで、価値観の創造をテーマとした。このことは神殺しや冷凍睡眠に端的に示されている。

B最後に、人間に焦点をあて、正義のない世界を描いた帰結として、愛のみが行動原理となった、純愛物語である。


ロボットものという枠組みにおいて、この3点の特徴がいかにオリジナルあふれるものであるか、容易に見て取れるであろう。それこそが、ボトムズと他のロボットアニメとをわかつ点である。

以下、順を追ってみていく。

ボトムズの特徴@究極のリアルロボットアニメとして

ロボットアニメは元来、視聴者(現実の社会的弱者である子供)が感情移入できるように、主役(子供)が巨大ロボットに乗ることで強大な力を手にすることが前提である。

だからこそ、マジンガーZであれ、ガンダムでさえ、ロボットの製作者は主人公の祖父であったり、父であったりするのだ。
当然の前提として、重要なのは、ロボットが無敵であることなのである。

番組の名前自体、主役ロボットと同じであることが多い(マジンガーZからガンダムまで)
主役機は番組の終了直前までは、破壊されることはなく、最強の兵器として君臨するものなのだ。
だからこそ、ロボットアニメのネーミングは、神話からとったものが多かったのである。(マジンガーZ=魔神、ライディーン、ダイモスなど)


しかしながら、ボトムズの特徴のひとつは、ガンダムから始まったリアルロボット路線を極限までつきつめたことにある。
もはや、ロボットは、魔神ではなく、単なる道具にしかすぎない。
主人公が乗るロボットの名称が作品の題名となることもない。
また、ロボットは父親が作ったわけでもないし、母親が関わったわけでもない。
使い捨ての兵器として、あっけないほど簡単に破壊される。

このような変化は、何を生み出したろうか?

ひとつには、それまでのロボットアニメではありえないような、大量のロボット群というイメージが可能となった。
古いロボットアニメでは、ロボットというものはあくまで主役機しか意味を持たなかった。

ガンダムでは、確かにロボットがメインとなった大戦が描かれたが、やはりロボットは貴重な存在であった。
それに比較し、ボトムズでは、まさに湯水の如き存在となった。
戦線はあまりに広いため、全体像はつかみようもないが、ウド編ラストのシーンなどは圧巻である。

この設定の変化が、「バトリング」というイメージを可能にした。
これも、ロボットが大量生産され、単なる道具となり、そこらへんにごろごろしている世界だからこそありえたのである。

そもそも、古いロボットアニメにおいては、ロボットの1対1の戦いというものは、そのまま、人類と地球の命運をかけた戦いであるのが常であった。間違っても賭け事の対象になるようなものではない。

ガンダムのようなリアルロボット作品でさえ、ロボットというのは戦争のための非常用機械であり、特殊な存在である。戦争時でもなければ、戦うことは許されない。

また、一般にロボットアニメはガンダムも含めて主役機とその他の性能差が大きく、一対一の戦いというものは、パイロットが互角なら勝負ははじめから決まってしまう。
これも、あくまでも魔神であった時代のロボットアニメからの伝統である。

それに対し、バトリングというものは、以下の2条件を満たす必要がある。
・ロボットの性能が互角であること。
・ロボットが戦うのに、大義名分(人類の存亡、戦争など)が不必要であること。

→一言でいえば、ロボットが単なる道具であること

これこそが、ボトムズが満たした条件であった。

さて、ロボットが単なる道具となったことで、焦点はロボットそのものではなくなった。
もはや、主役機が壊れるかどうかは、誰も気にしなくなったのである。

そして、戦闘の帰結は、マシンではなく、パイロットに全ての比重がかかることとなった。

では、パイロットに焦点があたることで、なにが変わったのだろうか?

<神に至る人間>
ロボットではなく、人間の能力が全ての勝敗を決める世界。

これによって生まれたのが、「パーフェクト・ソルジャー」だ。
他のロボット・アニメは、ロボットの性能で差別化を図るのだが、ボトムズの場合は人間の能力が差別化要素となったわけだ。

もちろん、人間の能力の差別化というものは、ガンダムにおける「ニュータイプ」のように先例はある。
しかし、ガンダムにおいても、まずはロボットの差別化が先に存在した。主役マシンはあくまでもガンダムであり、同じマシンは2機は存在しない。そして、人間の能力の違い(ニュータイプであること)は、そのまま、能力に見合った強力なマシンと密接に結びついている。

だが、ボトムズでは、リアルロボット路線を徹底させることで、ロボットの価値が小さくなったのと反比例して、人間の価値が、ニュータイプより、はるかに大きな意味を持つようになった。
その結果いきついた概念が、「異能者」であり「神の後継者」である。人間が戦闘兵器から神へと至る役割を持ったのだ。

言い方を変えれば、ガンダムにおいて人間が宇宙へ進出したことによる進化論として「ニュータイプ」が存在したように、、ボトムズにおいては長期にわたる戦争状態とロボットの量産化からくる進化論として「神の誕生」が位置している。


<ここまでのまとめ>
さて、このように見てくると、ボトムズは、様々な面でガンダムの可能性を徹底的につきつめたことからくる、統一された世界観を持った作品だということがわかる。
・リアルロボットの追及→単なる兵器・大量生産された道具としてのロボット→1対1の試合としてのバトリングの誕生→パイロットの意味の向上→パーフェクト・ソルジャーの誕生→神の後継者の誕生
(ストーリーがこうなっているわけではありません。あくまで世界観のロジックです)

     

ボトムズの特徴A価値観の創造
ロボットアニメというものは、その性質上、敵がいてこそ始まるものである。
そのために、常に、「敵−味方」という構図が前提となる。
かつて、多くのロボットアニメにおいては、敵とは、不条理に襲い掛かってくる相手であった。
そこでは、敵=悪=加害者、味方=善=被害者という構図が出来上がっていた。

この構図を完全に変えたのは、「機動戦士ガンダム」である。
そこは、善と悪との戦いではなく、2つの勢力圏(国家権力)の戦いが描かれていた。
どちらにも大義はあり、かつ、どちらも、それほど立派な実態でもない世界。
どちらにも、個人レベルで見ると、様々な動機が存在する世界がそこにあった。

しかしながら、各個人は、やはり、どちらの軍に所属するか、選択する必要はあった。
何が正しいことだと考えるのかが、行動の選択のうえで、重要だったのである。
人々は宇宙に住むべきなのか?地球の位置づけはどうあるべきか?など。
つまり、各個人なりに、正義とは何かを考えているのであった。

ボトムズの世界では、そのような、どちらの権力が正しいのかといった問いは、最初から存在していない。
個人レベルから見れば、理由も不明なまま、戦争は始まっている。
何が正義かもわからない。ただ、戦わなくてはいけない状況があり、選択権もないままに戦っているのである。
つまり、正義が消失した世界なのだ。

では、正義が消失している以上、価値観や倫理の問題はなくなるのであろうか?

実は、一般的な正義の概念が消失している世界でこそ、本当の意味で、個人がどのように生きるべきかという問題が明確に現れるのではないか?

ボトムズの世界はそのことを示している。

レッドショルダーに所属することで、虐殺も行ったであろうキリコ。
おそらく、ロボットアニメにおいて、主役が加害者側にまわったのはこれが初めてであろう。

ボトムズでは、まず、何よりも個が消失した世界が描かれる。
・戦闘用スーツに身を包むと、個人の顔も見えなくなり、皆同じくなる。
・レッドショルダーとは、何よりも同じマシン・同じデザインの集合である。


単なる軍のコマでしかなかったキリコが、やはり軍事兵器として作られたフィアナとの出会いを通じて、人々との関わりをとり戻し、最後には、戦いのなくならない世界そのものを拒否していく姿は、正義も個人の意味も消失した世界の中で、それでも自分自身で生きる価値観を創造し、倫理的に行動するとはどういうことかを示している。

周囲から与えられた命令を拒絶し、自分の信じる行動をとること。
つまり、言い方を変えれば、ボトムズとは、戦争機械の部品でしかなかった人間が、自ら、人間的価値を創造していく物語である。
集団への埋没からの、組織の拒絶と個人の誕生の物語といってもいいかもしれない。

このことを、何よりも象徴しているのは、ワイズマンを破壊すること、すなわち、神殺しである。
神を殺すことで、人は、前提となる価値観をなくし、本当の意味で自分自身の価値観を創造することになるのかもしれない。
つまり、何者かに与えられた世界を生きるのではなく、自分自身で定めた価値観により、世界を生きるのである。


そして、ワイズマンの破壊から1年後、キリコは世界を拒否する。

これは、戦争にまみれた世界の中で、新たな一つの価値を提示することである。

*この点は、作中で用いられているニーチェの言葉ともリンクしている。(補論参照・・作成中)

ボトムズの特徴B純愛
ボトムズは、何よりも愛の物語である。
第一話でフィアナという女性と出会い、最終話で旅立つまでの二人の心の過程を描いた物語なのだ。
そして、その途上での多くのエピソードは、二人の出会いと結びつきの深まりを形成するものでしかない。

単なる兵器の一部でしかなかった男女が、お互いに出会い、それぞれの環境を乗り越えて、二人だけの価値観を共有していく・・

恋愛は、他のロボットアニメにおいては、脇役的な要素であり、あくまでもメインはロボットによる戦いであった。
ボトムズにおいて2人にとって関心があるのは、勝利でも敗北でもなく、一貫してお互いだけである。

戦闘時の行動の原則も、正義でもなければ、敵味方でもなく、お互いへの関心だけで構成されていく・・ワイズマンを倒したのも、自分達が暮らすのにふさわしい世界が欲しかったからだと思われる。

これは、先述のように、正義が全く存在しない世界だからこそ、逆に可能となった、純愛の世界である。


このことが、乾ききった世界を、このうえなく美しい物語としている。



ボトムズの特徴のまとめ
以上見てきたように、ボトムズは他のロボットアニメとは隔絶した特徴を多く備えている。
@ロボットに価値のない世界を描くことで、焦点を人間にあてた。

A正義のない戦争状態の世界を描くことで、価値観の創造をテーマとした。このことは神殺しや冷凍睡眠に端的に示されている。

B最後に、人間に焦点をあて、正義のない世界を描いた帰結として、愛のみが行動原理となった、純愛物語である。




私にとって、ボトムズの魅力、脳裏に焼きついた光景というのは、上記のいくつかの要素が組み合わさっているシーンである。
そして、それは、言うまでも無く、他のアニメでは決して得られないシーンなのだ。

・ウドで、秘密警察に包囲されたキリコとフィアナが2人だけで語り合うシーン。
・ウドの町に、大量のATが降下するシーン。
・クメンで、イプシロンに破壊されたキリコのATを守るためにフィアナがヘリを突撃させ、川に沈みながらもキリコが熱いものを覚えるシーン。
・二人だけが乗った宇宙船で、広大な暗黒の宇宙を、何も言わずに一緒に眺めているシーン。
・サンサにおいて、フィアナを背負って砂漠を歩き続けるシーン。
・イプシロンとの戦いに決着がつくとき、フィアナが、キリコもPSであると告げるシーン。
・最後に、流星として2人で旅立つシーン。


これらのシーンは、私にとっては、全て、映像がそのまま焼きついているシーンである。
まさに、
「遠く離れていても、たとえ別れていても、この世の光とともにまぶしく、あの日の、あなたが」という言葉通りに・・。

また、こうして列挙してみると、つくづく、ボトムズとはとてもロマンチックな恋愛物語だったことに改めて気づく。

いつ果てるとも知れぬ戦争の中で誕生した、異能者の後継者と、人工的に作られたパーフェクト・ソルジャーとの純愛。

これは、私にとっては、純愛であるとともに、ひとつの進化論につながる物語、つまり、キリコ・フィアナに加えてその子供たちは、当然卓越した能力を持ち、そして、戦争を否定する種族(もしくは戦争を乗り越えていく種族)であるという進化論を暗に示しているものと思えた。

なぜなら、それこそが、あの戦争だらけの世界において、人間という生物が生き残っていくための唯一の道(進化)なのだろうと。

倫理の誕生、愛の誕生に加えて、種の誕生につながるのだろうと・・

そう思った根拠は19話「フィアナ」の予告編にもよる。

「火薬の臭いに導かれ、地獄の炎に照らされて、アストラギウス銀河の星屑の一つで出会った、60億年目のアダムとイブ。これは、単なる偶然か。」

60億年目のアダムとイブという表現は、明らかに、2人の邂逅から生じた新たなる種の誕生を連想させる・・はずだった。


2.OVA以降
私が抱いていたイメージは、「砕かれた夢」となった。
OVAが作られ、世界観の充実を図ってから、逆にボトムズ世界はわかりにくくなったと思う。
テレビのラストから先が続けられなくなったため、過去の話に焦点を移した関係もあっただろう。
TVシリーズの結論であった神の後継者としての位置づけが強く前面に現れ、少年時代(野望のルーツ)から、ラストレッドショルダー、TV後(赫奕たる異端)まで、キリコは、ほぼ不死に近い設定となった。
時系列では中間となるTV版では、確かに回復力はすさまじかったが、かといって、不死のような設定ではなかったはずだ。
TVでは生き方の問題だったはずが、OVAではDNAの問題となってしまったのだ。


これは、TV版における緊迫感あるバトリングシーンや戦闘シーンの魅力、あるいは、何よりも、逃げ回るキリコの魅力(実は結構弱くて、様々な策略で(?)生き延びる魅力)をなくしたと思う。
逆に、OVAを先に見た人は、TV版をつまらなく感じたのではないだろうか?

そもそも、不死に近い設定を前提として考えれば、誰が、TV版でのキリコの危機やバトリングを真剣に見、フィアナの捨て身の行動に胸を打たれるだろうか?たぶん、彼らがそんな努力をしなくても、何か別の偶然が彼を救ったはずなのだから・・


さらに、「赫奕たる異端」などを見ると、もうひとつのボトムズの魅力である恋愛ものとしてのボトムズも終わりをつげたように見える。

つまり、TVシリーズの魅力をかたづくった3要素のうち、神の後継者としての位置づけだけが突出してしまい、物語の魅力のバランスを崩してしまったのだ。

キリコの本質と魅力は、
・不死身で強いのではなくて、どんな状況にあっても、様々な機転(例:やられたふり、死んだふり)で危機を脱していた点。
・何よりも、神の後継者だった点ではなく、神の後継者の座を捨てた点にあることは、強調したい。

彼は、決して最強の兵士というところに特徴があったわけではないはずだ。
むしろ、何度と無く情けない姿をさらし続けた。

やられたふりをしてフィアナを捕獲し、動けないふりをしてワイズマンを倒す。
イプシロンにマシンを破壊されれば、すかさず降りて手持ちの銃で勝負をかける。
ロボットにとらわれないこれらの勝負シーンこそが、リアルロボットもののいきついた地点であり、ボトムズとキリコの象徴的なシーンであった。


どんな状況にあっても、目的を果たすためには最後の瞬間まであきらめない彼の態度が、価値観の創造の物語にも、純愛の物語にも、つながっていたはずなのだ。

つまり、キリコ・キュービィとは、遺伝子の問題ではなく、生き方の問題だったはずだ。

それこそが、彼の魅力なのだと思う。

彼が、もし、神の後継者であるならば、それは、肉体的強靭さや運ではなく、あくまでも価値観の創造者としてであるべきだと思う。
神であるワイズマンを破壊し、戦争まみれの世界を拒否したように・・


3.今後

高橋良輔監督によるボトムズ続編のうわさが流れている。
ボトムズが、結局はキリコとフィアナの物語であるという発言もあるので、期待して見守りたいと思う。
ボトムズの世界は、とても魅力的なものなので、プラモデルやフィギアの世界では強い位置を保っているし、世界観を借りた続編もいろいろ作られている。
それらの作品がどのようなものであろうと、それぞれ独自の面白さがあればいいだろう。
ロボット戦争物のインフラとしてボトムズの世界を利用するならば、それはそれで、アクション映画みたいな話を作ればいいと思う。

しかし、「触れえざる者」キリコを登場させるのであれば、それは、戦争の世界だけでなく、価値創造の世界と、純愛の世界も含まれるはずである。
「赫奕たる異端」で、とにもかくにも、キリコは回帰した。
そして、OVAで神の後継者、不死に近い設定の路線を明確にしている以上、今更その路線を修正するのも無理であろう。
しかし、ともかく、彼が現実世界に戻る以上、今度は冷凍睡眠ではなく、新たなる価値の創造を期待したい。
そして、おそらく、その価値の創造とは、フィアナとの純愛に基づくとともに、それを目的とするものになるのだろう。

戦争と権力にまみれ、心が乾く暴力だらけの世界において、その波に呑まれることなく、あくまでも個人ベースの愛に基づいた世界を、仮に2人だけの間でもあっても築き上げること。
そのことは、あの世界においては、既存の価値観の否定と新たなる価値観の創造を意味するはずなのだ。

キリコが、神の後継者の素養を持っているのであれば、冷凍睡眠でもなく、不死身の肉体でもなく、そのような、新たな生き方こそ示すべきだと思う。
そして、そのように、周囲に流されずに示し続ける彼の生き方こそが、逃げ回っている時でも、バトリングの時でも、神を破壊する時にでも、一貫して見せていたはずの、彼の魅力なのだ。

彼の持っている遺伝子ではなく、彼の生き方・神を破壊した彼の行動こそが、戦争の絶えない世界において、新たな価値を創造する者として、彼が、神の後継者に値する根拠を示すはずなのだ。


彼の遺伝子ではなく、かつての彼の生き方を思い出しながら、期待しよう。

  この世の光とともにまぶしく、あの日の、あなたが・・



 


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