Vガンダム論 第一章

 


第一章 宇宙世紀の終焉(概略版)


Vガンダムは「機動戦士ガンダム」以来続いていた宇宙世紀ものの最終作である。
ここでは、その点にこだわったひとつの解釈を提示したい(ただし、本格的に論じると長大になるので、まずは概略である)。

Vガンダムは「機動戦士ガンダム」という作品が提示していた宇宙観、人類史観のいきついた先であり、その終焉をなす作品である。

そこでは、もはやニュータイプによる人類の革新を信じることよりも、反対に、人工的な手段で人間を退化させることの妥当性にテーマは
移っている。

簡単にいえば、Vガンダムの世界設定の特徴は、おおきく3つの観点からガンダム世界の継続とその限界による変更を示している。



@ニュータイプへの人類進化という夢の終焉
・ニュータイプを擁して侵略者と戦うクルーが、老人達であることによって。
・カテジナがウッソを「美しい思い出」と呼び、「なぜザンスカールの未来をみようとしないの?」と叫ぶことによって。

Aスペースコロニー、ミノフスキー粒子、モビルスーツといったSF的世界観の終焉
・スペースコロニーの住人から地球の主人公へ・・人工的な構築物であるコロニーより自然との共存へ
・モビルスーツからギロチンへ
・ソーラレイからエンジェル・ハイロゥへ
・ニュータイプからサイキッカーへ
・シャアならぬアシャーの登場によって

B富野作品的世界観へのリンク
・マリア崇拝と母系主義、サイキッカーの力と、人類を幼児化しようとするエンジェルハイロゥ(天使の後光)が、宇宙にちらばることに
よって。
・強化人間よりも赤ん坊が優れている点によって。

この3つの変更は結びついている。老人達ばかりの船であることは1年戦争のコンセプトの終焉を示し、ソーラレイやモビルスーツの終焉
はギロチンとエンジェル・ハイロウに結びつき、それらはマリア崇拝と赤ん坊のコンセプトにつながる。


・宇宙世紀を舞台にしたガンダムシリーズの総決算であること。
・ガンダムの世界観を、誰もが予想しなかった奇妙な形で引きついだこと。

ひとことでいえば、1年戦争以来のガンダム・コンセプトの終焉を示すのがVガンダムなのである。


以下、それぞれ個別にみていく。

1.ニュータイプへの人類進化という夢の終焉(進化論への夢から政治体制の問題へ)

ガンダムの代名詞とも言えるニュータイプ。それは、宇宙に人が移住した結果としての人類の革新であるはずだった。

ララァ「出会えばわかりあえるのに・・」

アムロ「君ともこうしてわかりあえたんだ。人はいつか時間さえ支配することができるさ」
ララァ「ああ、アムロ、時が見える・・」


だが、ニュータイプを増加させ、人々が皆理解できるようにするにはどうしたらいいのか?

シャア「私が手を下さずとも、ニュータイプへの覚醒で人類は変わっていく。私は、その時を待つ!」(Zガンダム最終話)

こう言っていたシャアも、後には、態度を変える。

シャア「地球圏の戦争の源である、地球に居続ける人々を粛清する!」(逆襲のシャア)


単なる人類進化の希望だけでは駄目だという認識のうえに、ニュータイプ達は政治的な闘争を繰り返していったのである。

しかしながら、仮に、人々が皆ニュータイプになったからといって理解しあえるものではないことは、Zガンダムにおけるシャア、ハマーン、シロッコの議論を見ても明白であろう。

ニュータイプ同士でさえ、理解しあえるものではないのである。

象徴的なのは、カミーユとハマーンがお互いに相手の深層心理の奥底までのぞいてしまった時のことである。

ハマーン「よくもずけずけと人の中に入る。恥を知れ!俗物!」

カミーユ「やめろ!僕たちはわかりあえるかもしれないだろ!」

ハマーン「貴様もシャアと同じだ。貴様は確かに優れた資質を持っているかもしれないが、無礼を許すわけにはいかない!」

カミーユ「やめろ!ハマーン・カーン。わかった。お前は生きていてはいけない人間なんだ!暗黒の世界に戻れ!!ハマーン・カーン!」

ニュータイプによる人類の革新では平和はもたらされないという認識。

その帰結として、Vガンダムにおいては、エンジェル・ハイロウとサイキッカー、マリアの祈りという組み合わせによって、強制的に人類の精神を幼児化し、平和を実現することにテーマは移った。

一言でいえば、人類進化による相互理解への夢(ニュータイプ)は捨てられ、人類の強制的な退行によるエゴの廃棄が目指されたのだ。

このように、ニュータイプという問題設定が旧くなっていることを端的に表現しているのが、老人達である。

・老人達による反抗軍
「機動戦士ガンダム」において、ホワイトベースのクルーは皆若かった。主役グループの平均年齢は10代半ばである。彼ら少年少女の活躍により、ニュータイプという言葉を地球連邦軍の上層部も信ぜざるを得なくなった。最も若いのは、カツ・レツ・キッカの3人組みであり、彼らは10歳に満たない。
1年戦争がUC79の物語であることを考えると、彼らクルーの誕生年はUC60〜70年代である。

反対に「Vガンダム」において、クルーは老人ばかりである。1年戦争当時の船には年寄りが一人も乗っていなかったことを考えると、特徴的なことである。ロメオに至っては85歳。VガンダムがUC153の物語であることを考えると、彼の誕生はUC68。

つまり、「機動戦士ガンダム」の登場人物達と「Vガンダム」の登場人物達は同世代なのだ。ホワイトベースのクルー達の65年後の姿が、そのままVガンダムの登場人物たちなのである(最長老のロメオと同世代)。

Vガンダムの老人達を見るとき、視聴者は感じなくてはならない。ホワイトベースのクルー達、アムロや、ブライトや、セイラ達、カツ・ レツ・キッカたちが、もしまだ生きているのならば、このような老人達になっているのだと。



そして、彼らがやっていることは、まさに、65年前にやっていたことと同じなのである。

独裁者に導かれたコロニーによる侵略戦争。自己防衛的に戦いはじめた難民たち。そのなかにあらわれるニュータイプという言葉への、人類進化への期待・・

つまり行動の規範は・・
・攻めてくる以上戦わなければならない。
・人はいつかニュータイプとして革新し、理解しあえる時代がくるかもしれない。

この点で、ガンダムの主人公達は常に一貫している。
その不変性と長さを示すのが、まさに老人達ばかり(メインは60歳以上)のこの船である。


つまり、結局、1年戦争からシャアの反乱、コスモ貴族主義など様々な歴史を積み重ねながらも、人々も世界も何も変わらなかったのである。
変わったのは、ただ単に、誰もが、その分としをとって老人になったことだけなのだ。

相変わらず独裁者は誕生し、戦争は起こり、難民は発生し、希望の少年も登場する。
歴史は何も変わらずに繰り返され、ただ、人々は歳をとっていく。

そして、希望の少年であるニュータイプの名前は、ウッソ(嘘)である・・

これが、ニュータイプへの進化を夢見た宇宙世紀の結論なのだ。

こんなことなら、いっそ、シャアの反乱が成功し、人類が全て宇宙にあがったほうが、歴史は変わったのではないかと考えさせられる。


このことを冷静に指摘するのはカテジナである。

カテジナ「あのおじいさん達・・」

「私はザンスカールの未来を見てみたいのよ!!」



このカテジナの言葉は、いつまでも延々と繰り返される同じ物語に飽きた人間の言葉である。

もう、いつまでも古い物語の繰り返しではなく、新しい時代を見てみたいという・・

これは、そして、ガンダムシリーズにおいて敗北者達が常に言っていったことでもあるのだ。

シャア「人は、いつまで同じことを繰り返せば済むのだ!」

シロッコ「時代は変わる。私は予言者にすぎない!女の時代がくる!」



今までと同じ物語。つまり、政治的な革新者が破れ、常に保守派である地球連邦軍が勝ち、ただ、ニュータイプという進化論だけが夢のように語られる物語をいつまで続けるのか・・・


これは、カテジナのみならず、製作者達の言葉でもあった。

富野監督「今回、新しいガンダムを始めるにあたって、少なくともF91までやってきたことはもう終わりにしようと覚悟を決めて準備に入りました。

”ガンダム”と名がつく以上、そこにはどうしても”ガンダムらしさ”=リアリティー”を求めるファンの人達がいるわけです。その人たちの嗜好の結実として(ガンダム世界の)歴史があり、年表がある。そういったことから、もっといってしまえば、そういったファンとは訣別したかった、”らしさ”を否定したかったんです。

まだ2クール以降は決まってはいないのですが、以前のガンダムとはまるで違うイメージでグシャグシャにしていく予定です。」(ニュータイプ誌インタビューより)

富野監督「僕が今回、「Vガンダム」をはじめるにあたって、一番に意識したのは、実のところ、これまでの世界観も何もかもひっくるめて一切を断ち切る!!ということから始める、という考え方なんです。」

「キャラクターにしても何にしても、あらゆる意味でこれまでの「ガンダム」を断ち切ります。」
(アニメミニアルバム 機動戦士Vガン ダムのインタビューより)

大河原邦男氏

「自分の中ではガンダムは15年前に終わっているんです。」
「いわゆるガンダムっていうモノに対する固定観念を、あえて崩すということをしないといけないのかな?と思っています。」

では、具体的に、どのように”ガンダム世界”はイメージを消され、グシャグシャになり、訣別されたのか?

もう少し具体的に見ていこう。



2.スペースコロニー、ミノフスキー粒子、モビルスーツといったSF的世界観の終焉

富野監督「ガンダム=宇宙のイメージを消すため、物語の出発点もあえて地球にしています」(ニュータイプ誌インタビューより)


ガンダムのSF的設定の根幹をなすもののひとつは、スペースコロニーの存在であった。
なぜなら、人類が宇宙へ進出したことこそが、新たなるスペースノイドを登場させ、ニュータイプの誕生へとつながる物語だったからであ
る。

ニュータイプというのは、基本的に常に宇宙の民であった。

これは、環境こそが、人間の能力のあり方にとって決定的な意味を持つという富野監督の考えによる。

ところがVガンダムでは、初めて、ニュータイプの少年が地球の人間となった。
これは、宇宙への進出がニュータイプの革新を促すというこれまでの流れとは反する。
なぜか?

それは、ガンダムシリーズのひとつのテーマである「人と環境の関係」が、初期シリーズでは「宇宙へ進出した人類」であったものが、Vガンダムでは、「自然と人間のかかわり」に変わったからである。
そのため、物語は、森林深い山奥からはじまることになる。

これは、宇宙という環境よりも、自然という環境の中での方が、人間にとって何か重要なことを学ばせる環境であるという認識の変化による。(参考:小説版「F91」では宇宙の方が厳しい環境とされていたが、Vガンダム直前に書かれた小説「ガイア・ギア」ではスペース・コロニーはむしろ人を甘やかす人工物として扱われ、自然が上位に変わっていたことに注意)

ウッソの両親は、子供を育てるために、季節の厳しい東部ヨーロッパで彼を育てる。


宇宙空間における制御されたスペース・コロニーよりも、この地球の自然の中で暮らす方が、はるかに人間は鍛えられるという認識。

これは、人のエゴと科学が強くなりすぎことへの反省であるとともに、反面、人間のエゴを文明の力によって取り除くというテーマとも関連する。

人間の文明による傲慢さと、エゴを文明の力によって取り除くことの対立・・

これは、ソーラ・システムとエンジェル・ハイロウという最終兵器の形態の違いに象徴されている。

太陽エネルギーという自然の力を効率よく利用して人間を大量に殺戮するソーラ・システムは、まさに人間の文明の進歩のやり方そのものである。人間が持つ知恵とエゴの一つの極点というべきであろうか。

それに対して、エンジェル・ハイロゥはサイキッカーの思念を利用し、人間の精神だけを退化させる。

人間以外のものには一切傷つけない、まさにクリーンな兵器であるとともに、人間の文明をもたらした知恵とエゴにのみ焦点をあてている点で、ソーラ・システムの対極にある。


これらの背景には、80年代から90年代への時代背景の変化もあることは間違いないだろう。
・地球の温暖化
・環境問題への取り組みの推進(クリーン製品の利用,物品の分別回収)
・スペースシャトルの打ち上げ失敗や中止。また、宇宙開発そのものの限界が見えてきたこと。

富野監督
「15年前には、まだ未来に対しての期待観があったために、スペースコロニーというのは一つの夢の象徴であり、そこから物語を出発させて現実に認知させるという方法をとりました。」

「15年たち、実際の社会で「環境問題」が一般化してきた今、ガンダムでは初めて”地球”から始まる物語を作ろうと思ったんです。」
(アニメージュ、93.3)

その変化の中で、人々を支配する道具は、モビルスーツではなく、ギロチンへと変化していく。

なぜギロチンなのか?

富野監督はこういう。
「世界で最初のリモートな機械」(それがVガンダムだ、より抜粋)

死刑執行人のイメージである鈴の音とあわせ、兵器の役割は、あくまでも環境を傷つけずに人の心を支配する点である。

もうひとつVガンダムで強調されているのが、モビルスーツという兵器そのものが、常に環境を破壊する核エネルギーを内臓している点である。

これも、チェルノブイリや日本における原発事故の発生と無縁ではないだろう。

つまり、80年代にあっては、未来を象徴していた、スペースコロニー、核エネルギー、モビルスーツという未来観自体が、もはや旧くなってしまったという認識が、もともと富野監督の中にあった、「環境への適応における人間の成長」というテーマと結びつき、宇宙よりも、自然の中で格闘する主人公へと焦点が移ったのである。


Aキャラクターの変化
もともと、ガンダムの特徴のひとつは、当時のロボットアニメに比較して、登場人物も視聴者の想定年齢も高いことにあった。

なぜ、ガンダムでは主人公達は15歳前後なのか?

「例えば主人公の年代。「ザンボット3」では12〜13才の少年期であったのが、「ガンダム」では、その後の15〜16才くらいまでの不安定な年頃となっています。この主人公の年頃っていうのは、男にとって、とても中途半端な年頃で、この主人公は優等生にはなれないし、ちっとも男らしくない、ただ機械いじりだけは大好きだっていう少年なんです。彼らは決してスーパーヒーローじゃない。ごくありきたりの少年なんです。」(ガンダムの現場から、より抜粋)

しかし、Vガンダムでは・・

「とにかくまずテレビアニメの原点に戻って、楽しいロボットアニメにしたい。たとえば、主人公がなぜ13歳なのかといえば、それが最も見てもらいたい年齢と重なるからです。」(ミニアルバム Vガンダムより抜粋)

そして、主人公のウッソは、その名の通りウソのように、何でもこなしてしまうキャラである。アムロのような、実際にいそうなオタク少年ではなく、13歳だがハングライダーを趣味とし、運動神経と抜群のカンの良さを示す。もちろん、コンピューターだって得意だが、それは強調されない。


「宮崎アニメとかディズニーのラインがあるとするなら、そのあたりを取り込んでみたい。そんなロボットものをやってみたいというのがあるんです。実は、宮崎アニメとかディズニー・アニメは、ロボット・アニメで使う年齢を使っていないんですよね、今は。

僕自身、実は「F91」で大失敗したなと思っているのは、主人公の年齢設定なんですよね。つまり、17歳とか18歳とかいう年齢のもっているうっとうしさや、それがいちばん怪しい年代なんだっていう問題に気がつかずに、そこに手をつけてしまった。

それよりも、12〜13才という、人間の感性がいちばん鋭敏な時期の、しかも皆が最低限の共有体験をもっている年代を描いたほうが、よほど生き生きとしますし、見る人の共感も得られるんですよ。だから、できるなら次はそこでやってみたい。」
(ニュータイプ誌インタビューより)

宮崎アニメやディズニーアニメの視聴者を取り込むことを想定しながら、「ザンボット3」で捨てたはずの13歳という年齢設定へ再び戻ったのであった。

年齢のみならず、登場人物達も「機動戦士ガンダム」とは対極をなす。

ひとつの大きなポイントは、先にあげたように、少年少女で構成されたホワイトベースと、老人達で構成されたリーンホースJRの違いである。


しかし、その登場人物の対称性を示す最たるものが、ガンダムでのシャアに対応するアシャーの登場であった。

彼は、名前もシャアをひっくり返しただけだが、外見もそうであり、シャアが口元だけを見せるマスクをしていたのに対し、反対に口元だけを隠すマスクをつけている。

また、シャアが肉親(親)をザビ家に殺されたことから、ジオン公国を抜け出したのに対し、アシャーは肉親(姉)が女王であることによって、恵まれた地位を獲得している。

シャアーがアムロに対して脅威的な存在として登場したのに対し、アシャーは登場するなりウッソにモビルスーツを奪われる。

何よりも、シャアがララァという女性を拾ったことから、彼女はシャアに忠誠を誓うのに対し、カテジナを拾ったアシャーは、最後には、逆にカテジナに「来い!クロノクル!」と命令される立場へと落ちぶれる。



さて、ここまで見たように、宇宙世紀における世界観は、「機動戦士ガンダム」から「Vガンダム」までで大きく変わった。


@ガンダムシリーズの苦闘の中でのニュータイプへの夢の挫折

A時代背景の変化による、旧くなった未来観から、新しい未来像への模索


その中で、もうひとつ大きな変化として、富野的世界観への接近があげられる。



3世界観の変化

ガンダム的な世界観を壊し、それに変わった宇宙観は、何か?

@富野的世界観への接近

ニュータイプへの進化論にかわったものは、マリア崇拝であり、赤ん坊であり、天使の後光による人類の強制的な幼児化である。

人類がエゴを乗り越える方法として、進化よりも、むしろ退化こそが、人の進むべき道として登場したのだ。180度の転換である。


Vガンダムにおいては、これは二人の赤ん坊によって示される。
一人は、拾われた赤ん坊であるカルルによって。もう一人は、マーペットとオリバーとの子によって。

48話ナレーション「ウッソは、ファラ・グリフォンの抵抗を突破することができた。しかしそれは、マーベットが妊娠していたからだ。

そのことがこの戦場を大きく支配していることを、男たちは知らなかった。」


また、カルルが、イデオンにおけるカララとハルルという姉妹の名をそのままくっつけた赤ん坊である点にも注意すべきであろう。カララとハルルという姉妹のエゴと闘争により人類が絶滅する物語において、救済をもたらしたのはやはり赤ん坊であった。


しかし、富野作品に馴染んだ人であれば、これら赤ん坊の占める重要性は、突如Vガンダムによって登場した概念ではなく、もともと富野作品の本質的な要素であることがわかるだろう。

そもそも、「機動戦士ガンダム」のベースとなった企画「ガンボーイ」においては、「ラスト、赤ちゃん」という構想があった。

ガンダムの翌年に同じテーマで製作された「伝説巨神イデオン」では、イデの無限力に翻弄される人類と、赤ん坊による救済、エゴをなくした(?)人類の生まれ変わりを描いていた。


ガンダムの続編である「Zガンダム」においては、これらのテーマは表面には出てこない。
しかしながら、予言者の役割を自認しているパプティマス・シロッコはこういう。

「地球には癒しが必要だ」
「次は、女性による支配の時代がやってくる」


女性の癒しによる支配。これこそ、マリア崇拝の原型となるアイデアであろう。
シロッコの野望は挫折したため、「Zガンダム」においては、このテーマは掘り下げられなかった。

だが、シロッコの予言は、宇宙世紀の年代で60年後にマリア主義によって現実化したわけである。

さらに「逆襲のシャア」においては、妊娠している素人女性は強化人間にすら勝るというシチュエーションが描かれていた。(小説版「ベ ルトーチカチルドレン」のみ)

その後、「F91 クロスボーンバンガード」の時代となっり、宇宙を舞台にした輪廻思想がヒロインであるベラ・ロナの一族のものによって語られ、民衆の支持を得る。(これも小説版のみ)


つまり、
ガンダムのオリジナル企画であるガンボーイ → ラスト・赤ちゃん案
ガンダムの翌年のイデオン → 
赤ん坊による人類の救済とエゴをなくした人々の生まれ変わり
ガンダムの続編のZガンダム → 
地球には、女性による癒しの支配が必要。(シロッコの挫折により具体化せず)
逆襲のシャア → 
妊娠している女性は強化人間より強い(映画会社により打ち消される)
F91 → 
輪廻思想の誕生(小説版のみ)

というように、ガンダムシリーズにおいては、女性による支配や、赤ん坊の無垢な生命の力、生命の生まれ変わりといった要素が、 噴出しそうになっては、退くというギリギリのせめぎあいが、常に、続いていたのだ。


A神話的世界観への隣接
ガンダムは当初からリアルロボット路線の代表と見られていた。ところが、このVガンダムでは、ロボット物が当初持っていた神話的世界へと逆行していく。敵は巨大な龍のようであったり、鈴の音とともに登場したり・・何よりも、Vガンダムが光の翼で宇宙を飛ぶとき、神話的世界そのものとなった。

もともとガンダムの特徴のひとつは、本物らしさにあった。

”本物らしさ”の意味について、富野監督はこう語っていた。「巨大な兵器という意味のロボットとして登場するし、舞台が戦場の真っ只中なわけだから、当然、戦争の持つ深い意味も関わってくる。だから、ロボットのオモチャを買ってくれる視聴者年齢におもねった形で話を展開するわけにはいかなくなりますね。

只、そこで信じたいことは、本物らしいもの=真実味というものを描くという姿勢は、どんな年齢の子供達にも判ってくれるのではないか?という点に期待しているのです。」(ガンダムの現場から、より抜粋)

しかしながら、Vガンダムでは、”本物らしさ”より”マンガ的”な楽しさが目指された。

「今までの巨大ロボットものとは違う、よりマンガ的なものをめざしています。」

「とにかくまずテレビアニメの原点に戻って、楽しいロボットものにしたい。」

「Vガンダムは名前こそガンダムですが、ここ数年では見たことのなかった、ひどく原始的なロボットアニメに仕上がっています。」
(ニュータイプ誌インタビューより抜粋)


本物らしい、巨大な兵器から、原始的なロボットアニメへ・・モビルスーツ的な世界観は破綻し、ロボットが、かつてのスーパーロボットの時代のように化け物のような姿をとるようになった。

虫のような複眼。巨大なムカデのような姿・・敵の顔も全て昆虫チックである。


さすがにバイク戦艦は、バンダイの役員により強制的にいれられたものらしいが、化け物的な数々のモビルスーツは意図通りだろう。

そして、そのような神話的世界観の最たるものが、宇宙で巨大な光の翼を広げるVガンダムである。


この、美しい神話的なイメージの造形は、単にモビルスーツの武器やデザインの問題だけではなく、作品の本質に関わっている。


すでに、Vガンダム直前に連載を終了していた小説「ガイア・ギア」において、ニュータイプとは、キリストのようなものではないか?という言葉が見える。(ずっと以前の小説版Zガンダムでもブッダとの比較がされている)

ニュータイプとは、ある意味では能力ではなく、エゴを越えた精神のある状態なのかもしれない。

そして、エゴを越えるという目的においては、何もニュータイプのような特殊能力を身につける必要はなく、むしろ、赤ん坊に戻るほうが容易で正しいのではないだろうか?

それを明快にしたのが、エンジェル・ハイロゥであった。

エンジェル・ハイロゥの目的は強制的な人類の幼児化である。

しかし、人類を幼児化してどうしたかったのだろうか?

小説版Vガンダムで、タシロが面白い解釈を示している。

エンジェル・ハイロゥで眠った人々は、3日後には起き上がるのではないか?と。

永遠の眠りから、3日後によみがえるというのは、キリストの再臨そのままである。

この言葉は、カガチが一環して人間のエゴを問題にしたことを考えると、信憑性が出てくる。

カガチ「私は穏やかな人類を地球に再生したいのだ。」(48話)

そして、このように解釈してこそ、マリアの名が何故マリアなのかという問いに、ひとつの回答が得られる。

それは、マリアは、エンジェル・ハイロゥを使って、人類全体を、エゴのない動物に生まれ返させようとするためだからだ。

つまり、マリアは、人類がキリストのような神に生まれ変わるための、母の役割を果たしているのである。
だからこそ、キリストの母マリアと同じ名前なのだろう。


ザンスカール(天に最も近い国)という名が示すように、マリアの祈りと天使の輪によって、人類は新たなる一歩を踏み出すはずだったのかもしれない。



さて、これまで見てきたように、「Vガンダム」とは徹頭徹尾、「機動戦士ガンダム」の世界観を破壊するものとしてデザインされた。

それは、キャラクター造形から、宇宙観、SF設定、視聴者の対象年齢、作品テーマの選定まで多岐に及ぶ。

ところが、この企画段階の時点で、既に作品として致命的な問題を抱えていたと、私は考える。

以下、第二部ではVガンダムの製作における失敗までの流れを、時系列に追っていく。

(以下、作成中。)

 


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