「ホワイト・ベース」は何故「宇宙戦艦ヤマト」より強いといいきれるのか

 富野監督の宇宙戦艦ヤマトへの批判を中心に、ホワイトベースがらみのものを集めました。

ここに集めたコメントの解釈についてはブログの方に載せておりますので、あわせてご参照ください。

富野監督は明言していませんが、いろいろな発言を組み合わせると、「海のトリトン」TVの監督であったにも関わらず、西崎氏が映画版では実写畑の人に監督をさせたことが、大きな影響を与えているのではないでしょうか。

また、参考4についてですが(前回も取り上げたVガンダム時のものです)、バンダイの役員に戦艦を飛ばせと言われて衝突し、バイク戦艦を飛ばしてガンダムの世界観を壊したわけですが、そこまで抵抗したのも、バンダイの役員が言っている「戦艦」のイメージは、それこそ「ヤマト」のイメージだったのではないでしょうか?
だからこそ、それに従うぐらいなら、バイクを飛ばすことを選んだのでしょう。

ヤマトのマネするくらいなら、ガンダムの世界観を壊した方がましである、と・・。




質問 ホワイト・ベースとヤマトはどっちが強いのですか。

回答 聞くも愚問で、波動砲さえかわせればホワイト・ベースが強いにきまっています。

(アニメージュ79年12月号 ファンからのここが聞きたいガンダム67の質問 「ガンダムの現場から」より抜粋)



富野 ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、「ヤマトをつぶせ!」これです。他にありません。

編集部  でもその目的は一話で有線ミサイルが出たときに達成されたのでは?

富野 ええ、松崎君も一話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)
そして2番目の本音ですが、やっぱりこれは越えられなかった。(未来少年)コナンには勝てなかったね、かすめもしなかった。こりゃくやしい、ありゃくやしいですよ!いつの日か打倒コナンをやりとげたいです・・・(1980年アニメック掲載 富野語録より抜粋)



映画「機動戦士ガンダム」の前人気は上々で、前売り券は、60万枚が売り切れた。これは前売り70万枚の記録を持つ「八甲田山」に次ぐ。アニメ映画でいえば、「宇宙戦艦ヤマト」の50万枚を突破した。「機動戦士ガンダム」の原作、総監督に携わっている者として、これほど光栄なことはない。(1981年 現代掲載 ガンダムの現場からより抜粋)



西崎義展プロデューサーは、愛すべき人物ではあるが、けっして好きになりたくない。「宇宙戦艦ヤマト」をプロデュースした方である。

僕は、東映とエイケン関係の仕事はしていないので、その方面には西崎プロデューサーのような方がいらっしゃるのかもしれないのだが、僕にとっては、アニメ界ではじめて知ったタイプで、とにかくド肝を抜かれた。

しかし、トリトンでは、僕は氏とはそれほど深い関係を保たずにすんだ。西崎プロデューサーもアニメの仕事がはじめてで、数回、打ち合わせとか録音に立ち合っただけでおわったからだ。が、その強面の押し出しとか、自分の思ったことをスタッフにやらせてゆくパワーを実感して、その恐ろしさにアニメの世界にきてほしくない人だとは思った。

が、どうじに、こういう営業センスを兼ねそなえたプロデューサーがいなければ、アニメの世界は変わらないだろうとも思えた。僕のこの感じ方は、多少といえどもCMの世界の大人たちを見てきたからだろう。
それまでのアニメの世界は、なんだかんだといっても子供の集団で、僕もそんな子供の世界になれすぎたために、西崎プロデューサーを好きになれなかったのだろう。
アニメの世界の周辺には大人がいたのだが、それらの大人たちはあくまで業務としてアニメの世界につき合うだけで、アニメをやっていこうという人ではなかった。が、西崎プロデューサーはアニメを商売にしていこうとした人なのだ。

その西崎プロデューサーからヤマトのコンテを手伝ってくれと誘いがあったときに、一度は断りはしたものの、氏の強引さで引き受けさせられた。

三話のコンテである。ほかの事情もあるのだが、僕はそのストーリーが気に入らず、ストーリーを改竄したコンテを渡した。当然、西崎プロデューサーは激怒し、僕を呼びつけて怒鳴りつけてリテークをくらった。僕はその日の夜からその作業をして、翌日だか翌々日だかにはシナリオどおりのコンテに描き直して納品した。

そんな経過があれば、当然、以後のコンテの仕事はこなくなる。が、僕にとってはそれが予定通りなのだからまったく構わなかった。これで西崎プロデューサーと絶縁できるということが重要なことだったからだ。

なぜ、そうして縁を切ったのかといえば、生き方の違い、作品の作り方の違いとしかいえない。が、コンテをきりながら、たしかにヤマトという作品は将来は化けるだろうという予感はもった。が、僕にコントロールさせてもらえない作品なのだから、西崎作品の手伝いをするのは苦痛だったのだ。

だが、アニメ界全体にとって、氏の存在は大きかったのは事実で、その客観的評価はすこしも崩れはしない。なぜなら、業界に新たな商売する大人が明確な形ではいってきて、良いにつけ悪いにつけプロデューサーの存在を知らしめたからである。

アニメ界にとって問題なのは、その氏のやり口をしょせんは金儲け主義の独善者だという子供が多すぎる点だ。でなければ、唯々諾々と氏にとりこまれて恥じることなく、世すぎをするスタッフがいすぎることである。

だから、僕はガンダムの企画をはじめたとき、ロボット物を使ってでも、ヤマトをおとしてみせると意図したものだ。それは、氏をライバルに足りる人物だと正当に評価していたからである。それゆえ、現在にいたるまで、ヤマトの観客動員に歯が立たなかったことを口惜しく思っている。
いつかは!という思いは終生消えることがないだろう。

にもかかわらず、このころの僕は、しょせんはさすらいのコンテマンであって、一本のシリーズを任せてもらえるチャンスはめぐってはこない。二人目の子供も生まれ、将来の展望をたてないまま朽ちてゆくのか、西崎プロデューサーからちゃんとコンテの仕事をもらえるように、なぜいい子になれないのか、と情けない思いを抱えていた。(1981年 「だから僕は」より抜粋)






富野 今回、無理矢理ツギハギ映画をつくったというのは、ぼくの本音でもあるんですが・・「ガンダム」が映画になるなら、とにかく自分でまとめたいっていう気持ちが一番強かったんです。キザな言い回しといわれてもいいですが、テレビアニメを映画化するにしても、やっぱり最後までテレビアニメの仕事をしている我々の側、つまり手元に作品をおきたかったんです。

これまで、TVアニメが映画化される場合、やれ監修者だ監督だというカタチで実写畑の人間が入り込んでくるのが通例でした。ぼくは、恥をかいても何をしても、基本的にはそういう実写畑からの人的移入を排除したかったんです。

高畑 それはよくわかります。TVを映画にする際、実写畑の人間がコミットすることは、あたりまえだみたいな風潮がありますね。

富野 そうなんです。「ハイジ」もいろいろあったみたいですけど、「未来少年コナン」が映画化される状況をみても、ぼくは、とてもじゃないけれど放置できないっていう気分にさせられたんです。ですから、たとえ売名行為といわれようと、とにかく、この「ガンダム」の映画化に際しては、絶対、実写畑の人間に渡しちゃならないと思いましたね。

高畑 それは売名でもなんでもないですよ。要するに主張ですよ。たとえ制約されている状況があったとしても、主張すべきときは主張するのが当然ですよ。

富野 そう思いました。ですから「ガンダム」がTVでオンエアされてるときに、ぼくは会社(サンライズ)に正式文書で申し入れたんです。
「将来、「ガンダム」が映画化されることがあった際、その監修者なり監督というカタチで外部(実写)の人間を導入するなら、フィルムを渡さない」って(笑)。ものすごい不安感があったんです。そのころというのが、ちょうど「コナン」が映画化されたあたりですよ。もう、ひたすら、ガードしなければならないと思ったんです。だから、おかげさまで映画「ガンダム」はツギハギにもかかわらず、なんとか客の入りもいいみたいですから、本当に良かったと思うんです。
もし失敗していたら、やっぱりアニメ畑のやつらにはやらせるもんじゃないとタタカレルでしょうし。

高畑 いや、本当に良かったですね。

富野 でも高畑さん、これが二年前だったら、ぼくだってそんなに強気には出れなかったでしょうね。
ま、去年あたりのアニメ映画にも実写畑の人が起用されてますけど・・それ以前の「ヤマト」もそうですし、「ガッチャマン」なんていう、本来つなぎようのないものをとにかくエイヤッとつないで映画館にかける状況をぼくは目のあたりに見てますからね、ムカつくんです。

高畑 なるほど・・ぼくは「ヤマト」に舛田利雄さん、「地球へ」に恩地日出夫さんを起用したということを聞いただけで、ああ、事大主義だなァって感じただけで、それ以上も以下もこだわりはありませんが。
(1981年 ロマンアルバム ガンダム より抜粋)





(海のトリトンを)映画にまとめるということに関しては、西崎さんか彼のプロダクションから声がかかったことは事実です。「どういう風にまとめたい?」みたいに聞かれもしましたが、どちらにしても舛田という人がやるんだろうと、僕はソッポを向きました。何でやらせてくれないんだと喧嘩をする気にもならない時代背景でしたが、当時はむしろ西崎さんがそれをやったことによって、「海のトリトン」程度でもそういう風に出来るのかということをみんなが知ったことの方が重要です。

−では74年の「宇宙戦艦ヤマト」第四話のコンテはどういう風にお話が。

「海のトリトン」で当然西崎さんが名前を覚えてくれていたのでしょう。最初のヤマトは松本零士先生と山本映一監督が並列みたいな形でいて、その上に西崎さんがいるという印象でしたが、山本さんも虫プロ時代の僕の上司だから、西崎さんと山本さんの間の合意で、僕に声をかけたのかもしれません。
とてもよく覚えていたのは、そのシナリオがすごくつまらなかった。

西崎さんの世代の持っているメカニック感みたいなものが陳腐すぎて、僕にはとてもじゃないけれど許容できなかったんですが、それでコンテをストーリーごと全部描き直しちゃったんです。そうしたら呼びつけられて、その時全ての主導を取っているのが西崎さんだとはっきりわかりました。

「お前、何で勝手にシナリオを直したんだ」
「つまらないから直したんだ」
「これで発注したんだし、シナリオ通りにコンテを切ってくれ」
「シナリオ通りに切ったらつまらなくなるけれどもいいか」
「いい」

といった会話が交わされました。
翌々日ぐらいに書き直したのをポンと持って行き、それでOKが出て、それきりです。
とにかく西崎主導の作品だということがわかったから、一緒に仕事をする気もなかったし、こっちもケンカを売ったんですよね。見事に縁が切れて良かったよと。それが僕にとってのヤマトです。

西崎さん個人の体臭は「海のトリトン」で何だかんだいっても知っていましたけれども、ミーティングで西崎さんが親分になってエラく張り切ってやっているのを見たときに「こりゃダメだ」と思いましたから。

「ヤマト」がああいう風にヒットしたことについて言えば、正直とても嫌な現象でしたね。ただし、アニメの製作に西崎さんのような外部の人間、つまりクリエイターではなくどちらかというと営業とか商売先発で来る人が入ってきたのはいい事だと思いました。

だから「ヤマト」で感じた嫌悪感は、実は西崎主導の作品という以上に時代が変わったとわかったからです。
手塚治虫というマンガ家と絵描き集団で始まっていたアニメというビジネスに全く異種の人が入ってきてビジネスを起こそうとしているというのが、とても抵抗あったんです。そういう意味ではウブといえばウブだったんですね。何よりもオンエア以後のところで「ヤマト」がヒットしていくプロセスを見ていった時に、やはりビジネスというのはこういうものだという部分で、西崎さん的な人のプロダクトを了解したというのはあるんです。

ただし、業種がそういう風に変質していくのを見ていくのが、あの年代の頃は嫌だったんでしょうね。

−マーチャンダイジングで、後に「ガンダム」などで確立されるような、おもちゃの販売のために映像があるといった・・

「ヤマト」は全く逆です。プラモデルがそんなに売れるわけはないし、それで潤うわけはない。あくまでも<芸能>という部分で、興行師に近い人がアニメで商売出来ると思い、映像作品レベルでペイできる状態にしようとしたということで、その志は良しですよ。だからまずTVのダイジェスト版の映画をヒットさせ、次のオリジナル映画の製作まで売り込んだんです。それが僕は悔しかったのと同時に、アニメも捨てたもんじゃないなとも思いました。でも「ヤマト」のひとり勝ちにしたくなかったので、「ガンダム」を始めた時には<打倒西崎>を意識する必要があったし、何よりも西崎さん的なプロデュース論を、みんな真似して欲しいと思いました。
(2000年富野全仕事より抜粋)




<参考>
1.ヤマトの物量に及ばないガンダム(キャラクターデザイン 安彦良和氏)
「ヤマトがきっかけになっったとは思いますね。あれの5分くらいのパイロットフィルムを見に行ったことがありまして、そのときの衝撃というか、こういうことをされてしまった、これからどうしたらいいんだろうというショックがあったですね。途中、ぼくは「ヤマト」につきあったんですけれど、やっぱり何かしでかされるとそのあとがしんどくなる。そこのところで底上げされるわけですね。だけど誰かが底上げしていってくれないとダメなんですよ。ただ、「ガンダム」を作るときに「ヤマト」と決定的に違ったのは、物量が比較にならんのですよ。

ぼくは「ヤマト」でコンテを書くことになって、創映社(現サンライズ)から桜台のスタジオまで通ったんですけど、行って驚いたんです。創映社で当時、「0テスター」っていうのをやってたんですよね。その3シリーズくらいイッペンにできるなって思った。とにかく豊富な物量があって、ああいうアタックの仕方が可能になるのかって納得したんですよね。「ガンダム」の場合には、それがもう全くないわけ(笑)。だから、そういう意味ではもう一発底上げしてやろうみたいなことは全然なくってね。

物量でカバーできないところはしょうがないっていうんでほっといて、そのかわりストーリープランとか、アイデアで勝負できればなあというのが、富野さんにしてもぼくにしてもあった。よく言うんだけどホワイト・ベースなんていうチンケなものが43本やって1回も”中割り”で動いてないんですよ。全部引っぱって(笑)。「ヤマト」は、戦艦が10何秒かかって動くんですよね。あれがまず一つのショックだった。「ガンダム」は、ああいうこと一切やっていない。ホワイト・ベースなんていうのは単純でね、箱がこうくっついてて、ぶざまな格好をして、あれいくらでも中割りできるんですよ。色もベタだし、いくらでもできるんだけど、それをやらないし、やれないわけ(笑)。もう枷をはめちゃうんですよ、物量がないからっていう枷を。

TVの「ガンダム」で中割りなんてのは、一回もやったことないですよ。映画の新作で2カットぐらいやってるんですけどね。中割りをやろう、映画だから中割りをやろうとね。
砲塔とかなんとかが中割りで動くってのはもう、技術的な限界を越えてる。特にアニメの常識を超えてる。そういうムチャクチャをバックにやらしたっていうの・・すごいよね。
だから、西崎さんのようなファンサイドのプロデューサーとか、あるいは、松本零士さんみたいな、いわゆるビッグネームって言われる作家がいて初めてできる。(1981年 ロマンアルバム 機動戦士ガンダムより抜粋)

2.ホワイトベースのSF考証について(脚本・考証 松崎 健一氏)
大気圏突入を果たしたホワイト・ベースは、今度は何と空中浮揚してしまうのです。あの小さな翼で、しかも下方には外見上、特別な浮揚システムは見られないのに。
ホワイトベースは空中浮揚しながら後進までかけました。

(「富野さん、何てことしてくれんのよ!」)・・・

これがその画面を見たとき、私が心で叫んだ言葉でした。考証役として、こんな話は全然聞いていなかったんですから。
とにかくテレビで流れてしまったからにはしかたがないので、泣く泣く仲間と一緒に理屈づけをはじめました。

これが前述したミノフスキー物理学への発展の糸口だったのです。ミノフスキーの立方格子の集合による場に対する反発場を形成して、ホワイト・ベースの質量の多くを支持し、通常の推進システムを併用して、初めて、完全な浮揚と前後進を得るという方法−。
この空中浮揚システムを発端に、ミノフスキー粒子という魔法のランプから急激にミノフスキーの応用技術が拡がりだしたのです。

メガ粒子砲、ビームサーベルそして小型の核融合炉、等々。みーんなミノフスキー粒子のおかげで説明がついてしまったのです。
(1981年 ロマンアルバム 機動戦士ガンダムより抜粋)

3.ホワイト・ベースは「ダイターン3」からうまれれた(メカニカルデザイン 大河原 邦男氏)
ホワイト・ベースの色は、その名のとおり全体がほとんど白だから、いわゆる質感を出すのがむずかしい。誰だ!ホワイト・ベースの色に「白」などを思いついた人は!うらめしい。

じつは、ホワイト・ベースの口絵を描きながら思い出したことがある。
案外、マニアの間にも知られていないことだと思うが、あのホワイト・ベースは「ダイターン3」の企画段階で、すでに登場していたのである。全体が三分割され、その(分割されあ)ブロックの各々がメカチェンジするといった設定だった。

残念ながら「ダイターン3」はもとより、分割ウンヌンの設定は「ガンダム」でも画面にあらわれずにオミットされたが、ま、かろうじて形体だけは息を吹き返したということである。つまり、1年以上眠っていたメカ設定が、地球連邦軍の戦艦として生まれ変わったのが「ホワイト・ベース」なのである。(1981年 ロマンアルバム 機動戦士ガンダムより抜粋)


4.Vガンダムにおけるバイク戦艦の登場について(富野監督)
作品論的な面で評価できることというのは基本的にはあるとは思えないのが、『Vガンダム』という作品です。

そして、そういうことを誘導してしまった、もう一人の陰のプロデューサーがいるわけです。それは当時のバンダイの人物なんですけれども、その彼が強権を発動してきたために、バイク戦艦みたいなバカなものまでださなければならないことになったわけです。

製作が始まった頃になて、僕は生まれて初めてバンダイ本社に呼びつけられて、その役員から直に「戦艦を出せ」と言われました。「本当に戦艦を地上でも浮かせて飛ばすというのなら、バイクだって空飛んでいいんでしょう?」と言ったら、「飛ばしてよ」と言われ、「本当ですね」という話になりました。

そんなふうに、『Vガンダム』にはもう一人の、絶対権力を発揮できるプロデューサーともいうべき人物がいたのです。だから、そういう形で作られたものが、あらゆるデザイン論の中に現れてきたというのは、あれは基本的にバンダイの仕事です。それは強権発動であって、「それをやってくれなければ、あんたには降りてもらう」と言われました。本当にバイク戦艦でいいのかと言ったら、「かっこいいじゃな
いですか」という返事でした。

経営ということを考えている自分を、クリエーターだと思い込んでいる大人というのはすごいものだな、と思いました。自分が狂っているとは、今日現在までも絶対に思っていない方ですから、そのことのすごさというのは、企業を滅ぼすし、国家も滅ぼすと思いますね。

しかし、「ああ、この人にそういう話をしても通じないな」と思いました。それをやってくれなければ富野を外すよ、というふうに言われた時に、・・今ようやく思い出しましたが、僕、その時に降りなかった一番の理由というのは、もちろん生活の理由ということもありますが、「こういう状況なのであれば、このガンダムはおれがやっておかないと、全部瓦解するな」と思ったんです。全部潰されるなと思いました。だからその後、ガンダムはさらに3シリーズありますが、(「Gガンダム」から)「ガンダムX」までの経緯というのは、わかるでしょう?基本的に彼の仕事なんです。それは、おもちゃ屋さんが手を出したら、全部こうなるんだよっていう、現実のサンプルなんです。

『Vガンダム』の時に、そういう外部からの夾雑物が入ってくるのを阻止できなかったのは、僕の立場がフリーランスで弱いからということもありますが、それだけではないということです。もし本当に監督として、原作者として力があったら、その人物程度でも企画書見た時に「あ、これは入れられないな」と思わされるはずなんです。そういう力を持てなかったというのは、しょせんこちらも愚民の一員でしか
なかったということであって、「バカ同士なら、そりゃ札束持った奴の方が強いよね」ということでしかありません。

だから、そういう中で作られている作品というものを、一生懸命見たりするのはやめた方がいいのです。それは作品として考える必要なんか全くないんだから、見る必要なんかはありません。『Vガンダム』に関しては、大人の汚濁に満ちた結果の作品なんです。

だから、今度発売されるDVDに関しても「こんなDVDは買ってはいけませんよ。こっちは一応商売で売り出しますけどもね」というエクスキューズくらいしておくべきです。きれにして売るようでは、もっとひどい愚民に堕ちるということです。








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