ハウルの真実

ハウルのDVDが発売されるということもあり、今回はハウルについて書きます。

ハウルの動く城は、普通に見てしまうと、普通のいい話に見えます。

しかし、他の宮崎作品同様、実際は、はるかに深みがあり、難しい物語です。

なぜ、宮崎監督は「ハウルの動く城」にひかれたのか?

映画の原作となった一巻「魔法使いハウルと火の悪魔」を見ているだけだと、理由はよくわかりません。

しかし、二巻「アブダラと空飛ぶ絨毯」を読むと、この物語が非常に特殊な構造になっていることに気づきます。

第一巻と第二巻が同じような構造を持っているのです。

そして、第二巻では、他人に無理やり悪事を強制させられる3人の男が登場します。

そのうち、2人は、他人のせいとは言いながらも、悪事を働いたことについて、実は自分でもそこに楽しみを見出していたことを告白します。

ハスラエル「この何ヶ月かは、それ以前の数百年をあわせたより、はるかに面白かった。ダルゼルが俺に悪の楽しさを教えたのだ」

兵士「正直に言うと、おれはインガリーをあちこちさまようのを楽しむようになった。悪い奴でいるのも楽しかったんだよ。」

ところが、もうひとりの人物、つまり、ハウルだけは、そのような告白を行いません。彼はただ弁解だけします。

ハウル「ぼくのせいじゃない!国王に命じられたんだ!」

本当でしょうか?

他の2人が、強制的に悪事を働かせられることに面白さを感じていたと言っている以上、ハウルも、本当は、魔法を使って戦争を支援するのに楽しみを見出していたと考えるほうが筋が通っているでしょう。

実際、それをほのめかす以下のようなセリフがあります。

ハウル「確かにぼくが思いつきさえすれば、国王に考え直すように言うこともできたはず。」

映画版では、原作にはないシーンとして、戦闘兵器としてのハウルが登場します。彼は、国王のためにいやいや働かされていたのでしょうか?もちろん、基本的にはそうでしょう。

しかし、同時に、戦争で街を破壊することに楽しみも見出していたのではないでしょうか?

サリマン「お母様に、そなたの正体を見せてあげよう」

化け物になるハウル

ソフィー「ハウル、だめ!わなよ!」

(以上、映画版)

ハウルの気持ちは明言されていませんが、彼は、戦争を起こし、戦闘機を撃墜し、街を破壊することに楽しみを見出してたはずなのです。

それは、原作2巻での悪事を働く人物たちの告白からも類推できますが、何よりも、宮崎監督の作品全てに共通するテーマでもあります。

なぜ、宮崎監督の作品には常に戦争シーンが登場するのか?なぜ、原作にはない爆撃シーンを映画には加わったのか?

崎監「実は、こういう趣味をやっていくっていうのは、人にはとても言えないことですけれども・・頭の中で、無数の空中戦をやり、無数の海戦をやっているんです。」
「だから、いったいどれほどの数の航空母艦や、どれほどの航空船隊や、どれほどの数の飛行機や、どれほどの数の
その飛行機のための工場なんかを、いろいろと頭の中で練り上げたかわからないんです。」
「「ホントは、いつもこれだけをやっていられると楽しいんですけれど、これはまったくの趣味ですからね(笑い)。」
(雑想ノートより)」

つまり、戦闘を楽しんでいるハウルは、戦闘を楽しんでいる宮崎監督そのものです。

ハウルが、いやいやながら戦闘をしている顔をしながら、実は楽しんでいる面があるように、宮崎監督にとって、戦闘シーンを挿入することは、多くの映画において楽しみとなっています。

一方、宮崎監督のプロの作家としてのスタンスは、あくまでも登場人物が浄化されていく姿です。(詳細は、ハウルの動く城論(殺戮兵器が恋をするまで)などを参照ください)

悪の道に走っているキャラ達が、純粋な主人公にふれ、次々と変わっていく・・

これらをあわせて考えると、なぜ、原作にはない戦闘シーンが映画に加わったのかが、明確になります。

まず、宮崎監督は、戦闘を楽しみながらも、それを隠すハウルに、自分に近いものを感じたのでしょう。

しかし、一方では、宮崎監督のプロの作家としてのスタンスは、登場人物の浄化です。

そこで、原作第二巻でハウルが隠している戦争の楽しみを、宮崎監督自身が個人的に楽しめる戦闘シーン(ファンタジックな第一次世界大戦風)にかきかえ、第一巻が原作であるはずの映画版にあえて挿入したのです。

こうするにとによって、戦争を行うハウルが浄化され、化け物の姿から脱するというストーリー展開が可能となります。

つまり、

@原作のハウルの深層心理(命令されているといいながら戦争を楽しんでいるはず)

A宮崎監督の個人的楽しみ(戦闘シーンへのこだわり)

B宮崎監督のプロとしての浄化ストーリー(悪事を働くキャラが心変わりする)

が見事にひとつにつながるわけです。

まさに、すべてがうまくいく、「ハッピーエンドってわけね」(by映画版サリマン)です。

冒頭にあげた鈴木プロデューサーの言葉と異なり、宮崎監督が「ハウルの動く城」にひかれたのは、単に動く城のイメージが気に入ったからという問題ではなく、原作に存在する、悪事や戦争を楽しむ人々と、自分の戦争趣味と、プロの作家としての浄化ストーリーが、見事に一致する物語であることに気づいたからでしょう。


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