大きな変更のひとつは、ハウルを兵器として明確に描き、戦争描写を加えた点。
もうひとつは、あれほど避けていたキスシーンを加えたことです。
なぜ、宮崎監督は戦争シーンとキスシーンを加えたのか。
これを理解するには、実は、宮崎アニメ全般の分析が必要なのです。
ここでは、まず、宮崎アニメの本質的な特徴が何であるかを考え、
次に、宮崎アニメがどんどん変化していく流れを追い、
最後に、結論として、ハウルの動く城で戦争シーンとキスシーンが加わった理由をまとめます。
1.宮崎アニメの本質的な特徴
宮崎アニメ独自の特徴は、3つの点から成り立っています。
職業作家として目指しているスタンスと、自分の個人的な興味と、自分でも無意識に表現しているものとです。
[一つ目の点:職業アニメ作家としてのスタンスとしての「解放感」]
「僕は漫画映画というものは、見終わったときに解放された気分になってね。作品に出てくる人間たちも解放されて終わるべきだという気持ちがある。」(アニメージュ文庫「また会えたね」より引用。)
この過程を、宮崎監督は「浄化」と呼びます。
敵だと思っていた人物が、主人公に影響されて、どんどん味方に変わっていくのです。
(「未来少年コナン」のダイス、モンスリー、「天空の城ラピュタ」のドーラから、
「千と千尋」の銭婆、「ハウル」の荒地の魔女まで)。
「コナン」で最後まで悪役だったレプカでさえ、浄化される寸前だったといいます。
作中の人物達の心が解放されていくのを見て、観客の心も解放された気になります。
宮崎監督が重視する「解放感」は、しがらみのない外部からの来訪者による、
囚われた人物の文字通りの「解放」というストーリーでも表現されますし(「未来少年コナン」のラナ、
「カリオストロの城」のクラリスから「千と千尋」のハク、「ハウルの動く城」のハウルまで)、
後先を考えないで決断する楽天的主人公達でも示されます。
また、映像表現で言うと、空中を飛ぶときのシーンも、まさに観客に「解放感」を感じさせます。
(「千と千尋」のハクと千、「ハウル」のハウルとソフィーなど、他にも多数)
以上、制約から解放される人物や情景を描くことで、視聴者の心を解放し、
応援しようというのが、宮崎監督の、映画作成におけるスタンスです。
[二つ目の点:監督の意識的な好みとしての「兵器への愛着」]
監督の心を捉えて放さないものに、ギガント、ラムダ等の兵器があります。
「魔女の宅急便」を受けたのは、飛行船を描けるという思いだったし、
「ハウルの動く城」では戦争シーンが重要な役割をにないます。
「紅の豚」については、
「子供たちではなく、自分のための映画をつくってしまった」と悔やんだそうです。
また、宮崎監督は、いろいろな兵器の活躍を説明する漫画を何冊も描いています。
なお、映画の悪役が欲しがっていたのも(「未来少年コナン」のレプカ、「天空の城ラピュタ」のムスカ、
「さらば愛しきルパン」のニセルパンなど)
、ヒロインの女の子ではなくて、本当はいつも機械(殺戮兵器等)だったことにも注意してください。
[三つ目の点:監督の無意識的な思いが反映された「異形のものと仲の良い少女」]
宮崎監督の女性表現は特徴的です。
いろいろあるのですが、例えば・・
・親がいないこと(とくに母親がいなかったり、いても冷たかったりします。)
・成人女性が傷をおうこと(クシャナ、エボシ、モンスリー)
これらは、宮崎監督の子供時代より、母親が大病だったことからきているようです。
しかし、今回特に注目したい点は、宮崎監督が、自身の容姿について
過度に自信が無いことです。(例えば、自分を豚で表現するなど)
自分自身の容姿についての自信の無さは、「異形のものと仲の良い少女」というテーマを生み出しました。(トトロとサツキやメイ、オームとナウシカ、ポルコ・ロッソとフィオなど)
そして、この「異形のものと仲の良い少女」というテーマは、先ほどあげた「兵器への愛着」というテーマと交じり合い、「巨大な力(兵器)の鍵を握る少女」という像を生み出しました。
ラナから千やソフィーに至るまで、女性は、常に自分以上の力(場合によっては世界を滅ぼすほどの力)の管理者でした。
2.
宮崎アニメが変化する過程
今までは、宮崎アニメ全般に共通する本質的な要素を考えてきました。
この章では、逆に、宮崎アニメ作品が、作品ごとにどんどん変化していく過程に注目してみます。
時期ごとに、必ずしも明確に区分できるわけではありませんが、おおまかにいうと、4つの時期にわかれます。
先ほど見た宮崎アニメの3要素のうち、1番目の浄化作用による「解放感」と2番目にあげた
「兵器への愛着」は、本来両立しません。
なぜなら、殺戮兵器は、その性質上、解放しようがないからです。
<1978年〜1980年 破壊される兵器の時代>
悪役ですら浄化され、解放されていく宮崎作品において、兵器だけが唯一取り残されました。
(初期作品におけるギガントやアルバトロスは、悪役の道具として使われ、破壊されます)
しかし、宮崎監督の兵器への情熱はとても深いものです。
「一番自己犠牲的で、一番高潔で、一番無垢なんですよね。
もっとも破壊的な力をもったものがそうなんですから」
「機械というものに霊的なものが宿るんだということもありうるのではないか」
「その機械やいきものが本当にものをかたり始めたら」
(徳間書店「出発点」より引用)
このような視点を持つ宮崎監督にとって、兵器が、ただ悪人に利用され、燃え上がる展開は耐えられるものではありませんでした。
<1980年〜1986年 兵器が顔を持った時代>
「さらば愛しきルパンよ」や「天空の城ラピュタ」に登場するロボットのラムダは、顔を持つようになり、
少女に従う点で、宮崎監督の兵器への熱い思いを実現するという、重要な転換を果した兵器でした。
小鳥を肩に乗せ、ラピュタを侵入者から守り続けるラムダの哀れな表情を思い出してください。
また、戦闘兵器を平和のために役立てようという小山田マキによって、兵器は初めて殺戮以外の可能性を持つことができたのです。
なお、ここで、少女(小山田マキ)と異形のもの(ラムダ)との交わりが、「強大な力(殺戮兵器)を制御する悩み」
という新たなテーマを生み出したことにも注意してください。
<1982年〜1996年 兵器が無垢な魂を獲得した時代>
映画では「となりのトトロ」以降、「殺戮兵器」は影をひそめました。
ところが、連載が始まっていた漫画版「ナウシカ」で、遥かに強大に力を増していたのです。
同時に、この時期は、「雑想ノート」で、ひたすら空想上の兵器を描き続けた時期でもあります。
つまり、映画では兵器が出てこなくなったのですが、その分、いくつもの漫画で、兵器は多数描かれ続けました。
さて、漫画版ナウシカの巨神兵は、無垢な兵器です。
そして、ナウシカを「マーマー」と呼び、役立つことをしたいと願います。
ナウシカは、彼を「無垢」と名づけます。
ついに兵器は、先ほどあげたインタビューで宮崎監督が語っていたような「無垢な魂」を獲得したのです。
圧倒的に強力な兵器が、無垢な魂を持つようになると、重要なのは、もはや敵ではありません。
無垢で巨大な力をどう導くか、という点に、話のポイントは移ってきます。
つまり、少女と、強力で無垢な兵器が精神的に結びつくストーリーが明確になると、悪役がつけいる隙はなくなり、
悪役そのものが存在意義を失うことになったのです。
そしてそれは同時に、初期宮崎作品の主人公であった、コナンやパズーのような、素朴な少年像の終焉でもありました。
なぜなら、兵器は、無垢で献身的で、しかも強力であり、少女との精神的な結びつきも強いのです。
役割はだぶっており、もはや、少年が活躍する場はなくなったのでした。
<1997年〜2005年 兵器が人間と融合した時代>
13年続いた漫画版ナウシカが終わり、映画に全力が捧げられるようになった「もののけ姫」からは、
戦闘によるヴァイオレンスシーンが宮崎アニメに戻ってきます。
そして、「もののけ姫」では、兵器の圧倒的な破壊力は、アシタカの腕というかたちで、初めて人間と結合します。
主人公の容姿がりりしくなり、少年というより美青年に近づいたのも、兵器と融合した影響でしょう。
宮崎監督は、「もののけ姫」の真のテーマは、アシタカが如何に自分の衝動を制御できるかということだと説明していました。
続く「千と千尋の神隠し」では、戦闘兵器は、目的を見失って利用される美声年ハクとして登場します。
彼は、少女に導かれることで自分を取り戻そうとする点で、これまでの宮崎アニメにおける兵器の後継者です。
映画は、ハクが自立しようというところで終わります。
とうとう、兵器は、魂を獲得するのみならず、自立への意思を持ったのです。
そして、「ハウルの動く城」が製作されます。
ハウルは、魂を悪魔に渡した強力な戦闘兵器であり、権力争いの道具であり、自分を開放してくれる女性を待っている存在でもあります。
ここでも、衝動の制御が大きなテーマであることは、化け物に変身するハウルを見せることで明示されています。
サリマン「あの子はとても危険です。心をなくしたのに、力がありすぎるのです」ソフィー「心がないですって。でも、あの人はまっすぐよ。自由に生きたいだけ」
単なる戦闘兵器か、無垢な精神の体現者か、この会話こそ、宮崎アニメの作品群をつらぬく縦糸であることは、
ここまで読まれた方なら納得されるでしょう。
そして、宮崎アニメ史上初めて、殺戮兵器であったハウルは、権力者からの自立をかちとり、ソフィーとともに旅に出るのです。
3.
まとめ〜殺戮兵器が恋をするまで〜
悪役も、素朴な少年もいなくなった宮崎作品。
戦闘兵器は意識をもち、人と結合しながら、暗い本能を如何にして制御するかという試練の中で、ハウルへと至りました。
権力者に操られる強力な兵器としても、少女に救いを見出す点でも、
宮崎アニメにおける兵器の歴史の発展はハウルという美青年に集約されているのです。
そして、この瞬間は、最初にあげました宮崎監督の本質的な3つの要素である、作家としてのスタンスである「解放感」と、
本人の趣味である「兵器への愛着」と、無意識な思いからきた女性像である「異形のものと仲の良い少女」とが、
前向きに一致した稀有な地点なのです。
だからこそ、あれほど宮崎監督が嫌っていたキスシーンまで取り込み、一方、ハッピーエンドしかありえない宮崎作品の中で、
それでもあえて
「ハッピーエンドというわけね」という言葉を、入れたくなったのでしょう。
一言でいえば、「ハウルの動く城」までの宮崎アニメの歴史とは、悪役に利用されるだけの「殺戮兵器」が、数十年の歳月をかけて、
暗い衝動を抑えた美青年へと「浄化」され、少女と恋愛をなしとげる過程だったのです。