風の谷のナウシカ論 序章


漫画版ナウシカは、13年にわたって書き続けられました。
当然ながら、2時間で終わる映画に比較し、遥かに大きなスケールで描かれています。
しかしながら、その巨大なスケールの物語は、本質的に他の宮崎作品と何が異なるのでしょうか?

一般的には、宮崎監督の作品理念は「浄化」です。
つまり、一見敵のように見えている登場人物たちが、主人公の行動に接することで、どんどん良い面を引き出されていきます。
そして、このような「浄化」作用が最も徹底的に行われたのが、「ナウシカ」でした。

そのこと自体は、驚くことではありません。
いつもは、映画の2時間枠に縛られていた宮崎監督が、13年間描きつづけた漫画中では、大規模に浄化を描いただけのことです。


ここで、宮崎作品の一般的な特徴が漫画版ナウシカではどのように追求されているか、ざっと確認してみましょう。
(この部分の詳細は、メインページにある宮崎監督論を参照ください)

@システムにおける相互作用が徹底していること
a.社会環境(皇帝、虫使い、強国と小国、国家宗教と土俗宗教、歴史)
b.自然環境(フカイ、オーム、粘菌)

A浄化作用が徹底していること
クシャナ、神聖皇弟、虫つかい、王の息子達、王、巨神兵

B少女と異形の生物の関係の徹底
オーム、巨神兵


つまり、上記の要素は、たしかに漫画版ナウシカならではのスケールではありますが、基本的に他の宮崎作品の延長の範囲です。

ところが、読まれた方ならわかるように、「風の谷のナウシカ」決定的に他作品と異なる展開が用意されています。

それは、「墓所の主」との対決です。
最後に出てきた「墓所の主」だけは、浄化の対象にはなりません。
それどころか、「墓所の主」は自らの「浄化」プランを語りだします。

「浄化のための大いなる苦しみを罪への償いとして、やがて再建への輝かしい朝がこよう。」
「交代はゆるやかに行われるはずだ。永い浄化の時は過ぎ去り、人類はおだやかな種族として
新たな世界の一部となるだろう」

それに対してナウシカは言います。
「あわれなヒドラ。お前だって生き物なのに。浄化の神として作られたために、生きるとは何か、
知ることもなく、最もみにくい者になってしまった。」

「浄化された世界に私達は憧れてもそこでは生きられない。あなたは素からそう変わったといいました」

つまり、漫画版ナウシカの解釈の最も難しい点は、宮崎監督が、常に自分の理念として表明し、作中でも好意的に用いられていた「浄化」という言葉が、突如最悪の言葉としてナウシカから否定され、逆に墓所の主の言葉に変わる瞬間にあります。


もうひとつ、同じような言葉に「虚無」という言葉があります。
これは、やはり、ナウシカが、何度も戦い続けた、全ての努力を無に帰そうという存在です。
ところが、やはり、ラストにおいては、これはむしろナウシカに向けて使われます。

ナウシカ「それはこの星が決めること」
墓所の主「虚無だ!!それは虚無だ!!」
ナウシカ「王蟲のいたわりと友愛は虚無の深遠から生まれた!」
墓所の主「お前は危険な闇だ 生命は光だ」
ナウシカ「ちがう いのちは闇の中のまたたく光だ!!」
ナウシカ「すべては闇から生まれ闇に帰る お前達も闇に帰るが良い!!」
墓所の主「お前達は希望の敵だ!」

人類の復興と生命を希望とする墓所の主と、虚無と闇を肯定するナウシカ。


この後、ナウシカは、墓所の主と、新たなる人類の種を、巨神兵を使って破壊します。
悪魔、闇の子と呼ばれ、自分のやっていることの罪深さにおののきながら・・

なぜ、墓所の主が当時としては最も良い動機から作られたことを理解し、自分の罪深さにおののきながらも、ナウシカは墓所の主を破壊しなてくてはいけなかったのでしょうか?
せっかく人類の再生プログラムが進行中であり、すばらしい文化が保存されているというのに。


このように、漫画版ナウシカを分析するには、次の3点を検討する必要があります。


・墓所の主の存在と計画を許さなかったのはなぜか。

・「浄化」「希望」という宮崎アニメの主役達を表現する言葉は墓所の主の言葉となり、
ナウシカは「闇」「死」「虚無」の存在へと逆転したのはなぜか。

・そして、ナウシカが使徒であるということはどういうことか。

この3つが、漫画版ナウシカを、他の作品群とは決定的に分けているのです。

この3点が何故現れたのか、そして、実はこの3点が密接に結びつき、ナウシカのテーマを示していることを示すのが、
本論のテーマです。

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