天空の城 ラピュタ論
最終章 ドーラの若き頃の写真に込められた20年目の真実



最後に、ドーラの写真の意味についてもうひとつ書く。

前章では、あまり考証もせずに書いたが、ドーラの寝室にある、若かりし頃のドーラの古い写真の意味である。

私が、初めてラピュタを見たときは、その少女の意味がわからなかった。

せいぜい、ドーラのようなお婆さんにも、かわりい少女時代があったのだなーというぐらいである。

最終的に、私にとってこの写真が持つ意味が充分に認識できたのは、映画ラピュタの公開から20年近くたった2003年のことである。

この年、宮崎駿監督は、音楽アルバムを作ることを思い立つ。

主旨はこうである。

「新しい良い歌がほしいとつくづく思っています
沢山の歌が今も生まれつづけ、古くからの良い歌も沢山あるのですが、今、この時代、この時、この国から良い歌が生まれた!と感動して、つい口ずさみたくなる歌が、出現したらなぁって思っています。
私達の生活の根っこは砕け、日々ゆらぎながら日を送っているのですが、ねむっている私達の中の何かを目覚めさせ引き出してくれるメロディーや詩があるのだと思っています。
それを見つけてください。 
お願いします」
宮崎駿
(アルバム作成に協力してもらう作家達にあてた言葉)

そこで、宮崎監督自身は、アルバムタイトルであり、1曲目でもあるこの曲を作詞し、久石嬢さんに作曲を依頼した。

「お母さんの写真」

アルバムの古い写真の中で
色あせた麦ワラ帽子かしげて
笑ってる
小さな女の子
白く光ったエクボ
まぶしい笑顔

お母さんが小さな女の子だった頃の写真
帰らない遠い夏の日の
届かない あこがれ

サルスベリ 影おとす古い家の
門の脇
知らない仔犬だきしめ
笑ってる
小さな女の子
ゆれる短いおさげ やさしいひとみ

お母さんが小さな女の子だった頃の写真
帰らない遠い夏の日の
届かない あこがれ

お母さんが小さな女の子だった頃の写真
いつまでも変わらぬ輝き
遠い夏の日



この曲こそ、ドーラの寝室にかざってあった、老婆の少女時代の、色あせた古い写真と同じものを表現しているのではないだろうか?

シータも、ドーラも、おさげ髪である理由も、この詩を読めばわかるだろう。

まだ病気もせず、小さな女の子だった頃のお母さんと、一緒に冒険することこそ、「天空の城ラピュタ」という作品に秘められた最大の思いであり、「届かない あこがれ」だったのだろう。


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