天空の城 ラピュタ論
第一章 宮崎アニメにおける少年


初期の宮崎アニメにおいては、少年は、純真で天真爛漫である。

元気で、勇気にあふれ、無鉄砲で、優しくて・・

理想的な少年像である反面、あのような少年が実在するものだろうかという気もわいてくる。

もちろん、創作において、登場人物が必ずしも実在する必要はない。

しかし、「どうぶつ宝島」、「未来少年コナン」、「天空の城ラピュタ」などを代表とするように、何度も繰り返されているテーマというのには、それ相応の、作者の思いがあるはずである。

宮崎駿監督は、なぜ、あのような少年像を好んで描いたのだろうか?

インタビューによれば、内向的だった宮崎駿監督の少年時代とは正反対とのことである。

あの少年は、宮崎監督から見て、こうありたかった自分の少年時代の理想的な姿ということだ。

それを、子供たちにも見せることで、映画を見た子供たちも、こうなって欲しいという思いを込めているのだろう。

言葉を換えて、ゲド戦記ふうに表現すれば、あの天真爛漫な少年像は、宮崎駿少年の「影」である。

実在の宮崎駿少年の、正反対の特徴を持つ少年として、誕生し、独自の存在感を持って活動していたわけである。

とくに、少年時代の宮崎駿監督について、弟の至朗氏はこう語る。

「駿兄貴は、どちらかといえば内向的、ひ弱な感じ、スポーツはニガ手で、好きなのは本を読むこと、絵をかくこと」
「駿兄貴はとても器用で、市販の工作用の気の角材を彫り、全長10センチから15センチくらいのサイズの飛行機をよく作っていた。 」


つまり、天空の城ラピュタにおける機械工のパズーは、宮崎駿少年と同じ趣味なのである。

ただ、内向的か、天真爛漫で行動的かが、違っているのだ。

自分でオーニソプター(鳥型飛行機)を作ってしまうパズーは、まさに宮崎少年の理想に違いない。

おそらく、他のキャラクター以上に、パズーには自分を投影させていたのだろう。

ここで、もうひとつ、忘れてはいけない要素がある。

それは、宮崎駿監督の息子達が、ちょうど小学生ぐらいまでの期間に造形されたキャラクターだということである。

自分の子供達に作品を見せるうえでも、理想的な少年像を見せることで、自分の子供にこうなってほしいという思いがあったのだろう。


このことは、理想的な少年達が、宮崎作品から消えていった理由でもある。

宮崎監督は、自分の子供が思春期を迎えたとき、こういっている。

「(作りたい作品は)自分の子供の成長と関係あるんですね。

子供がいない時は自分のために作りたかった。幼児がいる時はチビを楽しませるために作りたい。少年になると自分がその頃に夢見た物語が湧き出てきちゃう。今、自己形成期になって、自立と依存の間をゆれている息子を横目で見てると、なんというか、自分の中に闇が存在しているのに気がついた頃の自分を思い出すわけですね。

闇を持っていながら、だから光を持って進んでいける少年の自己形成の物語をやってみたいです。」



つまり、思春期に入った子供に対して、理想的な少年像ばかり描いても、受け入れられないということだろう。

自分の子供が闇の部分を持ち始めた以上、むしろ、闇を抱えた少年を主人公としなくては、息子の成長の指針にもならないだろうということだ。

こうして、理想的な少年よりも、むしろ闇を抱え、それと対峙する少年像を作ることを考え始めたのである。

そこから、「呪われた運命の少年 アシタカ」という主人公のイメージが生まれる。

ところが、企画が「もののけ姫」として実現するまでに15年ほどかかってしまったために、息子もとっくに成人し、「呪われた少年」の理由についても、なんだか意味が不明となり、結果として、主人公が心に闇を抱える理由も変わってしまった。

宮崎駿監督コメント「不条理に呪われないと意味がないですよ。だって、アトピーになった少年とか、小児喘息になった子供とか、エイズになったとか、そういうことはこれからますます増えるでしょう。不条理なものですよ」(もののけ姫製作後の説明)


このへんは、宮崎監督自身の社会認識の変化とも絡むのだろう。

いずれにせよ、天真爛漫な少年像は消え、アシタカ、ハク、ハウルと、少年は闇を持つことになる。

天真爛漫な少年が主役になることはなくなったのだ。


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