私自身として、マイケルの行動の中で、特に残念だったのは、ソニーへの批判デモである。
マイケルは、これ以上なく、悲しい怒りを持ってソニーを批判している。
(訳を見たい方は、ニコニコ動画をどうぞ)
ファンや仲間のミュージシャンを扇動した抗議は、ソニー戦争と呼ばれた。
私は、昔、ソニーに知り合いがいた関係でマイケルの来日時にサインをもらってもらった事があり、ソニー内にもマイケル・ファンが多数いることを知っていた。
また、ソニーがマイケルと長期契約を結んでいたのは、単なる投資対象のアーティストとしてではなく、マイケルを所有しているということ自体に価値を見出しているからだ
ということも知っていた。
では、なぜ、マイケルが、ソニーとあれほどこじれてしまったのか?
今回いろいろ調べていくなかで、マイケルとソニーは、非常に複雑な関係であることがわかった。
簡単に言うと、以下の5者の力関係の問題なのである。
・ソニー創業家(盛田家)
・日本のソニーの意思決定者
・ソニーアメリカ代表
・ソニーの音楽部門代表
・マイケル・ジャクソン
これらの関係は、3つの観点で説明できる。
そしてまた、この3つの観点で同時に考えないと、理解できない。
よく言われるように、単にトミー・モトーラとマイケルの個人的な諍いと考えたり、マイケルが勝ったと考えるのは間違いであると思う。
@ソニー内の政治抗争の道具としてのマイケル・ジャクソン
A投資対象としてのマイケル・ジャクソン
Bソニー創業者とマイケル・ジャクソンの関係
マイケルとソニーの確執を知るためには、まず、ソニー創業の歴史から始めなくてはならない・・
1.ソニー内の政治抗争の道具としてのマイケル・ジャクソン
ソニーは、日本最大の企業家の一人である、盛田氏と井深氏によって創設された。
創業時は、言うまでもなく技術中心のメーカーであった。
ソニー設立趣旨書には以下のように書いてある。
「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき、自由闊達にして愉快なる理想の工場の建設」
つまり、もともとは、技術者のための会社として設立されたのである。
しかし、有名なベータ対VHSのビデオ規格の戦いで、ハードの技術的には勝っていたにも関わらず、松下に負ける。
ソフト資産さえ持っていれば、規格争いで負けることはなかったと、創業者の盛田会長はたびたび口にしていた。
その結果、ソニーは、アメリカのソフト産業(音楽や映画)の世界に参入することとなる。
しかし、ソニーが、アメリカのソフト産業の世界に参入するに当たり、どうすればうまくやれるのか、日本人には誰にも分からなかった。
工場での電気製品づくりとは、あまりにも異質な世界なのだから当然である。
そのため、CBSやコロンビアを買収するにあたり、アメリカのエンターテイメント・ビジネスの世界に詳しい、水先案内人が必要と考えた。
ソニーは、これぞと見込んだ人に全権を与えてアメリカを任せ、うまくいっていればそのまま放置し、トラブルが起きたら、クビにするというやり方をとった。
80年代に全権委任されたのは、イエトニコフである。
「1986年、イエトニコフはCBSレコードの経営をがっちり握り、社長兼最高経営責任者としてこの分野のスーパースターたちのほとんどと、親密な個人的関係を保持し
ていた。そのなかには、マイケル・ジャクソン、ブルース・スプリングスティーン、パーブラ・ストライサンドなどがいる。」
(「ドリーム・キッズの伝説」より抜粋)
ちなみに、この時点のCBSレコードは、ソニーの最大の稼ぎ頭である。
イエトニコフとマイケルは長年の付き合いがあり、スリラーの成功以来、ことに仲良くなっていた。
このイエトニコフがCBSの米国部門の社長として雇ったのが、後にマイケルともめることになるトミー・モトーラである。
モトーラは、元ポップ・シンガーで、レコード会社のエージェントだった。
彼は就任後、ボストンの「ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック」というロックバンドと、イギリスのマイケル・ボルトンをマネジメントして成功させた。
そして、新人のマライア・キャリーとも契約した(後に結婚)。
そして、イエトニコフに対し、更なる権限の委譲をしつこく求める。
イエトニコフは、うるさいモトーラの解雇を考え始める。
しかし、ソニーが解雇したのは、上司のイエトニコフの方であった。
なぜか?
この政治闘争の経緯は諸説あるが、いずれもマイケル・ジャクソンが間接的に絡んでいる。
イエトニコフが語っている話は、以下のようなものである。
モトーラは、ソニー・ミュージック内で、マイケルの新レコード・レーベルを立ち上げようとし、イエトニコフともめた。
イエトニコフは、モトーラの企画を失敗させるため、自分の権限でマイケルのベスト盤を販売しようとする。
それを察して、モトーラは、シュルホフというソニー・アメリカの重役と語らい、日本の大賀社長にイエトニコフの讒言を行った。
結果、ソニー・アメリカの全権を握っていたイエトニコフは解雇される。
イエトニコフを蹴落としたシュルホフは、コロンビア買収の翌年には、ソニー・アメリカ全体の最高経営責任者兼会長となり、世界のソニーのビジネスの半分を支配すること
になる。
しかし、この権力闘争で最高経営責任者となったシュルホフは言う。「勝ったのはトミー・モトーラだ」
新しいソニー・アメリカの権力者になったのはシュルホフだったが、上司イエトニコフがいなくなったトミー・モトーラは立場を強化し、1993年には、全世界のソニー・
ミュージックエンタテイメントの社長兼最高業務執行責任者になる。
さて、この後、盛田会長や大賀社長の支持を背景に、新たなソニー・アメリカの支配者シュルホフはアメリカで好き放題にやりたいことをやり、日本のスタッフ達と意識差が
開いていく。
全権を握ったシュルホフは、様々なことしたが、その一つが、マイケルとのパートナーシップであった。
これは、マイケルの6つのアルバムや映画、テレビ等が含まれ、10億ドルを生みだす事業とされた。
日本のCMで、ソニーがマイケルを使っていたのもこの時期である。
シュルホフは「マイケルの事業部長」とまで呼ばれるようになった。
しかし、権勢を極めたシュルホフも、大賀体制が終わり、出井社長の時代になると、解雇される。
代わりにアメリカの統治者として選ばれたのが、後にソニー初のアメリカ人社長となるストリンガーである。
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さて、このようなソニーの歴史の中から、何が読み取れるだろうか?
・イエトニコフ、シュルホフといった歴代ソニー・アメリカのトップ達は、直接マイケルと交渉し、その関係の良さをうりにしていた。
・マイケルとの関係や、ベスト盤の発売は、ソニー・アメリカにとって権力争いの道具となっていた。
・モトーラは、マイケルをだしに、イエトニコフを追い落とした。
マイケルは、自分とそのアルバムが、ソニー・アメリカの権力闘争の道具になっていることを、誰よりも良く分かっていたはずである。
2.投資対象としてのマイケル・ジャクソン
先ほどのような政治的な闘争は別として、純粋にお金の観点で見ると、ソニーは、マイケルに2つの意味で投資をしていた。
@アーティストとしての投資
イエトニコフの時代には、マイケルとの信頼関係のもと、スリラーの成功があった。
また、好き放題やっていた「マイケルの事業部長」シュルホフの時代には、史上最高額の8億9千ドルの契約を結んでいた。
これは、10億ドルの収益を生み出すはずであった。
しかし、そのような成果は生み出さなかった。
当時、私が、日本のソニー関係者に聞いたところでは、ソニーはもともと10億ドルを本気で実現できるとは考えていないということだった。
それよりも、マイケルがソニーに所属していることに意義があるのだと。
盛田会長の視点などは、まさにそうだったと思われる。
例えば、盛田会長がコロンビアを買収したときも、収益的には合わないとされた。
だが、ハリウッドに進出したいという盛田会長の熱意により、買収は決定された。
それはともかく、アーティストとしてのマイケルが、想像ほどの売り上げを獲得できなかったのは確かだろう。
まず、マイケル自身があまりまともにアルバムを出さなかった。
契約第一号のデンジャラス以降は、ベスト版+1枚のヒストリー、そのリミックス版であるダンス・オンザ・ブラッド・フロアーなど、若干位置づけが曖昧なアルバムが続いた。
それから、裁判などによるイメージダウンの影響もあっただろう。
一方で、ソニーからすれば、マイケルには十分に費用をかけているという意識もあったはずだ。
例えば、スクリームは、史上最高額をかけたミュージックビデオとされている。
ゴーストなども、凄い費用をかけ、素晴らしい作品に仕上がったが、限定版ビデオでのみ発売というやり方では回収できなかったと思われる。
また、映画の投資失敗もあった。
マイケルの発想をもとにしたミュージカル冒険活劇は、10回以上書き直され、数百万ドル費やしたあげく、放棄されたという。
このような背景の中で、インヴィンジブルが作られる。
マイケルが考えていたアンブレイカブルのビデオ案はトミー・モトーラにより却下され、代わりに「You Rock My World」には3億円をかけることとなった
。
これらの作品への費用のかけ方は、アメリカでは非常に批判的に見られていたようである。
ローリングストーン誌のマイケル追悼号に掲載されている当時の記事は、厳しい言葉が並んでいる。
「この作品(スクリーム)のどこにそんな金がかかったんだ?」
「いい作品は大金を投じなくても売れる」
「墓の下の二人(アンブレイカブルの声)に莫大な印税を払っている」などのようなことである。
しかし、マイケルの作品が、もともと奇跡的な売上をあげたのは、ミュージックビデオの力が大きい。
まともなビデオが1本しか作れなかった「インヴィンシブル」では、せっかくのマイケルのダンスの魅力がほとんど
発揮できないし、大きな売上も期待できない。
デンジャラス並みのビデオ数でも作れれば、「インヴィンシブル」もずっと売れただろう。
マイケルが、トミー・モトーラやソニーに対して抗議デモを行うまでに怒りをエスカレートしていったのは、この点が最も大きいだろう。
そして、アメリカのソニーの支配者が、イエトニコフや、シュルホフであれば、マイケルの言うとおりに出資していただろう。
また、日本の盛田会長が元気なら、間違いなくマイケルを支持しただろう。
盛田会長の意を重視し、自らも音楽家でもあった大賀会長でも、マイケルを支持したかもしれない。
だが、(日本)出井−(アメリカ)ストリンガー−(音楽)トミー・モトーラという体制下では、マイケルを徹底的に支持する人間は誰もいなかった。
A共同事業者としてのマイケル
マイケルは、プレスリーやビートルズの曲の版権を購入し、持っていた。
この価値が非常に高くなっていたため、ソニーはその権利を欲しがっていると言われた。
客観的な情報を多数のせている「マイケル・ジャクソン裁判」でさえ、序文では以下のような噂を記載している。
「マイケル・ファンの多くは長い間、マイケル破滅の陰謀に企業が加担していると信じ続けてきた。
ソニーの有力者がマイケルのキャリアに壊滅的なダメージを与えるため、噂を広めたと確信していたのだ。」
「マイケル自身、陰謀説を長らく公に主張してきた。エルビス・プレスリーやビートルズの楽曲を擁する
ソニー/ATVのカタログの権利を手中に収めるため、共謀者たちが自分を破滅させようと画策している、
というのがマイケルの言い分だった。マイケルは、告訴人とその家族がソニー/ATVの音楽著作権を
占有しようと目論む「敵」から金銭供給を受けていると信じていた。」
ソニーにとって、マイケルの持つ膨大な楽曲の版権が魅力的なのは確かだろう。
マイケルの認識では、マイケルを意図的に破滅させようとしているそのソニーの有力者こそ、トミー・モトーラであった。
Bトミー・モトーラとマイケルの対立の真相(仮説)
ソニー全体から見れば、はっきり言って、ソニー/ATVのカタログなど小さい話だと思うのだが、ソニー・ミュージックという観点ではこの世で最も大きな話である(ビートルズやプレスリーの曲の権利である)。
ここまで書いてふと気付いたのが、ソニーの権力者とマイケル担当の構造は以下のようになっている。
全米ソニーの代表 | マイケル・ジャクソンの担当 | |
---|---|---|
80年代 | イエトニコフ | イエトニコフ |
90年代 | シュルホフ | シュルホフ |
96年以降 | ストリンガー | トミー・モトーラ |
つまり、95年まで、マイケルに投資していたのは、全米ソニーの代表者だったのだ。
世界のソニーグループの売り上げ(年間8兆円)の半分に責任を持つ人物である。
マイケルへの投資が、思うように成果をあげなくても小さい話であり、むしろアイコンとしてマイケルに接していた。
ところが、96年以降は、マイケルは、あくまでもソニーの音楽部門のトップと話しをしているのである。
だからこそ、トミー・モトーラは予算を出し渋ったり、マイケルが持っている音楽資産を取ろうとしていたのだろう。
よほど成功確率がないと、ミュージックビデオにしても、巨額の投資はできなかった。
というか、正確に言うと、そんなに自由にできる予算を持っていないのだろうし、他のアーティストの手前、一人だけ別格扱いにするわけにもいかなかったのだろう。
イエトニコフやシュルホフと異なり、トミー・モトーラは単なる音楽部門のトップだったのだ。
そして、新しい全米ソニー代表となったテレビ放送出身のストリンガーは、マイケルとは親しくなかったのだろう。
マイケルは、そもそもトミー・モトーラのような小物を相手にしはいけなかったのである。
そのことにマイケルは気づいていたのだろうか?
おそらく、わかっていただろう。
それが、次のテーマである。
3.ソニー創業家とマイケル・ジャクソン
盛田会長とマイケル・ジャクソンには特別な親密さがあった。
マイケルは盛田会長を尊敬していたし、盛田会長もマイケルを可愛がり、自宅に呼んだりしていた。
そして、盛田会長が脳卒中で倒れた時、海外から真っ先に連絡をしたのはマイケルであった。
以下、奥さんの良子さんのページからの転載である。
「1993年10月、昭夫(盛田会長)が病に倒れたその時、海外から一番初めに届けられたメッセージは、マイケル・ジャクソンからのものでした。
それは彼自身が作ったヒーリングテープでした。彼は彼自身の声で幾度も「ミスター盛田、ミスター盛田…」と呼びかけていました。「あなたは必ず良くなる。必ず話せるようになる…」。そして、彼の選んだ静かな曲が流れます。再び又同じ様に「ミスター盛田、…」。彼の呼びかける声が幾度も繰り返されるテープでした。そのテープの箱には彼自身の手書きで次のことが書かれていました。
『これを朝、昼、晩にかけて聴いて下さい。マイケル・ジャクソン』と。
私は、昭夫が朝起きる時間の10分前からこのテープをかけ、そして夜ベッドに寝かせてからこのテープが終わるまで聴かせて休ませることにしました。これは、6年余の間、昭夫が亡くなるまで、毎日続けられました。
1998年、ハワイ、ホノルルでマイケルの公演がありました。車椅子の主人を押して、このショーを観に私はホノルルのアロハスタジアムに出掛けました。
翌日、彼は私共のハワイの別荘に見舞いに来てくれました。昭夫が顔をくしゃくしゃくにして喜んだのは、申すまでもありません。今もその時のマイケルの優しい姿を思い出します。 」
マイケルのこれ以上ない優しさがよくわかる。
そして、マイケルの歌を、盛田会長は、亡くなるまで6年間、毎日聞いていたのだ。
奥さんを除き、倒れた盛田会長にこれほどの貢献をできた人間が一人でもいただろうか?
「日本の私生活上の友だちの多くは、盛田が弱っているところを見られるのを喜ばないだろうと気遣って、訪問を控えている。」(「ドリーム・キッズの伝説」より抜粋)
盛田会長の病状は一時回復の兆しを見せたが、その後悪化の一途をたどる。
1999年、マイケルは、トミー・モトーラ、ストリンガーなどが自分の助けにならないことを感じ、最後の方法として、盛田夫人に助けを求める。
再び、奥さんの良子さんのページからの転載である。
「“アイ ニード ユア ヘルプ” 幾度も彼から電話が私に掛かって来ました。丁度10年前のことです。私はあの時、どうしてもっと彼の本当の声を聴いてあげなかったのか、と今悔やまれてなりません。昭夫の病状が一番悪い時で、私にはその余裕がなかったのです。」
この時、盛田会長が、話をできる程度に元気であれば、仮に引退していても、トミー・モトーラやストリンガーの意見を変えさせることも、解雇することも、電話一本で済んだだろう。
しかし、盛田会長は脳卒中だったため、言語障害があり、事業については倒れた後は全く何も関与できなくなっていた。
そして、マイケルが、初めて盛田家に助けを求めたこの年、盛田会長は亡くなる。
こうして、ソニー内で、マイケルを助けられる人は誰もいなくなった。
おそらく、マイケルが盛田会長に示している献身を知るものもいなかったのだろう。
4.最後に
マイケルは、日本に来るたびに、メディア・ワールドなどのソニーの施設を訪れていたし、盛田会長の自宅に泊まったこともあった。
アメリカでも、イエトニコフやシュルホフは、マイケルを別格に扱っていた。
95年までは、マイケルは、ソニーグループ全体のトップ達と強いリレーションを持ち、強い支持を受けていたのである。
他のアーティストとは別格の存在であった。
だからこそ、マイケルは、あれほど費用をかけたプロモーションビデオを作成し続けることができたのだろう。
だが、その後、マイケルの担当は、単なる音楽部門トップのトミー・モトーラになる。
ここから、他のアーティストと同じ観点で評価され、予算も減らされ、注文付けられるようになり、最後は、ソニーへの抗議デモや契約打ち切りへとつながっていく。
この時のマイケルの不満のなかには、これまで数十年に渡りソニーに貢献した実績もさることながら、一言もいわなかったが、自分の存在やアルバムが、ソニー内の政治抗争に利用されてきたことへの不満もあっただろう。
また、盛田会長がもう少し元気に長生きできれば、マイケルの支援をしただろう。
マイケルが盛田会長の最後の6年にした貢献を思えば、トミー・モトーラに対応させるのではなく、ソニー・グループとしてマイケルを支援して欲しかったところである。
(参考)このページのソニー関係の引用はすべて「ソニー・ドリームキッズの伝説」から引用しました。
凄い本ですが、マイケルについての記載はごくわずかです。ソニーの人間史に興味ある人にお薦めです。
また、マイケル・ジャクソン裁判も、参考にしたので、あげておきます。こちらはマイケル・ファンなら必見です。
また、いろいろ引用させて頂きました、ソニーの盛田会長の奥さんが書いたマイケルの思い出はこちらです。
こちらも必見です。