ポップスのキング(マイケル・ジャクソン)と王子(プリンス)の命をかけた戦い
マイケル・ジャクソンと同年代のライバルに、マドンナとプリンスがいる。
今回は、マイケル・ジャクソンとプリンスのライバル関係についてである。
2人は同じ1958年生まれ。
マイケルは、言うまでもなく小学生時代から、ジャクソン5で天才シンガーとして活躍し、ナンバー1ヒットを連発していた。
一方、プリンスは、中学生時代からバンドを結成し、地元で演奏。
プリンスは、おそらく、自分と同年生まれのマイケル・ジャクソンを憧れと嫉妬の目で見ていたのではないだろうか?
プリンスは、自分の作曲の才能と、ファルセット・ヴォイス、ギターの手腕を組合せ、デモ・テープを作るなどしてメジャーデビューを目指す。
結局、19歳でワーナーと契約することになる。
しかし、プリンスは、自分が知名度を得るには、音楽だけでは難しいと考えたのだろう。
話題作りのために、2つの工夫を行った。
ひとつは、年齢を若く見せること。
実際は19歳だったにも、かかわらず、確かデビュー時は17歳の天才少年のようなキャッチフレーズを使っていた。
もうひとつは、バイセクシャルである(かのような)風貌を前面に出し、変態チックなパフォーマンスでインパクトを演出した。
これには、自身のルックスの弱み(身長156センチ)を、強烈なインパクトで打ち消そうという意図もあったのだろう。
音楽的には早い時期から評価され、当初はローリングストーンズの前座などを行っていた。
そして、1982年の5枚目のアルバムである「1999」は400万枚の大ヒット。
確か、エディ・マーフィーはこの中のある曲を自分のテーマソングと公言するなど、知名度も上昇した。
1983年、ジェームズ・ブラウンのショーで、プリンスとマイケルは、初顔合わせをする。
(そして、これが、2人の最初で最後の共演となった。)
少年時代から人気があり、スタイルもダンスも抜群にうまく、ルックスもいいマイケルと、身長156センチのプリンス。
普通に共演したら、どう見てもマイケルの影にかすんでしまうところである。
また、声量もマイケルの方があり、ライブでは、マイケルの方が有利である。
だが、プリンスは、マイケルにだけは、絶対負けるつもりはなかった。
この時、プリンスは、恐るべきパフォーマンスを展開する。
まず、歌手であるにも関わらず、歌を歌わなかった。
そして、天才と言われるギタープレイをメインに演奏。
最後に、プリンス独特の、よくわからない踊りを、裸になって展開する。
ユーチューブの動画はこちら:マイケルとプリンス
http://www.youtube.com/watch?v=1CoxNzOOoQU
(ちなみに、この時に限らず、彼はよくコンサートで裸になり、マイクをなめたり、いろいろ気持ち悪いパフォーマンス(?)をする。)
このパフォーマンスを見た人は、なじみのマイケルよりも、皆、プリンスのインパクトに衝撃を受けただろう。
「あの気持ち悪いやつは誰だ?」と。
その意味では、このショーで自分の名を売るという点では、歌を歌わずに、プリンスはマイケルに勝ったと思う。
さて、この年、マイケルも「スリラー」を発表し、爆発的なブームを巻き起こす。
プリンスも翌年、第六作の「パープルレイン」では、アルバムも映画も大ヒットし、名実ともにトップシンガーの仲間入りを果たす。
そして、同年代で、同じくビッグヒットを放ったため、二人は、ライバルとして世間一般にも認識されるようになる。
翌年、マイケルは、ウィ・アー・ザワールドを企画する。
多数の著名なアーティストが参加する中で、ひとつの目玉は、ライバルのマイケルとプリンスが、仲良く隣同士で歌う姿を見せることであった。
しかし、プリンスが録音会場に現れることはなかった。
プリンスは、企画には賛同したものの、マイケルと一緒に歌うのは嫌だったのである。
曲は作ったものの、自分しか映っていないビデオクリップを一人で作成した。
これが、プリンスがマイケルの申し出を断った一度目である。
その後、マイケルはスリラーをこえるために、数年間の曲作りに入るが、プリンスは毎年新作を発表。
売上は上下あるが、ともかく評論家に高評価を得ていた。
売上は大きいが評論家受けは悪いマイケルとはその点でも対照的であった。
また、プリンスは歌詞に卑猥な内容が多く、変態チックな演出も多かったため、ワルッぽいイメージでもうっていた。
マイケルは、「スリラー」を超えるべく制作していた「BAD」で、自分とプリンスが共演し、「どっちがワルか」と言い合うシーンを計画した。
一度はプリンスと食事までしたという。
しかし、会話は弾まず、お互い黙りこくっていたという。
プリンスは、自分がマイケルの引き立て役になってしまうという危惧を感じ、この申し出を拒否した。
これが、プリンスがマイケルの申し出を断った2度目である。
この時期、もうひとつ忘れてはいけない点は、マイケルの妹ジャネット・ジャクソンの存在である。
彼女は、当初ジャクソン・ファミリーの支援を受けて音楽活動を行っていたが、成果が出なかった。
ジャネットは、ジャクソン・ファミリーから離れ、プリンスの仲間(正確にはプリンスのバンドをクビになった・・)であるジャム&ルイスのプロデュースを受け、アルバム「コントロール」や「リズム・ネイション 1814」を出し、兄のマイケルと同等の知名度を獲得することになる。
マイケルとしては、複雑な気持ちであったであろう。
さて、90年代に入り、マイケルは「KING OF POP」としてツアーを行う。
それに対して、プリンスは、「POPにキングなどいない。いるのはプリンスだけだ」という垂れ幕をつけてコンサートを行ったこともあった。
初顔合わせから10年以上たっても、互いにライバル心は燃えていたようである。
90年代半ば以降は、マイケルが、まともなアルバムを作らなくなったのに対し、プリンスは、毎年新作を発表していた。
もっともプリンスも、94年以降は、一時期、プリンスという自分の名前を名乗ることををやめたので、いろいろ苦労もあったのであろう。(この時期は、「元プリンス」とか呼ばれている。ワーナーともめたり、赤ん坊がなくなったりなどの、トラブルもあった)
2000年代に入り、マイケルは2度目の裁判で全くアルバムが作れなくなる。また、自分の子供に、なぜか、プリンスという名前を付ける。歌の上手かったおじいさんの名を貰ったということだが、それにしてもライバルと同名とは・・この辺りの心理は良く分からないが、ディズニー好きのマイケルからすると、プリンスというのは、いい名前だと思っていたのかもしれない。
さて、プリンスは、毎年のアルバム発表に加え、全米ツアーを精力的にこなし、2004年には、年間最高の観客動員と収益を記録し、最も稼いだアーティストとなった。
歳をとっても着実に活躍するプリンスに対し、マイケルはどうなってしまうのかと思っていたところ、その後、驚くようなニュースが入ってきた。
2007年、マイケルが、復活ツアーを、プリンスと行うというのである。
しかし、これも間もなく、プリンスが拒否した。
真偽は不明だが、ニュースによれば、プリンスは、マイケルの復活劇の話題づくりに利用されるのを嫌ったという。
結局、20年以上にわたり、ウィ・アー・ザ・ワールド、BAD、復活コンサートと、マイケルは自身が気合いを入れていた企画に3度もプリンスを誘ったが、3度とも断られたことになる。
理由は、毎回同じ。
マイケルと共演することで、自分が引き立て役になることを嫌がったのである。
私は、ある意味で、プリンスがマイケルを物凄く恐れていると感じた。
確かに、83年のジェームズ・ブラウンのステージでは、インパクトを与えたのは、プリンスだったと思う。
だが、その後は、プリンスは2度とマイケルに近づかなかった。
誘いを断っているというより、むしろ、恐怖し、逃げ回っていたのではないかとさえ感じた。
本当の意味で、マイケルの凄さを知っていたのは、実は、誰よりも、プリンスなのかもしれない。
前回の共演は、プリンスは歌を歌わないことで、マイケル以上のインパクトを持った。
だが、もしまた二人で並んだら、プリンスは、マイケルに負けないために、何か凄いことをやらざるを得ないのだろう。
その勝算がなければ、プリンスはマイケルと再度並ぶ気はなかったのではないだろうか。
仲良く一緒に歌うという発想は、少なくともプリンスには全くなかったのだろう。
同じステージに立つ以上、勝つか負けるかしかない。
本当のライバルとは、そういうものかもしれない。
一方、マイケルはプリンスをどう見ていたのか。
私はてっきり、そんなに気にしていないと思っていた。
だからこそ、何度もプリンスに声をかけているのだろうと・・
ところが、実態は違ったようである。
今月のローリングストーン誌(2009/10)の記事を見て驚いた。
記事を抜粋しよう。
「マイケルは復活ツアーを09年7月8日からO2アリーナで全31公演(後に50公演)行うことに同意した。
フィリップス(コンサートの企画者)によると、公演回数は決して適当な数ではないのだ。
07年にプリンスが同会場で行った豪華絢爛なショーの回数に、10公演上乗せした数字で、マイケル自身が選んだのだ。
どうやら、87年にプリンスが”バッド”でのデュエットを断って以来、マイケルの中ではプリンスに対して対抗意識を燃やしているようである。
20年経った今もなお、ライバルを上回るものをやって世界に誰が”キング”かを見せつけたいと思っているのだ。」
今回、50公演という、誰が見ても無謀なスケジュールのきっかけになったのは、マイケルのプリンスへのライバル心だったのである。
さらに驚くのは以下の記事だ。
「マイケルにとって、いちばんの問題は夜だった。
彼はもう何年も不眠症を訴えてきた。
しかし、彼にとって創造力が最も豊かになる時間帯でもあった。
「昨日あまり眠れなかったんだ。」とマイケルはオルテガによく言った。
「音楽を作ってたんだ。いろんなアイデアが沸いてくる時間なんだよ。それを放っておくわけにはいかないからね。」
それに対して、オルテガも、「だったらマイケル、神様にお願いすればいいじゃないか。アイデアを7月13日まで棚上げしておいてくださいって」と冗談で返した。
するとマイケルは、「ダメだよ。そしたら神様はそのアイデアをプリンスにあげてしまうかもしれないじゃないか」と答えたという。」
つまり、マイケル不眠の理由の一つは、プリンスへのライバル心だったのである。
マイケルは、体調不良のなかで、プリンスに負けないために、無謀な数のコンサートを企画し、睡眠時間を削って音楽を創造していたのだ。
ライバルに勝つために、文字通り命を削っていたといえるだろう。
また、この言葉から、マイケルがプリンスの何を恐れていたかが、わかる。
そのアイデアである。
評論家から高い評価を受ける楽曲作りはもちろん、数々の業界初の試みが、マイケルにも感銘と脅威を与えていたのだろう(アルバムを新聞に付け無料で配布したり、コンサートチケットにCDを付けたり、インストロメタルだけのアルバムを作ったり、全ての曲をつなげて曲選択できないアルバムを出したり、20曲以上のヒット曲をつなげてメドレー1曲にしたり、1曲を9バージョン展開してCD1枚にしたり、流通経路を省いて小売店から直接販売したり、ネットを使った色々な試みをしたり、アルバムをブートレグとして出荷(?)したり・・)。
この2人が、もし手を組んでいたら、どのようなものが出来たか、想像もつかない。
残念ながら、マイケルが亡くなったことについて、プリンスからコメントは出されていない。
(私が知らないだけかもしれないが)
おそらく、プリンスにとっても、大きな衝撃だったのではないだろうか。
もしかすると、コメントを発することができないほどの・・
(参考)記事を引用したローリングストーン誌です。その他、プリンスの代表的なアルバムのいくつかです。一番ヒットしたのがパープルレイン、ブートで出したのがブラックアルバム、ジャケットが気持ち悪く有名だが内容は素晴らしいラブ・セクシーです。