ジャクリーン・ケネディとマイケル・ジャクソン

 

<マイケル・ジャクソンと女性達 1>

1.ジャクリーン・ケネディ

以前、人を介してマイケルのサインをアルバム「HISTORY」にもらった時、マイケルは2箇所サインをつけてくれた。

ひとつは歌詞カードだったのだが、もうひとつは同梱のミニアルバムであった。

そのとき、なぜか、ページは、ジャクリーン・ケネディのページであった。


エリザベス・テーラー、ダイアナ・ロス、その他大勢の著名人がコメントを寄せているこの小冊子の中で、なぜ、ジャクリーン・ケネディなのだろうと不思議な気がした。

ジャクリーン・ケネディ・オナシス・・・

言うまでも無く、彼女はケネディ大統領夫人であり、海運王オナシスの妻であり、かつ、マイケル・ジャクソンの自伝「ムーンウォーカー」の編集者だ。

そもそも、彼女は大統領夫人になる前、ジャーナリストであった。

ケネディ大統領夫人であるときも、海運王オナシスの夫人であるときも、彼女は、つねにジャーナリストの目線で、夫達を眺めていたのではないだろうか?

オナシスの死後は、また、当然のように、ジャーナリストに復帰した。

莫大な財産と名声、経歴は、結局、彼女がジャーナリストであることに何の影響も与えなかったかのようである。

そして、ジャーナリストとしての彼女が、生涯で最も気合を入れて選んだ題材が、マイケル・ジャクソンであった。

最初にマイケル・ジャクソンに自伝の出版を求めたのが1983年。

嫌がる彼を説き伏せ、ようやく自伝「ムーンウォーク」を出版したのが1988年。

2作目「ダンシング・ザ・ドリーム」を出版したのが1992年である。

じつに、10年もの歳月をかけ、マイケルに2冊の本を作らせたわけだ。



二人の最初の出会いは1983年。

彼女は、もともと、稀有な著名人としてのマイケル・ジャクソンに関心をもち、自伝を書かせることを思い立った。

マイケル・ジャクソンにとっても、ジャクリーンは憧れのアイドルであったため、自伝執筆に興味はなかったものの、ジャクリーンと会えることに有頂天になっていたという。

マイケルは、本の執筆の話より、彼女がいかにしてしつこい記者達をさばいているかを聞きたがったという。

また、ジャクリーンがあくまでもマイケルに自伝を書くことを要求したのに対し、マイケルは自分の写真や詩などのスクラップブックを作ることを提案した。

この、自伝とスクラップブックというアイデアが、それぞれ、5年後、9年後に「ムーンウォーク」、「ダンシング・ザ・ドリーム」として具体化されたわけだ。


さて、自伝「ムーンウォーク」は、マイケルのアイデアをもとに、実際の執筆の多くは他の編集者が行なうことになった。

そして、ジャクリーンは、以下のような序文をつけている。

「マイケル・ジャクソンについて、どんなことを知っていますか。世界でもっとも喝采を受けるエンターテイナーのひとりである彼は、革新的で刺激的なソングライターで、フレッド・アステアやジーン・ケリーたちと同様、重力を手玉にとるかのようなダンスの先駆者でもあります。

仕事に対して、彼がどれほど自分を注ぎ込んでいるか、おそらく一般の人たちはお気づきではないと思います。休むことも、ほとんど満足することもなく、絶えず自分自身に挑戦する完璧主義者なのです。

多くの人にとって、マイケル・ジャクソンは理解しにくい人物に見えるかもしれませんが、彼と一緒に仕事をした人間にとっては、そんなことありません。

この才能溢れるアーティストは、感じやすく、心温かく、おかしくて、また、洞察力にも富んでいるのです。マイケルの本「ムーンウォークは、仕事をしている時の彼と、人の目に映る時の彼に関する驚くべき一面をかいま見せてくれます。」(ジャクリーン・ケネディ・オナシス)



しかし、ジャーナリストとしてのジャクリーンは、マイケルのこの自伝が、真実ではないことに気づいていた。

何度も取材するうちに、彼女にとってマイケル最大の謎は、彼の性的指向の問題になっていたのだ。

自伝「ムーンウォーク」のデザインを手がけたスタッフはこう言う。

「マイケルの家にはキッチュなピエロの絵がいくつも飾られ、トリップした世界を思わせた。ジャクリーンは私に、彼はゲイかしらと何度も聞いたよ」

「(取材して)車に乗り込んだとたん、彼女は言うんだ。『ねえ、彼は女の子に興味があるのかしら?』ジャクリーンは彼の性的指向のことばかり考えていたね。結局突き止めることはできなかったけど。」



彼女の夫達は女性に大変興味があることで有名だったから、よけいに、マイケルの行動が不思議だったに違いない。

しかし、実際に出版したマイケルの自伝「ムーンウォーカー」では、彼女が感じた疑問は一切封印されている。

彼女は、この後、マイケルの母が更なるマイケル擁護の本を出版しようともちかけたときには、断わっている。

ジャーナリストとしての彼女は、単なるマイケル擁護本には興味がなかった。


さて、この本の出版から4年後、マイケルのアイデアに基づいた「ダンシング・ザ・ドリーム」を出版することになる。

その翌年(93年)、13歳の少年からマイケルに対する訴訟がはじまる。


そして、マイケルと少年の和解(94年1月)から、わずか4ヶ月後の94年5月、ジャクリーンはその波乱の生涯を終える。

ジャーナリストとしてのジャクリーンは、おそらく、少年の訴えと和解の過程を見て、マイケルの性的指向について、彼女なりに納得するものがあったのではないだろうか?

身体を悪くしていたジャクリーンがマイケル裁判の終結後わずか4ヶ月で亡くなったことについて、私は、彼女のジャーナリストとしての執念を感じる。

マイケルの自伝をもちかけてから11年。

2冊の本を書かせた相手の、最大の謎に関する裁判の終結を見ないでは、ジャーナリストとしては、死ぬに死ねない気持ちであっただろう。


ジャクリーンの死後、裁判と警察の取調べでボロボロであったマイケルは、以下の声明を発表した。

「彼女は僕の友人でした。友人とは数少ないもの。生前の彼女を知る人はみな痛烈にその死を悼むでしょう。」



さて、冒頭に述べた、私がサインをもらったのは、96年。

マイケルのヒストリーの中でも、96年時点で印象深い一人を選ぶとすれば、亡くなって間もないジャクリーンだったのは、当然のことだったのかもしれない。


(参考文献)ムーンウォーク、マイケル・ジャクソンの真実、マイケル・ジャクソン観察日誌、マイケル・ジャクソン 今世紀最大のスーパースターの悲劇と真実



 



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