イデオン論
イデオンは、難しい物語でした。
もちろん、ストーリーを追うだけなら簡単です。異星人間の出会いが、エゴにより破滅に導かれる。しかし、両種族間の子供が救世主の役割を担い、イデの力で、新たなる生命として再生していく・・。
しかし、イデオンという作品が内包していたものは、これだけではないでしょう。どのような観点から考えれば、イデオンという物語の可能性を十分に理解することができるのでしょうか。結局イデとは何だったのでしょうか。そのことを考えると、イデという概念の謎もさることながら、ひとつひとつの演出の意味を解きほぐし、全く異なる観点から結び合わせていく必要がああります。
第1章 ファースト・コンタクト(異文化との接触)
イデオンは、初めは、地球人とバッフクラン人という2種族の出会いを描いた、いわゆる「ファースト・コンタクト」ものとしてはじまります。
このような2種族の出会いを描く物語は、SFやアニメでは定番です。
しかしながら、イデオンにおける表現は、他のアニメとは、あきらかに異なります。
それは、異文化の接触という視点が含まれているからでしょう。
そもそも、両者とも、相手と戦争を行おうという意図はありませんでした。バッフクランはイデの力の探索を行うため、ソロ星に来たのであり、知的種族との接触は避ける方針でした。
「異星人が我々と同じ文明レベルを持っているとしたら・・接触を避けねばならんから、イデの捜索ができなくなる。」
一方、ソロ星の住人は、移民としてやってきただけです。
しかしながら、カララが異人種に興味を持って接近したため、護衛のために戦闘機が出撃することとなります。そのとき、バッフクラン人パイロットの心にあるものは、カララの身に危険が生じれば、自分達の一族全ての破滅であるという恐怖だけです。これは、地球人側からは想像もつかない、バッフクランの氏族制社会の文化的問題です。パイロットは、恐怖から、地球人側に先制攻撃をかけ、戦端を開きます。
一方、この行動は、地球人側から見れば、単なる侵略戦争にしか見えません。自分達も命を守るため、子供も含めてバッフクランに攻撃をしかけていきます・・。
その結果、今度は、バッフクランからは、好戦的な種族として解釈されることになります。
戦闘力はバッフクランの方が圧倒的に強力でしたが、たまたま掘り起こされた遺跡であるイデオンを使用して地球人は勝利を納めます。
その結果、強大な軍事力を誇る種族として認識されます。
このような誤解の過程はその後も続くことになります。
地球人が停戦のために白旗を掲げたのは、その最も象徴的な例です。地球人の文化にとっては,白旗は無条件での停戦を意味する記号です。ところが、バッフクランにとっては、白は、相手を全滅させるまで戦いぬくという意欲の表明に他なりません。バッフクランにとっての停戦の意味はオレンジが示すのですが、それは文化コードの異なる地球人にとっては知らないことですし、逆に白の意味をバッフクランは知り様もありません。
さて、当初はバッフクランはソロシップを見くびっていました。自分達の戦力を用いれば勝てると考えて戦力を増強していったのです。そして、生体発信機をソロシップにとりつけ、どこに逃げても常に攻撃をしかけていきます。
やがて、イデの巨大な力に、バッフクランは恐怖を感じるようになります。いつかは自分達の種族が全滅させられてしまうのではないかとおびえ、その結果として、一層戦力を増強し、どんなことがあっても殲滅させようと考えます。
つまり、当初は勝利のために戦力を増強していったのが、後には恐怖のために増強していくのです。
しかしながら、ソロシップ側にとっては、このような事情は、どっちにせよ、同じです。ただ、自分達を守る戦いでしかありません。
もちろん、異文化コードの問題は、常に不一致に終わるとは限りません。
たとえば、バッフクランにはサムライという概念があり、これは名誉ある戦士の階級です。地球で軍人としての教育を受けているベスにも、誇りがあります。サムライであるギジェと、ベスは、サムライの流儀に従って決闘を行います。また、後にはサムライの誇りとして、武器を携帯しない相手を殺すことを思いとどまります。
お互いの、軍人としての価値観がほぼ一致したのです。これは、逆に民間人にとっては共有されない価値観です。
カーシャ「なんで殺さなかったのよ!敵なのよ!」
ベス「礼には礼をもって答えるのが、サムライだ」
カララも、サムライの娘としての誇りを持っています。
「このようなことは、サムライの娘としては当然のたしなみです。」
そして、後に自分に帰る場所がなくなったことがわかったとき、
ベス「カララ、私のような異星人でいいのか」
カララ「ベスは、サムライです。」
ここまで見てきたように、イデオンにおける2種族の出会いは、異なる文化コードを持つもの同士の出会いとして描かれています。
それは、時には正反対であり(白旗)、時には一致することもあります(サムライの名誉)。しかし、サムライのように一致する場合でさえ、全人類に共通の概念ではなく、あくまで軍人の中における一致であり、民間人とは異なる文化コードなのです。
これらから、何を学ぶべきでしょうか。
一言で言えば、自分の物差しで相手を推測することの危険性でしょう。特に、異星人との出会い、ファースト・コンタクトであってみれば、なおさらです。全く違う文化を持つものに対して、自分の価値観が通用すると思いこむことは、取り返しがつかない悲劇を生む可能性があります。
カララ「同じ知性を持った者同士、必ず理解し合えるはず!」
地球人と、バッフクラン人は、どちらも生物学的には同じです。あくまでも、文化的な面が異なっていたのです。
しかしながら、それだけでも多くの誤解と悲劇が生じました。
さて、イデオンという物語は、しだいに、地球人とバッフクラン人とのコンタクトがテーマなのではなく、イデと、人間とのファースト・コンタクトこそが問題であることがわかってきます。
イデと人類との出会いはどうでしょうか。形態や生物学的構造からして全く違う存在である以上、バッフクランと地球人との間の差異とは、比較にならないでしょう。
もし、地球人がバッフクランとの接触から何かを学んでいるならば、イデを、自分の価値観にひきつけて理解したつもりになることは絶対にさけなければならない事なのです。
ところが、人々のイデについての考えを見てみましょう。
「イデとは、人々に希望と勇気と情熱を与える愛のようなもの」
「イデもエゴ・・わがままな力なのでしょう。愛などというものではなく。」
「イデには、良き力と、悪しき力の発現の可能性があります。」
「イデも生き残りたいのだ」
「我々出来そこないの人類の憎しみの心を根絶やしにするために、イデは我らを滅ぼそうとするのか」
一貫して、イデは、自分達同様、あたかも人格のように語られています。
愛/憎しみ、良い/悪い、エゴ、生き残り、など。これでは人類について語っているのと何も変りません。このような特徴を全て持つ生命体といったら人類ぐらいのものでしょう。
第六文明人がどのような生命体であったか、その意思の群体たるイデとは何で有るのか、群体化することによってどのような変化が生じたのか、これらのことが何一つ分かっていないにも関わらず、イデの持つエゴや、愛や意思について語ることは、異文化理解の仕方としては、根本的な失敗です。
イデオンの登場人物たちのイデ解釈は、最後まで、イデを自分達の価値観でしか理解できませんでした。イデが、人類とは全く異なる存在や論理で動いているのかもしれないという、疑問を全く持っていません。これでは、致命的な誤解をもたらす可能性があります。
この論文では、イデを、人間と同じ発想で動くものではなく、何らかの異質な可能性のあるもとして捉えます。そのようなアプローチにとって、まず必要なのは、イデは何を考えているのか、ではなくて、どのような行動をどのような時にとったか、を分析することでしょう。
第2章 イデ
イデとはどのようなものであるか。様々な観点からその特徴を見てみましょう。第1章の観点から、人類によってどのように語られたかではなく、実際にどのようなものであるかだけを見ていきます。
ざっとこんなところでしょうか。一目瞭然ですが、イデがその特徴を現すところには、はっきりとした法則があります。
@心/機械
A個人/群体
BC地球人/バッフクラン人
D睡眠時/起きている時
E空間/亜空間
F類史の終焉/始まり
つまり、様々な次元における、対立する項目を、乗り越えるのが、イデの特性なのです。
まず、イデとは精神でありながら、イデオンやソロシップというマシンに宿る物質でもあります。別な表現をすると、心/機械という対立では割り切れない存在なのです。
そして、その意思とは、第六文明人の意思の集合と呼ばれます。ある個人の意思と別な個人の意思とは通常別物ですが、それらが集合しているのです。
そして、イデが物語に関与しはじめたのは、そもそも両種族の母性に隕石を落とし、接触させたことによります。地球人とバッフクラン人とをイデは、徹底的に向かい合わせ様とします。
(Ex.1)両種族の母星に隕石を落とす。これにより、バッフクランは調査をはじめ、両種族は出会うこととなる。
(EX.2)生体発信機を取り除いたソロシップだが、エネルギーを放出しつづけることで、常に位置を明示している。
(EX.3)カララをドバの元に送りこみ、対話させようとしている。
他にもいろいろありますが、とりあえずこんなところでしょう。
イデは、両種族を、どんな形であれ結び付けようとしていました。
ここで重要なのが、イデが直接ヒトに語りかけるときです。
(ケース1:ベス)ベスが熱病の中、イデは語りかけます。ベスは、言うまでも無く、カララの初期からの支持者であり、メシアの父でもあります。
つまり、バッフクラン/地球人という対立が弱まる位置にいるのです。さらに、熱病により、意識が朦朧とし、意識/無意識という対立が曖昧な状態になっております。
(ケース2:コスモ)コスモは、カララから輸血されます。つまり、バッフクラン/地球人という対立が、コスモの肉体の中では弱くなっているわけです。そして、やはり、意識がまだはっきりしない、朦朧とした状態で、イデの声を聞きます。
つまり、ベスにしろ、コスモにしろ、バッフクラン/地球人という対立項の弱体化(肉体的)と、意識/無意識という対立項の弱体化(精神的)が同時に起きたときにのみ、イデは現れるのです。
イデはありとあらゆる対立項の弱体化を行うようでもあります。
空間に関していえば、空間/亜空間という対立を、波動ガンによって乗り越え、結び付けます。
時間に関して言えば、人類の終焉/始まりという対立を、魂の輪廻のようにも見える形で乗り越え、結び付けます。
以上の話をまとめると、こうも言えます。
<空間>イデは、空間/亜空間という対立を超える。
<時間>イデは、始まり/終わりという対立を超え、結びつける。
<精神>イデは、自我/無意識という対立を超えたときのみ姿をあらわす。
<倫理>イデは、敵/味方という対立を超えさせようとする。
<存在形態>イデは、物質/精神(生命)という対立を超えて存在する。
こうして見てくると、やや抽象的ながら、イデの定義ができそうです。
つまり、「イデ=対立するものを結びつける力」なのです。
この定義がどこまで有効かはわかりませんが、この観点からもう1度様々な現象を見なおして見ましょう。
まず、イデがベスやコスモに語りかけたときのことを思い出しましょう。
この時の状況の特質は、
このように、対立の融和状態でこそ、イデは話しかけたのです。
では、何故イデはパウパールウを守るのでしょうか。
パウパールウにあって、他の子供、例えばアーシュラには存在しないものは何でしょうか。
ソロシップのクルーは、それは「純粋な防衛本能」ではないかと考えました。
ギジェ「純粋な防衛本能の塊であるルウと、イデオンのゲージの関係を調べる必要がある。」
しかし、自己防衛本能なら、コスモにでも誰にでもあります。
赤ん坊の方がより純粋だからというのなら、少なくとも、子供であるアーシュラに対して、他の大人のクルー以上にイデは共感するはずです。
シェリル「ルウの純粋な心がイデの力の現われであるのなら、なぜ多くの人を死に至らしめるのですか?むしろ人を生かすのが、イデの成すべきことではないでしょうか!」
コスモ「おかしいよ。自己防衛意識の塊にしては、俺たちを守ってくれない。」
彼らの疑問も、もっともです。自己防衛意識なら誰でも持っています。子どもだって、アーシュラを始め、ルウ以外にもおります。ところが実際は、ルウに対するイデの共感は、他のクルーに対するものとは明らかに異なっています。
つまり、より純粋な自己防衛(子ども)/より不純な自己防衛(大人)という区分ではなく、ルウ/その他全員(大人も子供も含む)という区分が必要なのです。
そして、ルウ/その他全員という区分をなすもの、アーシュラなどの子供たちとルウとをわけるものとは、自我(意識)の発達でしょう。
ルウは、まだ十分な自我を持っておりませんが、他の子供達はそのような段階を超えております。つまり、ルウは、ベスやコスモにイデが語りかけた状態である
の状態が、最初から備わっているのです。
ルーには、バッフクランにソロシップが狙われているということさえわかりません。それどころか、バッフクランだの、地球人だのという概念自体がまだ理解できないでしょう。
それに、自我もまだはっきりとは備わっておりません。特に、ルウが泣き出した時は、自我が最も弱く、不安定な状態となります。
これらの条件が、ルウを、ソロシップのメンバーの中でも別格の存在としてイデに共感させたものなのです。
なぜなら、イデとは、「対立する物を結びつける力」ですから、ルウの精神のように、対立自体が存在しない状態に対して、最も共鳴するのです。
「ルウが超能力を持っているのではなく、イデに近い存在なんです。話のキーポイントになっているのは事実ですが、最終回近くになるとルウにも自意識が出ちゃうわけです。で、もっとイデに近い人間が必要になるわけ(富野監督アニメック53号インタビュー)」
もしかすると、ソロシップクルーが考えたような、「純粋な自己防衛本能」こそ、実はイデが最も共鳴しないものなのかもしれません。
さて、富野監督の言葉に興味深いものがあります。
それは、「イデとは、認識の発生する場である」、「イデとは認識である」といった発言です。
「所詮イデはイデでしかなくて、一口に言いますと、<知的生物の認識力の集中した場所>だと思ってください(富野監督アニメック53号インタビュー)」
「やはり、イデは実在ではなく、”知性の認識”が共振する”場”と考えたい。(イデの発現についてのメモ)」
これは、どういうことでしょうか。
そもそも認識とは何でしょうか。
それは、多分こういうことでしょう。人間は、視覚にしろ聴覚にしろ、本当はただの信号としてしか捉えていません。カオスのような、混沌とした状態が示されるわけです。それを、意識や経験により、あるものとあるものを、対立させて判別し、抽出して選り分けていくのです。
例えば、虹を見るとします。虹の光りの変化は、実際には無数の段階にわかれるでしょう。
それを、見た人の文化コードにより、赤・青・黄色の3色に対立させて認識したり、日本人のように7色の色に対立させて認識したりします。
言葉を変えると、与えられたカオスから、意識や経験により、これとこれは別物だと対立させて切り分けをしていく作業が認識なのです。
ここで、先ほどのイデの定義「対立する物を結びつける力」というのを思い出してください。イデとは、既存の対立を破壊させ、そこから新たなる状況を生み出すものでした。認識とは、カオスから対立を抽出する作業です。
つまり、既存の対立の破壊は混沌であり、混沌から対立を発見するのが認識です。
ということは、この二つの表現は、実は同じプロセスを別の面から表現しているのではないでしょうか。
イデが認識の場であるという言葉を考慮すると、イデの特性は以下のように定式化されます。
イデの新定義・・既存の対立を破壊し、新たに再構成し続ける運動の場
だからこそ、イデは、対立するものを結びつけることを目指したのかもしれません。また、自我/無意識、敵/味方という境界が崩れるときに語りかけたのも、そのような認識の区分を破ることが、イデの特性に合っていたからではないでしょうか。
また、パウパールウのような赤ん坊にイデが共鳴するのも、まだ自我が確立しておらず、区分が流動的なため、対立が弱いからでしょう。
結論:イデとは、地球人/バッフクラン、亜空間/空間、マシン/生命といった対立を超越するところに特性がある。一言で言うならば、「既存の対立を破壊し、新たに再構成し続ける運動の場」である。
敵/味方、自我/無意識といった境界を超越することこそ、イデの共鳴の対象である。これこそ、イデが、特定の状況においてのみ、コスモやベスに語りかけた理由であり、自我が確立していないルウに強く共鳴した理由でもある。
第3章 イデの伝説
(ver1)
昔、バッフ星を治めていた女王が凶悪な怪獣にさらわれたため、光は消え、緑は痩せ、バッフ族は絶滅寸前まで追いやられた。その怪獣に、りりしい英雄が立ち向かって行った。しかし、英雄の力も怪獣の前にはかなうべくもなかった。倒れた英雄のもとへ、天から一条の光が。その中から果実が現れる。その果実を食した英雄は強大な力を得、怪獣を倒すのであった。
(ver2)映画版で追加されたもの。
もしも、怪物を倒すことに失敗した場合、世界は闇につつまれる。
イデの謎を解く重要な鍵となるこれらの神話は、どう考えるべきでしょうか。
カララは、この神話を、「イデとは愛の力である」というロマンチックな愛の神話として解釈しました。
しかし、第1章でみたように、このカララの解釈は、異文化理解の方法ではなく、あくまでも人間的な理解の仕方です。
<イデの実>
まず、イデの実とは何でしょうか。富野監督の「イデとは認識の場である」という説明がひとつの参考になります。
また、地球の神話(聖書の神話)における、「知恵の実」を食べることで人間が認識を手に入れた(例えば、男と女の違いを知った)という神話も参考になるでしょう。
つまり、イデの実とは、「認識する力」であると考えられます。
すると、この神話は、
簡単にまとめると、
既存の秩序(姫)
→カオスによる破壊(怪物)
→認識の力による新しい秩序の再編成
(別バージョンとして、認識の失敗によるカオスの拡大)
つまり、この神話は、第二章でイデを定義した、「既存の対立を破壊し、新たに再構成し続ける運動の場」であることをそのまま表現しているのです。
イデの力が、秩序と混沌の交代劇を本質とするものであることは、監督のいくつかの発言からもみてとれます。
「イデが第六文明者が存在した前宇宙を亡ぼしたのは、混沌でありすぎた宇宙だからで、それの混濁した遊びがすぎたことを認識したからではないだろうか?」
「混沌たる世界の中に生まれた種より、秩序の体系が生んだ種の中に新たな可能性を見とめたのではないか?それは、イデにとって、喜びに満ちた現象である。」
(イデの発現についてのメモより)
第4章 イデの力の2つの発現
対立を破壊するイデの力とは、具体的にはどのように発現するものでしょうか。
まず、対立をなくす方法について考えてみますと、以下の2パターンしかないことがわかります。
(例)イデがカララを父のもとに送りこんで対話させようとした事などがあります。
2.両者(もしくは一方)の滅亡により、対立自体不可能とする。
(例)イデの無限力による、圧倒的に強力な攻撃力。
そして、このどちらの方法をとるかは、人間達の選択に任されているのです。
対話を選ぶか、破壊を選ぶか。イデはどちらの力も提供しています。
この、2つの道が、それぞれ「良き力」「悪しき力」と呼ばれているものであることは、言うまでもないでしょう。
選択権は人類にあるのです。
そして、イデの神話の2つのバージョンこそ、人類が「良き力」を選んだ場合と、「悪しき力」を選んだ場合の、結果を暗喩するものと思われます。
良き力を選ぶと・・怪物を倒し、英雄と姫との結婚による新しい秩序の誕生。
悪しき力を選ぶと・・闇による混沌。つまり、敵味方全ての滅亡を示す。
だからこそ、イデは、「全力で良き力を示せ」と語りかけ、両者を対話させようとするのです。この対立がなくなり、ひとつになり、新しい秩序が生まれることを期待して(なぜなら、既存の対立が破壊されて、新しい秩序を誕生させることこそ、イデの特性ですから)。そのために、ベスとカララの関係および、メシアの誕生を評価していたわけです。
しかしながら、悪しき力を選ぶと、敵のみならず、自分達の破滅をももたらすことになります。それは、神話が伝えるのみならず、クルーも直感的に気づいていました。
(波動ガンについて)「でも、これが隠してあったということは、本当は、使ってはいけないものなのではなくて」
だからこそ、彼らは、ソロシップを離れようとしたのです。
「悪魔に魅入られた舟なら、捨てる気にもなるか」
第5章 イデのストーリーの読みなおし(カララの死)
以上、イデの定義を見なおしてきましたが、これらに基づいてもう1度物語を考え直してみます。
まず、イデを、エゴと自己防衛本能の観点から捉えるのは、根本的な誤りであったといえます。
仮に自己防衛本能に反応するならば、パウパールウ以外のクルー達に対しても、防衛機構が作動したはずです。
ところが、死を望んでいない多くのクルーが、無残な最後をとげました。
その象徴的な例がカララです。
カララは、バッフクランの人間でもあり、ソロシップの乗員であるという特殊な事情にありました。地球人/バッフクランという対立関係から最も遠い立場にいたのです。対立する両者を結び合わせようと努力し、さらに、自分はベスとの間に子供を作りました。
「ロゴ・ダウの異星人といっても、バッフ・クランと全く同じです。必ず理解し合えます。その証拠に、私のお腹の中で、新しい生命が誕生しているのです。」
このような彼女だからこそ、イデは徹底的にカララを守ったのです。イデの特徴である、対立の破壊と同調しているからです。
ところが、カララは、自分の子供を守るために、姉に銃を向け、初めて殺意を明確にします。それまで、自分の死をすら厭わなかった彼女が、初めて、自分のお腹の子供のために、生き抜くことを選んだのです。
「そこまでおっしゃるなら・・私は姉さんを殺し、赤ちゃんを生みます!ロゴ・ダウの異星人の、ベスの子を生みます。」
その瞬間、イデは、彼女を守ることをやめました。
憎しみのこころを持ち、姉を敵として対立したカララにイデは同調できなかったのです。
そのため、カララは姉に撃たれ、殺されます。あれほどカララを守りつづけたイデが、突如カララを見捨てたのは、メシアの成長にカララが不必要になったからではなく、彼女が自己防衛本能と敵対心を持ったためなのです。
カララは、イデの力と愛を同義に考えようとしていました。たしかに、どちらも、対立をなくす点では同じです。だからこそ、イデはカララを守り続けました。どんなに危険な状態になっても、最後の瞬間には命を救ってきたわけです。しかし、カララが赤ん坊への愛のために姉を憎んだ瞬間、イデの力とは相容れないものになってしまったのです。
そして、イデにもっとも近いのは、メシアとなったのです。メシアは、ルウ同様に意識/無意識が弱いのみならず、母胎の中にいるため、自分/他人という区分さえ曖昧です。これは、まさに集合的存在であるイデと同じ状態です。
この物語は、地球人とバッフクランのファーストコンタクトが問題なのではなく、あくまでも、人類と、イデという全く異なる存在のファーストコンタクトこそが問題だったのです。
しかし、人類が、イデを理解するために想定したモデルは、エゴであり、愛であり、自己防衛本能というものでした。つまり、イデという異文化に対し、人類同様のモデルで理解しようとする陥穽から抜けられなかったのです。バッフ・クランという異文化との遭遇から、学ぶべきことが、学びきれていなかったといってもよいでしょう。
そのために、クルーは、誰もイデとは何なのか理解できませんでした。
イデという存在は、両人類を引き寄せ、ぶつけあい、人類としての終焉を新たなる生命の始点と結び合わせました。
これを、人格や目的を持った神のように理解してはならないでしょう。それでは、ベス達と同様、人類型モデルをイデに適用するという過ちを繰り返すことになります。
「僕は、人間の知恵が生み出した”神”という概念に相対する1つの”力”として、イデを考えてみたんです。(富野監督インタビュー アニメージュ81年3月号)」
「神もイデなるものの一部かもしれないというよなね。(富野監督インタビュー イデオンという名の伝説)」
人間の知恵が生み出したものであるため、”神”という概念は、人格を持った、人類と同じ思考パターンを持つイメージになりがちです。
しかし、イデを、あくまでも人間にとって異なる存在であり、理解不能なものとして捉えなければ、この物語から何も学んだことにはなりません。
イデオンとは徹底徹尾、異文化コード理解の失敗の物語だったと言えるでしょう。
おそらく、イデオンとは、人間的な意味での思考を持った生命体ではなく、監督がいうように、「場」なのです。この、宇宙に存在する異次元的存在の場にのまれたら、全ての対立項が破壊され、あらたに再編成されることとなります。その再編成がうまくいかなければ、神話が告げるように、ただの暗黒のカオスのみが残ることになるのでしょう。
イデのパワーを制御することは、我々人類にはもともと無理なのです。
ただし、その力をある程度利用することは可能と思われます。
イデに同調してもらえれば、無限の力が利用できるからです。
では、どうすればイデに同調してもらえるのでしょうか。
それは、対立をなくすことです。
逆に言うと、対立を強めることは、イデの持つ、対立を破壊するパワーを呼び起こすことになります。それが、イデの発動なのです。
カララ「あなたは気づいているはずです。2つの地球の人々が憎しみ合わなければ、イデは目覚めなかったことを」
ハルル「そのもとは、お前が生んだのだ!」
カララ「お分かりになりませんか?憎しみは滅びの道です!」
ある意味で、カララが言った「イデの無限力とは愛です。」という言葉は、本質をついていたとも言えます。
愛により対立がなくなるのであれば、イデがある時期までカララを守ったように、そして、両人類の結合であるメシアに同調したように、イデの力を味方につけられます。
ただし、カララが、子供への愛ゆえに姉に銃を向けた瞬間、イデは彼女を見捨てました。
ここまで見てくると、なぜ、第六文明人が滅亡したのかがわかります。
愛は確かにイデの無限力を利用する方法ではあるのですが、愛ゆえに戦う意思を持った瞬間、その力は敵対するのです。
第六文明人は、全てをイデに合わせ、全ての対立をなくすことで、イデの無限力と合体する方向を選んだのでしょう。固体間の対立をなくし群体化し、意識と無意識の垣根をはずしてソロ星のもとで眠りについたのです。これゆえに、人類としては滅亡しましたが、イデの力と一体化する道を選んだのです。
こうでもしなくては、イデの無限力を利用するには、カララが考えていた以上の、どんな敵をも積極的に愛するような、無限の愛が必要だったのでしょう。
コスモ「なぜ、カララさんを殺した!カララさんの理想主義が、イデを抑える鍵だったかもしれないんだ!」
もう1度、神話が告げることに戻りましょう。英雄と姫とは、2つの人類のことであり、怪物こそイデのことなのです。両者がひとつにまとまることこそが、唯一、イデという化け物を抑えこむ可能性だったのです(ベスとカララの愛による、メシアの誕生)。イデの実とは、対立を再編成するための認識力を示しているのです。イデという化け物を抑えられなければ、神話のもうひとつのバージョンが告げるように、全てが無に閉ざされます。
人類独自の文化コードに邪魔されて、ここまで理解できなかったことが、両人類の全滅という悲劇を招いたのでした。
もっとも、理解したところで、知的生物には超えられない業だったのかもしれません。なぜなら、知的生物とは、カオスから対立を抽出して認識という作業を行うのが一つの特徴でしょうから。
ドバ「知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられぬことだ。欲、憎しみ、血へのこだわり。そんなものをひきずった生命体がもとでは、イデは善き力を発動せぬ。」
コスモ「俺たちできそこないの生物の・・その憎しみの心を根絶やしにするために・・イデは・・」
ドバ「我らを戦わせたのか・・」
最終章
イデとは何故そう呼ばれたのでしょうか。
ソロシップの中で、ギリシア文字に似た記号でそのようにかかれていることから、そう呼ばれることになりました。
イデという言葉は、ギリシア語のイデアを連想させます。現象の背後に隠れている、本質的、理想的な形態です。
しかし、そのイメージを思い浮かべること自体が、おそらく、異文化コード理解の罠に陥っているのでしょう。
イデアのイメージは、容易に、世界の後ろにいる神や、悪魔の存在を連想させるからです。だからこそクルーは、イデを論じる時、神、悪魔、エゴ、意志など、あたかも統一的な目的因を持った存在としてイメージしてしまったのかもしれません。
誰も、イデを無目的かもしれない「場」として想像しませんでした。
しかし、イデを、統一的な目的を持つ人格ではなく、対立を混沌へと導き、そこから新たなる対立を生み出す場として捉えることこそが、本質的なものだったと思われます。
「要するに、キリスト教文化圏の人間が作ったときに、「2001年」になってしまうんです。僕は八百万の神の日本の人間です。ですから、「イデオン」は東洋の人間が作ったものといえます。セックスのことも含めて、戦いのことも含めてですけれども、まさにそれは、オスとメスという言い方もあるんだけれども、要するにプラス・マイナスでもいいし、陰陽でもいいんです。やはり、そういった両極のものが共振し合ったときに、ぶつかり合ったときに、ものとか命というのは生成するんじゃないのかという考えに根ざしていたんで、ああなったんでしょう。(富野監督インタビュー イデオンという伝説)」
対立を認識し、両者を共振させ、既存の枠組みを破壊し、新たなる認識や存在へと至ること。
これは、白旗の解釈に代表的に見られる、異文化コード理解そのものの事をいっているともいえます。
また、敵対する2種族の対立、破壊、新たなる星での新たなる生命の誕生のことをいっているともいえます。
結局、「イデオン」という作品の本質は、白旗の解釈から人類の滅亡と再生まで、一環して流れる、対立の破壊と新たなる生成の運動といえるでしょう。