1.人類の業を打ち破れなかったニュータイプ



ガンダムにはニュータイプという概念が登場します。

この概念のアイデアは、人が宇宙規模で生活する以上、コミュニケーション能力も飛躍的向上するのではないか、というところからきています。
そして、このニュータイプが、戦争だけでなく、人の理解のベースになるかもしれないというイメージを残して作品は終わりを告げます。

しかし、ニュータイプは平和をもたらすのでしょうか。
ガンダムでは、ニュータイプの登場と対比させる形で、ザビ家の家族間の殺し合いや、シャアによる親友ガルマ殺害が描かれていたことを思い出してください。

つまり、ガンダムは二重構造になっており、一方では、宇宙時代到来による遠距離への進化的対応としてのニュータイプを、一方では家族や友人間の殺戮を見せることによる人間のエゴの問題を同時に表現していました。

どちらが、より強力でしょうか?

実は、富野監督自身は、この問題に対して、ガンダムの翌年には徹底的な結論を出し切っていたと思います。
それが、「伝説巨人イデオン」です。

ガンダムの映画の収入を利用してイデオンの映画版は製作されます。
富野監督は、ガンダムをヒットさせたのはイデオンを完成させるためだった、といいました。
これは、ガンダムのテーマの真の完成は、イデオンで結論をみるという意味に他ならないでしょう。

ニュータイプが獲得した能力は、ここでは、イデの力によって、敵見方双方の主要人物に与えられます。
つまり、(強制的にですが)お互いのメンバーは戦いのさなか、相手を感知し、心を交流させ、戦争回避の道を探らされます。
しかし、いくら直接心の交流を行おうと、お互いのエゴが邪魔をし、戦争は回避できず、滅亡への道を歩みます。


カララ「異星人より、身内の方が怖いものです・・」

その頂点に姉ハルルによる妹カララ殺しが位置します。
カララは、敵国である地球人とも理解しあえると信じ、地球人ベスとの間に子供を宿していました。
それをわかったうえで、ハルルは、美しい妹の顔を狙い撃ち、破壊します。

異星人の子供を宿したカララを殺害したことを、父は褒めますが、ハルルは叫びます。

ハルル「悔しかったのです!あの子は好きな男の子供を宿せたのに・・私はダラムの遺言さえ手に入れられなかった!
同じ姉妹でありながら・・」


理解しあうということは、距離の問題ではないのです。
むしろ、近い関係の方が、それだけ憎しみが増大するかもしれません。


そして、人は理解しあえるのか否かという問題の、結論は以下の言葉です。

ドバ「知的生物に不足しているのは、己の業を乗り越えられぬことだ。欲、憎しみ、血へのこだわり。そんなものをひきずった生命体がもとでは、イデは善き力を発動せぬ。」

この言葉における「イデ」は、そのまま「ニュータイプ」に置き換え可能なことは、ガンダムシリーズを見ていれば明白でしょう。

富野監督が「機動戦士ガンダム」の翌年に「伝説巨人イデオン」を製作し、その後長らくガンダムの続編は拒否していた理由も、同じく明白です。

ニュータイプの概念は、すでに翌年には限界が明白になっていたのです。





2.「逆襲のシャア」におけるストーリーの変更
1988年「逆襲のシャア」が公開されます。
これが、いわゆるファースト・ガンダムシリーズの最終作となり、アムロとシャアの戦いは終止符を打ちます。
ここでは、ある意味、「ニュータイプ」というものはどう生かされるか、どうあるべきかというものが描かれた作品でもあります。

しかし、今回注目したい点は、映画が、おもちゃ会社の意向により原作とは変更されている点です。
最も大きい変更点は、原作では、赤ん坊には特殊な生命への力を認めている点です。
例えば、ベルトーチカは、胎児の力により、強化人間にすら勝つことができます。
そして、地球の重力に魂を引きずられた人類を覚醒させ、ニュータイプへの道を歩ませることで、人々を理解しあえるようにしようというシャアが、
隕石落としによる地球の寒冷化を図ったとき、それを阻止しようとしたアムロとνガンダムに限界を超えたパワーを供給したのは、地球にいる全人類の赤ん坊たちの、無意識の生命の力でした。

つまり、初代ガンダム、Zガンダムから逆襲のシャアまでテーマとされてきたニュータイプや、「地球の重力に魂を引きずられた人々」、といったテーマよりも、赤ん坊の生命への欲求の方が、はるかに強いパワーを持っているわけです。

これは、まさに、イデオンが、赤ん坊に共鳴して無限力を発揮したのと同じことです。

ところが、このストーリーは、先ほども言ったように変更されます。
それは、あくまで、強いものはロボット(ガンダム的に言えばモビルスーツ)でなくてはいけないからというものでした。
ガンダムは、モビルスーツのプラモデルの販売で商売が成り立ち、映画も可能になっている以上、赤ん坊に優位性など持たせず、あくまでも兵器主導で盛り上げたいという考え方です。
富野監督は、これに理解をしめし、映画では赤ん坊がらみの部分は全て省きます。そして、原案は小説という形態で発表することにしました。

こうして、映画やテレビでは、ニュータイプという概念は、あくまでも優秀な兵士を示す概念として、おもちゃ会社の利益を継続させるために生き延びたわけです。


3.結論 「機動戦士ガンダム」のテーマの、唯一正当な続編としての「伝説巨人イデオン」

ガンダムの登場から20年以上たち、多くの続編が作られた現在の方が、ニュータイプが戦争終結に役に立たなかったことが明白な分、ガンダムのテーマ上の続編は、翌年に作られたイデオンだったのだということが、よく見えます。
そして、それ以降の全てのガンダムシリーズは最初のガンダムと翌年のイデオンの、途中段階のどこかにいるのだと。


ガンダムでニュータイプが華々しく描かれたとき、同時にザビ家の崩壊を描くことで、人類のエゴや業が描かれました。

そして、イデオンでは、特殊能力を、一般人に強制的に与えることで、しょせん、エゴや業は乗り越えられるものではないこと、生命そのもののもつ力の方が、はるかに希望に満ちていることが描かれました。

ガンダムから7年後、監督の当初の意思に反して製作が始まったZガンダム、ZZガンダムは、ニュータイプが人類の相互理解には役立たないことを明確にしたにすぎません。すでにイデオンで結論が出ていたテーマです。

逆襲のシャアで
は、明確に、ニュータイプという概念の限界が、シャアの隕石落としと、赤ん坊による生命への力での反発によって描かれるはずでしたが、おもちゃ会社の意向によりうやむやとなりました。

以上、これらの流れを見ていくと、「機動戦士ガンダム」の続編は、商業的(エンターテーメント的)にはZガンダムや逆襲のシャアであり、現在でも毎年製作されるガンダムシリーズですが、テーマの追求という意味では「伝説巨人イデオン」のみが、唯一後を継ぎ、極まった作品であることがわかると思います。



(参考)「逆襲のシャア」について
「逆襲のシャア」は映画ですが、小説版は2種類あります。 「逆襲のシャア」は映画のノベライズ。 「逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」は映画用に作られた原作で、上記の文章で「原作」といっているのはこちらになります。 私は、富野監督作品で涙が出たのは(というかロボットアニメで泣いたのは)、実は、イデオンの発動編と、小説版の「逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」の2つだけです。 自分にも子供が出来たからでしょうか・・ 映画を見た人にも、是非読んでほしい作品です。(一番右のやつです)




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ガンダムの唯一正当な後継者としてのイデオン