シャア・アズナブルは何故シャア・アズナブルという名前なのか(役者あるいは道化としてのシャア・アズナブル)


さて、第二論文で見たように、シャアの特質のひとつは、父母の暗殺という事件を、修正するかのようにふるまうことであった。
これは、幼年期から彼を支配していた精神的な傷を、無意識のうちに癒したいという願望による。

その表れが、ある時はザビ家暗殺であり、ある時は射撃をはずし続けることであり、ある時はザビ家のように、ネオ=ジオン軍の総帥として、地球に戦争をしかけることであった。

そう考えると、次のことも言えるはずである。

シャアは、戦争において、相手を倒すことよりも、父母の暗殺の思い出を修正することを(もちろん無意識のうちに)重視していた

つまり、彼にとっては、戦うことは、父母の暗殺を修正するための表現手段であり、アートだったのだ。

このことを確認してみよう。
彼は、ジオン軍に所属していたとき、本気で連邦軍を倒すことを目指してはいなかった。

彼は、エゥーゴにいたときも、本気でその他の全勢力をほろぼすことに必死ではなかった。
ティターンズを本気で倒したければ、TV版の彼の案(早期におけるグリプス2奪取)にしろ、小説版における彼の案(ジャミトフ暗殺)にしろ、もっと本気で主張したはずだ。

実際のところ、相手を倒すことは、最後のところでは、どうでもよかったようにも思える。彼が本気でハマーンを殺せたとも思えない。

同じことは逆襲のシャアでも言える。地球を氷河期にするのが目的なら、何もアムロともう一度戦う必要もなかった。

結局のところ、彼が戦う目的というのは、ひとつの、表現だったのである。
父母の暗殺を修正するような表現・・

さて、彼の本質を表現者としてみた場合、彼の行動の意味はまた一変する。

なぜ、彼は仮面をつけるのか?
なぜ、赤いマシンにのるのか?
なぜ、金色のマシンにのるのか?

もちろん、彼が、兵士であるよりも前に、表現者だからである。
彼には、相手を倒すことよりも、表現を演出することの方が、本質的な問題を孕んでいたのだ。

このことを、徹底的に鋭くついた者がいる。

ハマーン・カーンだ。


「シャア!お前はたいした役者だよ!!」(Zガンダム最終話)

そして、その瞬間、シャアは、劇場の舞台で上で、全身にスポットライトを浴びる。

このときほど、シャアの本質を見事に抉り出した表現、演出はないのではなかろうか?

ガンダム全篇の中でも、最も戦慄すべき瞬間であろう。


シャアにおける本質とは、戦いではなく、仮面をつけた演劇なのである。

ハマーンに言われるままに、彼は銃を捨てる。

武器を持つことよりも、舞台の上でスポットライトを浴び、演じることこそ、彼の本質なのだ。

自分が演出家であり、表現者であるということ。

彼がはっきりと口にする悩みはその点だった。

「これでは道化だ・・」

Zガンダムでも、逆襲のシャアでも演説のたびに、彼はそうつぶやいていた。

もっとも、文字通りの意味で道化なのは「機動戦士ガンダム」である。
真っ赤なスーツに白いヘルメットをつけた裏切り者・・

結局、彼は、最初から最後まで、演出家だった。

ハマーンの言うように「たいした役者(もっとも、褒めているというよりは、侮蔑のいろが強い)」か、本人が言うように「道化」かという違いはあるが・・

彼は、本気で倒そうとしていたのは、ザビ家だけなのである。
あとは、全て演技であった。

ハマーンは、もちろん、その点を見抜いていた。

しかし、そのハマーンでも、シャアがなぜ演じ続けるのかはわからなかったに違いない。

シャアは、道化のように、たいした役者のように、そして、ザビ家のように演じることで、常にひとつのことを、繰り返し、表現していたのである。

すなわち、「ザビ家に殺された両親」というシチュエーションの変更を、際限なく表現し、演じ続けていたのだ。


あるときは、道化が、ザビ家のものをひとりひとり殺害していく裏切りの復讐劇として。

またあるときは、暗殺を何度も失敗し続ける、やる気のない役者として。

そして最後に、ライバルであるアムロに倒される、ザビ家をそっくりにマネをした役者(あるいは道化)として。

彼の演出の隠された意図は、一貫して、ザビ家による父母の暗殺を修正するという演劇の上映であった。

これこそが、周囲の人々がうっすらと気づいていた彼の「病気」の本質である。

もちろん、彼自身にはそんな意図はなく、あくまでも無意識の意
図である。

しかし、彼が演劇を始める以上、まわりの登場人物も、しょせん、彼の劇の中の役者にすぎなくなってしまう。

そのことへの苛立ちが、Zガンダム最終話における、劇場でのハマーンの言葉にあふれている。

彼が、道化として、もしくは役者として、白い仮面をつけ、あるいは黒いサングラスをつけ、赤いモビルスーツ、もしくは金色のモビルスーツを乗りこなしたのも、彼の演技者としての特質をよく表現している。

そして、道化として、もしくは役者として、彼は、自分の本当の動機は最後まで隠したのだ。

いや、彼の無意識が、彼自身の意識にすら、彼の本当の動機を隠したと言うべきか・・

死の寸前に、「ララァは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」というまで・・

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ここまで考えてみると、富野監督が、なぜ、彼の名前をシャア・アズナブルという名前にしたか、よくわかる。
シャア・アズナブルというのは、フランスの昔の役者の名前である。
富野監督は、彼の本質が演技者であり、役者であることを、そもそも最初から、直感的に気づいていたに違いない。




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