シャア・アズナブル論 最後に


シャアは、もし、アクシズ落としに徹していれば、問題なく目的を果たしていただろう。

しかし、アクシズ落としという発想自体、父への固着からきており、また、個人史の問題と人類史の問題がダブって見えたため、アムロとの対決と切り離すことができなかった。

子供っぽいことも十分わかっていたが、これを最後にそのような子供っぽさはやめようと思っていたせいもあり、おごりもあっただろう。

また、目的を達したところで、自分は長生きすべきではないという覚悟もあったと思われる。

例えば、もう一度最初に戻って考えると、何故彼は仮面をつけていたのだろうか?

彼の行動のほとんどが偽装にすぎないこともあるが、両親が殺されたことや、彼自身が暗殺を得意としていたことを考慮すると、素顔をさらすことによる暗殺の恐怖が無意識にあったと考えられる。防弾の意味さえあったかもしれない。

ところが、彼は「逆襲のシャア」では仮面を脱ぐ。そして、演説で、「父ジオンの元に召されるであろう」と言っている。
これは、やはり、以前ほど生に固執する気がなくなってきたと思える。

シャアは、結果として中途半端な戦いをしてしまった。

富野監督
「シャアは凄い人です。彼が悩まなければ、ZZガンダムは5話で終わってしまう。アムロもすぐ殺されてしまう。でも、結局、悩んで、最後は負けるタイプだろうね。」

では、彼はなぜ悩んだのか?
それは、彼にはあまりにも事態が読み通せすぎたせいである。


「それでは、過去から言われていたように、戦争が文明を発展させたという古い規範から、人は一歩も出ることはできない。」

「違う!人は、違うのだ。」

「叡智と気力、そして、精神を、なぜ人は、他人にぶつけることだけで満足して死んでゆけるのか?」
(byダカール演説 小説版)



どのように戦争を行い、権力闘争が行われても、それは歴史の繰り返しでしかないという洞察。

そして、それを超えるには、宇宙という場への進出が、もしかして新しい場へ人々を導けるのではないかという希望。


しかし、父を暗殺されたことからくる、一部の者が権力を握ることへの憎しみ。また、彼自身が戦いの中に身をおくことに固着している点。

ザビ家と自分との確執、アムロとのララァを挟んだ確執、それを繰り返すようなカミーユとフォウ・・どこまで見ても、同じことの繰り返しが見える。

歴史への洞察と、少年期への固着に対し、洞察があればあるほど、単純に動くことは彼にはできず、悩むこととなった。

「これでは、道化だ・・」(Zガンダム)

その結果、苦肉の策として、彼は「粛清」により、人類と自分とを、同時に過去への呪縛から解き放とうとする。

しかし、事態が見通せ過ぎる彼には、しょせん、ひとつの方向に徹することはできなかっであろう。

作戦の失敗が明白になったとき、最後に彼はつぶやく・・

「しかし、アルテイシア、この結果は、地球に住んでいるアルテイシアには、よかったのだな・・・」(小説版ベルトーチカチルドレン)

ララァがそもそも命を落としたのも、セイラを生かすためである。

そのセイラを、いまさら、シャアが殺せるわけもなかったのである。


アムロ「シャアは、優しすぎる人なんだ」(Zガンダム)

さて、もし、シャアが、ララァが死なず、シャアがララァを導き手として少年期への固着を抜け出ていれば、どうなったであろうか?
彼の問題意識も才能も、随分と違う発現をしたことだろうし、ハマーンも歪まなかっただろう。

ハヤト「あなたは、たとえ20年、30年かかっても、地球の首相になる人です!」

カイ「リーダーになる力があるのになろうとしないシャアは卑怯だ!」

フレックス准将「君は、リーダーになって、人々を率いるべきだ」

ハマーン「シャア、私の元に戻ってきてくれれば・・」

カミーユ「ぼくもあなたを信じます!生き延びてください!」


彼が、ニュータイプとして覚醒しきれなかったことは、彼が自分の少年期への固着から最後まで抜け出せなかったこと、そして、人類が母なる地球に引かれる点を脱し切れなかったこととイコールである。


「ララァ・スンは私の母になってくれたかもしれなかった女性だ」

ララァが生きていれば、人類は真に偉大なリーダーを得て、よりよく刻(とき)を超えることができたかもしれない。




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