シャア・アズナブル論 第三章
第三章 アクシズ落としにおける2つの意味・・少年期の事件からの自立と、人類の揺籃期からの自立
「今日がな、わたしのなかの馬鹿な男と訣別する日なのだ・・」(逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」より)
いままで見てきたように、彼のアクシズ落としの作戦は、2つの目的の総決算である。
父への固着からくる人類の粛清と、母への固着からくるアムロとの対決との。
シャア「人は誰も、引きずっているものは死ぬまで捨てられんよ」(Zガンダム32話)
しかし、もし、本当に地球へのアクシズ落としが目的なら、アムロを暗殺するか、少なくともνガンダムにテクノロジーを渡すべきではなかったのも当然のことである。
そして、彼自身、自分の不可解な行動が、ザビ家への復讐から何から全て少年時代に固着している、子供っぽい衝動であることにも気づいていた。
それでも、彼は、あくまでも、アクシズ落としとアムロとの対決を同時にやりたかったのである。
なぜか?
それは、彼が、今回の作戦の内面的な動機を、自分が少年期への固着から抜け出ることにおいていたからである。
そのために、彼は、最後にどうしても、アムロと戦い、勝つことで、自分の少年期への固着、つまり父と母への固着を断ち切りたかったのである。
「男にはつまらん意地がある。」
「今日がな、わたしのなかの馬鹿な男と訣別する日なのだ。これだけは黙ってみてくれ」(逆襲のシャア ベルトーチカチルドレンより)
また、彼が、地球への粛清と言う言葉を唐突に言い始めたことにも注意が必要である。
Zガンダムの時点では、地球を汚染することを徹底的に嫌っていた彼が、「逆襲のシャア」においては、大規模な損害を地球に与えようとしている。
この点については、彼が、地球人類全体を揺籃期から自立すべきという、極めて人間的な成長になぞらえて捉えていたことが注目される。
例えば、シャアの2つの発言を比較してみてほしい。
「ならば、今すぐ、愚民どもすべてに英知を授けて見ろ!」(人類史)
「今日がな、わたしのなかの馬鹿な男と訣別する日なのだ。」(個人史)
逆襲のシャアにおける、この2つのセリフは、ほとんど同じリズムで語られていることに注意しよう。
人類史の問題と、個人史の問題は、ジオン・ダイクンの息子であり、暗殺された父の子であるシャアにとっては、切り離せない問題なのだ。
次の言葉も同様である。
シャア「人は長い間、この地球というゆりかごの中で戯れてきた。しかし、時はすでに人類を地球から、巣立たせるときが来たのだ。人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星ではなくなるのだ!」(Zガンダム 37話 ダカール演説より)
自分自身が、少年期への固着から抜けて自立する苦しみと、地球の人類自体が自立する苦しみが彼にはダブって捕らえられており、その結果が、隕石落としの「粛清」につながったのだ。
つまり、彼の心の中では、地球にこだわる人類への「粛清」は、少年期への固着から抜け出せない自分自身への「粛清」と重ね合わさっていたのである。
つまり、アクシズ落としとは、シャアにとって3つの観点で一致した作戦だった。
@父ジオン・ダイクンの意思を継ぐ者として、人類を宇宙に進める。=父への固着
Aアムロと再度戦い、勝つ。=母への固着
そして、この2つを成功させることで、彼は、自分自身の、少年期への固着(父への固着と母への固着)を同時に打ち破ろうとしたのである。
その結果、
B粛清という過激な方法により、自分自身の少年期への固着を打ち破り、並行して、地球人類全体の母なる地球への固着を打ち破る。
彼は、権力を私欲で手にするものを嫌っていたから、自分が権力者になりたかったわけではない。
しかし、この作戦を決行することで、自分の個人史と、人類史の問題を同時に解消したかったのである。
だからこそ、最後に、人類を自立させるはずだったアクシズ落としをアムロに作戦を阻まれたとき、アムロに言った言葉は、「ララァ・スンは、私の母になってくれるかもしれなかった女性だ」なのである。
一貫して、人類史の母なる地球への固着の問題と、自分自身の母への固着の問題が結びついているのだ。
彼にとっては、人類を母なる地球から自立させることに失敗したことは、自分が母への固着から脱却するのに失敗したことと、同様の意味で捉えられているのである。